日本における布教の歴史

日本においてキリスト教がとくにさかんに布教された時期として、徳川幕府による鎖国期前後の2つの時期があげられます。

第1の時期は1549年イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってはじめて日本にキリスト教が伝えられてから、秀吉や家康の禁教令によってキリスト教が弾圧を受け、鎖国に入るまでの時期です。この時期には、九州や近畿にキリシタン大名が生まれ、領民もキリシタンとなり、その数は1600年ごろには60万人にも達したと伝えられています。当時の日本の人口は約2500万人でしたから、キリスト者の割合は今日より高かったと言えます。キリシタン大名の中には鉄砲や貿易による利益への関心からキリシタンになった者もいましたが、高山右近のようにこの世での不利益を受けながら信仰を貫いた大名もいました。
その後徳川幕府により踏絵や宗門改めなどの禁教政策がとられ、1637−38年の島原天草の乱以降激しい弾圧と徹底した鎖国の中でキリシタンは消滅せざるをえませんでした。ただほんの一部が隠れキリシタンとして生き延びました。
この時期における日本の文化とキリスト教との注目すべき出会いまた融合として、茶道と久留子紋があげられます。茶道における主客一如は、キリスト教の聖餐式における神と人、階層を超えた人と人との一致に通じ、じっさい茶道の神髄を極めた者の中にキリシタンが多かったと言われています。また久留子(クルス=十字架)紋が家紋とされ、大事な武具や家具に十字架が刻印されました。また隠れキリシタンの納戸神やマリア観音像も特異な融合の例です。

第2の時期は幕末の開国(1859年)から、明治維新による日本の西欧化・近代化の時期です。明治初期にはなおキリシタン禁制が続いていましたが、欧米キリスト教諸国からの圧力もあって、1873年「キリシタン禁制の高札の撤去」、1889年「大日本帝国憲法」制定による信教の自由の保障によって、徐々にキリスト教布教の道が開かれていきました。禁教がなお続いていた時期から宣教師たち(その多くはアメリカのプロテスタント)は英語教育や聖書翻訳によって布教に努めました。横浜のバラ、ヘッバーン、ブラウン、熊本洋学校のジェーンズ、札幌農学校のクラークらのもとに、キリスト教青年団(バンドと称される)が結成され、そこから日本のキリスト教の指導者たちが輩出しました。代表的人物として、植村正久、小崎弘道、内村鑑三らがあげられます。彼らは共通に高い学識と倫理観をもちながら明治維新において疎外された没落武士階級出身者でした。彼らは明治維新政府による政治的維新以上の精神的維新をキリスト教によって日本にもたらすことを志しました。横浜バンドは長老派の教会、信条、神学を重視し、熊本バンドは日本組合教会の土台を形成し、国家社会問題に関心を寄せ、札幌バンドの内村鑑三は無教会主義を提唱し、欧米の伝統的教会形式によらず、聖書講義をとおして信仰者のあり方を追求しました。これら3つのバンドの特徴がその後の日本のプロテスタント教会の基本的型を示しています。
明治期のキリスト教は、日本の欧米化・近代化に寄与する一方で、急激な富国強兵政策の陰に取り残された弱者を救済することにも努めました。隣人愛に基づいて被差別部落解放運動、廃娼運動、孤児院設立、更正保護事業、知的障害者施設やハンセン病および結核医療施設設立などを推進しました。女性の人権保護のために基督教婦人矯風会が大きな役割を果たしました。また社会的弱者の立場に立つ社会主義運動の指導者の多くはキリスト者でした。足尾銅山鉱毒事件に立ち向かったのもキリスト者でした。また非戦平和主義をクエーカーはじめ、内村鑑三などキリスト者が唱えました。社会鍋などで知られる救世軍はとくに社会的救済活動に熱心でした。これらの社会活動によってもキリスト教は日本に徐々に浸透していきました。
しかし徳川幕府による禁教政策以来のキリスト教に対する邪教観が日本社会に根強くあり、それは昭和期の軍国主義的天皇制国家体制下でとくに明らかになっていきました。

参照文献:
海老沢有道・大内三郎共著『日本キリスト教史』日本基督教団出版局1970年
鈴木範久著『日本キリスト教史物語』教文館2001年