異端

「異端とは何か」について、いろいろな立場や考え方があるでしょうが、私たちは次のように考えます。
難しい問題ですが、端的に言えば、異端とは正統的な教義に反する教えを意味します。
異端は、宗教ばかりでなく、あらゆる学説や思想においても起こります。そこで「正統」であるとは、歴史的・社会的に認められ、受け入れられている立場ということになるでしょう。
気を付けなければいけないことに、独善的に自らを正統であると主張する過ちがあります。客観的に正統であると言われるものは、長い歴史に洗われ、普遍的なものとして残ってきたものであると言えるでしょう。そこから、異端とは、同じ宗教や学説を標榜しながら、その正統とされる立場や考えに反するものだと言えます。

キリスト教において、長い歴史に洗われるというのは、ただ時間的な経過があるという意味ではありません。信仰の重要な事柄に関していろいろな説が出て来て混乱する中、公的な教会会議を通して議論が積み重ねられてきました。いくつかの重要な教会会議において、教会として打ち立てた考え方や立場があります。それが信条や信仰告白という形として結実しました。
長いキリスト教の歴史の中で、数多くの信仰告白がまとめられてきていますが、その中でも、基本信条と言われる「使徒信条」、「ニケア・コンスタンチノーポリス信条」(4世紀)等が、異端であるかどうかを判断する最も原則的な規範(ものさし)となります。

11世紀に教会は東西に分裂しましたが、西方教会であるローマ・カトリック教会も東方教会である正教会(ギリシア正教会・ロシア正教会など)も、また16世紀に宗教改革によりローマ・カトリック教会から分裂したプロテスタント諸教会もともに「使徒信条」「ニケア・コンスタンチノーポリス信条」にのっとっており、その故に正統的キリスト教と言われています。

まぎらわしい異端がキリスト教を標榜して現れますが、この基本信条に言い表されている教義からの逸脱をもって、異端と判断されます。
例えば、「イエス・キリストは真の神であり且つ真の人である」という正統的キリスト教の立場に対し、「イエス・キリストは神であって人ではない」とか「イエス・キリストは人であって神ではない」とか「イエス・キリストは人として生まれたが、洗礼を受けたことにより神になった」とする立場などを異端としているのです。

異端の問題性は、教義上の事柄だけであるならば、信教の自由が認められる現代にあって、いわゆる商標権のようなものを侵すことがない限りにおいて、認められるべきでありましょう。
しかし、往々にして異端の問題性は、社会的に受け入れられない反社会的な問題行動を起こすことにあります。宗教的な言説を用いての心理的誘導や操作によってなされる金銭の略取、社会的責任の不履行、治療行為の妨害などが現実的に起こってきているものです。そこでは聖書を曲解し、聖書に勝手な付加や削除を行い、また聖書以外のものを正典とし、自分たちに都合のよい言葉を神の権威のもとに作り上げようとすることがなされます。
また特定の人物(教祖にあたる者)に神の啓示があったとして、上記の正統的なな教えと異なることを教えるケースが多く見受けられます。そこではしばしば作り話や嘘が織り込まれてきます。それはもはや聖書の'解釈の違い'というレベルでは済まない、教会の伝統的な教義からの決定的な逸脱をなしています。巧みな作り話や心理操作を伴う「惑わし」に捕らわれることなく、歴史的、批判的、学問的検証をもって、異端と正統とを見極めることを願うものです。

最後に、新約聖書の中で、イエス・キリスト御自身が教えられた言葉や初代教会の中に起こった異端について記されている言葉を紹介します。
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。」(マタイによる福音書7:15)

「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。」(マタイによる福音書24:24)

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(コリントの信徒への手紙二11:13−15)

「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです。」(ガラテヤの信徒への手紙1:6−7)

「子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(ヨハネの手紙一2:18、22)

「人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです。」(ヨハネの手紙二1:7)
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」(ペトロの手紙二2:1−3)


《使徒信条》

我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。我はその独り子,我らの主,イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生れ,ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府にくだり,三日目に死人のうちよりよみがへり,天に昇り,全能の父なる神の右に坐したまへり,かしこより来りて,生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず,聖なる公同の教会,聖徒の交はり,罪の赦し,身体のよみがへり,永遠の生命を信ず。       アーメン。


《ニケア・コンスタンチノーポリス信条》

私たちは、ただひとりの神、すべてを支配される父、天と地と見えるものと見えないもののすべての造り主を信じます。またただひとりの主イエス・キリストを信じます。主は神のみ子、御ひとり子であって、世々に先立って父から生まれ、光からの光、まことの神からのまことの神、造られたのでなくて生まれ、父と同質であって、すべてのものは主によって造られました。主は人間である私たちのため、私たちの救いのために、天からくだり、聖霊によりおとめマリアによって受肉し、人となり、私たちのためにポンティオ・ピラトのもとで十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書にあるとおり三日目に復活し、天にのぼられました。そして父の右に座しておられます。また生きてる者と死んだ者をさばくために、栄光のうちに再び来られます。そのみ国は終わることがありません。また聖霊を信じます。聖霊は主、いのちの与えぬし主であり、父(と子)から出て、父と子と共に礼拝され、共に栄光を帰せられます。そして預言者によって語られました。私たちは、一つの聖なる公同の使徒的な教会を信じます。罪のゆるしのためのひとつのバプテスマを認めます。死者の復活と、来るべき世のいのちを待ち望みます。アーメン
(日本キリスト教協議会共同訳)