宗教改革 [英]reformation

竹原創一(立教大学名誉教授・当教会元長老)
キリスト教史上、教会の改革はどの時代にもみられるが、とりわけ16世紀における西方教会の改革を「宗教改革」と呼ぶ。
中世ヨーロッパを特徴づけるローマ・カトリック教会の統一的宗教支配は宗教改革によって終焉し、以後西方教会は教義上も組織上もローマ・カトリック教会とプロテスタント教会に分かれる。改革は時期、地域、指導者ごとに特色をもち、プロテスタント教会はいくつもの教派に分かれる。また改革は教会制度や神学の領域にとどまらず、政治・経済・社会・文化の諸領域に及ぶ。このような包括的運動としての宗教改革を、代表的指導者ルターを中心に三つの時期に分けて見る。

[前駆]14世紀以降、国民主義のたかまりと教皇庁の衰退の中で、ローマ・カトリック教会の普遍主義や聖職位階制(ヒエラルヒー)が批判され、イングランドのウィクリフ、ボヘミアのフスなどによって改革が起こされた。
ルターの改革へつながる思想運動として、
(a)トマス主義に対抗し、「新しい道」(via moderna)を開いたオッカムの唯名論、
(b)フローテが創始し、トマス・ア・ケンピスらが輩出し、神秘主義的性格をもつ共同生活兄弟団の「新しい信心」(devotio moderna)、
(c)「源泉へ」(ad fontes)の標語のもとにギリシア・ローマ古典をはじめ、聖書文献学の成果をもたらした人文主義があげられる。

[ルターの改革]95箇条論題の提示(1517年)が宗教改革の歴史的発端とされる。この論題は悔い改めを主題とし、ローマ・カトリック教会の贖宥制度を批判する。これにより、聖職位階制とサクラメント(秘跡)を要件とするローマ・カトリック教会のあり方が批判される。ルターによれば救いは各人の信仰のみによるとされ、信仰義認論が宗教改革の原理となる。この原理をルターは1513年以来ヴィッテンベルク大学で聖書講義をする中で、「受動的な神の義」の発見(いわゆる「塔の体験」)をもって確立した。これが宗教改革の内面的発端と言える。ライプチヒ討論(1519年)などを経てローマ・カトリック教会とルターの立場の相違が一層明確になり、1521年ついにルターは異端宣告を受ける。その後彼は聖書のドイツ語訳と聖書注解にうち込む一方、かつて彼の同調者であったミュンツァー、エラスムス、ツヴィングリらと改革のあり方をめぐって論争する。
(a)ドイツ農民戦争の思想的、実践的指導者であり、急進的社会改革を目ざしたミュンツァーは、聖職位階制のみならず教会そのものをも聖書をも否定し、終末論的な霊の直接支配を説いた。ルターはミュンツァーを霊的熱狂主義者(Schwärmer)と呼んで批判した。
(b)当代最大の人文主義者エラスムスは、新約聖書校訂版の出版(初版1516年)によってルターの改革に寄与したが、救いのために人間の意志がはたらきうることを容認する『自由意志論』(1524年)を著してルターと対立した。ルターはエラスムスによって取り上げられた自由意志の問題こそ宗教改革における論争の要であるとし、自ら主著とする『奴隷意志論』(1525年)をもって反論した。
(c)チューリヒの宗教改革者であり、スイス改革派の祖であるツヴィングリは、「信仰のみ」、「聖書のみ」の原理ではルターと一致したが、サクラメント論では象徴説をとり、キリスト現臨説をとるルターと対立した。両者はマールブルク会談(1529)の調停にもかかわらず一致しえず、以来プロテスタント教会内にドイツルター派とスイス改革派の二大潮流が存続することになる。ツヴィングリはチューリヒでは幼児洗礼を否認する再洗礼派と対立を深めた。

[ルター以後](a)メランヒトンが『ロキ・コンムネス』(初版1521年)によってはじめてプロテスタント神学を体系化した。これがプロテスタント正統主義の出発点となる。正統主義は政治的にはアウクスブルク宗教和議(1555年)で承認されたドイツルター派領邦教会の形をとった。17世紀に客観的信仰を説く正統主義を批判して、経験的信仰を重んじる敬虔主義が起こった。正統主義も敬虔主義もルターの宗教改革を継承するものと自認する。
(b)カルヴァンの『キリスト教綱要』(初版1536年)もプロテスタント神学の体系的著作である。この体系のうちには、ルターでは明確でなかったキリスト者の能動的社会倫理学説が組み込まれている。これはマックス・ウエーバーが指摘するカルヴィニズムの社会的経済的能動性を示すものである。カルヴィニズムはスイス改革派を確立し、フランス、オランダではユグノー派として、またイングランドではピューリタニズムとして展開する。
(c)イングランド王ヘンリー8世は『7つのサクラメントの主張』(1521年)を著してルターを批判したことによりローマ教皇から「信仰の擁護者」の称号を受けた。しかし首長令(1534年)によってイングランド国教会をローマ・カトリック教会から独立させたことによって破門された(1538年)。このことにも示されるように、イングランド国教会は、ローマ・カトリック教会とプロテスタント教会の両要素をもつ。そのためエリザベス1世即位(1558年)以後、イングランド国教会にピューリタンによる改革運動が起こる。
(d)宗教改革はローマ・カトリック教会内に対抗宗教改革を引き起こした。トリエント公会議(1545-63年)が開かれ、宗教改革の神学の断罪とカトリック神学の再構築が図られた。またイグナチウス・デ・ロヨラはイエズス会を起こし、ローマ・カトリック教会自身の改革および海外伝道に努めた。

[参考文献]『宗教改革著作集』教文館

   
   
   

プロテスタンティズム [英]protestantism

竹原創一(立教大学名誉教授・当教会元長老)
16世紀の宗教改革によってカトリシズムから分かれて成立したキリスト教。新教とも呼ばれる。プロテスタンティズムはさらに多くの教派に分かれる。
「プロテスタンテス(抗議する者たち)」という名称は、宗教改革時代のドイツのシュパイエル国会(1529)において、改革推進派の少数の諸侯が、改革阻止を決議した絶対多数のカトリックから成る議会に対し抗議(プロテスタティオ)したことに由来する。その抗議では、信仰の事柄については神の前に立つ各個人の良心の決断が重要であり、多数決によって決定すべきでないと訴えられている。
その後プロテスタントの抗議は、単にカトリックに対してのみならず、自らに対しても向けられ、「改革された教会は不断に改革されるべきである」と言われる。それゆえプロテスタンティズム自身が時代と共に変化する。
16世紀にルターやカルヴァンの改革によって成立した「古プロテスタンティズム」は、17世紀の正統主義による教理の体系化、客観化と、それに対する敬虔主義の批判を経た後、18世紀の啓蒙主義、ロマン主義との折衝・結合により「新プロテスタンティズム」となった。新プロテスタンティズムは近代の資本主義、民主主義および諸学問と結びつく。しかしこの新プロテスタンティズムも、20世紀の第1次世界大戦を契機に、宗教改革の原点に戻ろうとするK.バルトらの提唱する危機(弁証法)神学によって批判される。
このような教派や時代による多様性にもかかわらず、プロテスタンティズムの統一的原理として、
(a)信仰義認論(「信仰のみ」、「恩寵のみ」)、
(b)聖書原理(「聖書のみ」)、
(c)万人祭司論(聖職位階制の否定、信仰者個人の自律、世俗内職業の積極的評価)
などがあげられる。