長老改革派教会とは

長老改革派教会について様々な意見や考え方がありますが、私たちは以下のように考えます。

1.御旨を求めて
聖書に、教会は「キリストを頭(かしら)とした一つのからだ」(エフェソ1:23,コロサイ1:18)と教えられています。そのように教会が教会としてあるためには、教会の頭なるキリストの御旨(みむね/御意志)に従うことが一番大切なことになります。体のいろいろな部分が、勝手に動くのではなく、頭の意志に従って動くところに、一つのからだとしての教会が成り立ちます。これは一つの教会においても、また教会の集合体としての全体教会においても同じです。

そこで信仰者の共同体として、この地上にそのような教会を実現しようとするにあたって、頭なるキリストの御旨をどう聞き取っていくのかが、大切なポイントになります。それに関して、長い教会の歴史の中で、大きく次の三つの制度がまとめられてきました。監督制、長老制、会衆制と言います。この制度の違いを見る一つのカギは、御旨を聞き取って、具体化していく決定権を持つ人の「数」にあると言えるでしょう。御旨を聞くということは、聞いたことに従うという行為が伴います。キリストの御旨を如何に聞くかということは、教会の様々な事柄の決定権(権威の座)がどこにあるのかということと不可分なのです。

監督制は一人の人(監督)に、長老制は複数の人(長老)に、会衆制は教会員全員にその権限が託されていると信じて成り立つ制度です。
その違いを飯清牧師が『信教コイノーニア6 合同教会としての日本基督教団』(新教出版)という書の中で次のように興味深く紹介されています。
「1980年代に上記三つの制度の教派的伝統をもった、古い大きな教会が相次いで会堂を改築したそうです。メソジスト教会(監督制)の伝統のある銀座教会は、牧師が建築委員を指名して工事がすすめられました。長老改革派教会(長老制)の伝統のある富士見町教会は、教会総会で全体計画が承認された後ですが、長老会の決議によって具体的な工事がすすめられました。組合教会(会衆制)の伝統のある霊南坂教会では、何度も会員全体協議会が開かれ、そこで外装の赤煉瓦の色合いにいたるまで協議して会員投票によって決めて工事がすすめられたということです。」
他にも実例が挙げられ、牧師の人事も監督制では監督の任命により、長老制では中会と呼ばれる複数の教会の長老たちの会議で決められ、会衆制では各個教会の総会が最終的な権威をもって招聘する(教会員の一人に委任する)という形になります。

2.長老改革派教会
長老改革派の教会と言えば、教会に長老を立てているというのが、一番分かりやすいかもしれません。確かに、御言葉に従い、長老は教会のために、特別に主によって選ばれ立てられた者であると信ずる信仰が基本にあると言えます。
長老は、自分たちの代表者として自分たちが立てる者ではありません。あくまで神が立て給う者なのです。複数の長老たちによって長老会が組織され、主の御旨を祈り求めつつ教会の歩みに関する決断がなされ、実行に移されていきます。そこで大事な点は、いくら神に選ばれ立てられたといっても、一人一人がただ主観的な判断で重要なことを決するのではないということです。長老制の教会運営の要は、ただ複数の長老によって物事が決せられるということではなく、長老会が法(教会規則)を定め、法に基づいて運営していくということです。教会総会は、長老を選び立てるという神の御業に参与するということが最も重要なつとめになります。

しかし、長老制による教会形成というものは、本来一つの教会だけでできるものではありません。「中会」"presbytery"(各個教会の長老会を「小会」と呼んだのに対して)と呼ばれる、交わりを持つことのできる地域の教会の長老たちが集まった教会会議において、最も重要な主の御旨を聞き取り、具体的なことを決定します。「大会」(全国的なそれぞれの中会から選ばれた議員によって構成される)に重きをおく教派もありますが、いずれにしても、自分たちの教会だけが教会なのではなく、信仰を同じくする教会が集まって一つの教会(全体教会)であると信ずることが根底にあります。

長老改革派の教会の特徴として、信仰告白と教会法を重んずることが挙げられるでしょう。信仰告白は教会が一つとなる要であり、教会法はその教会がどういうルール(規則/約束事・契約)で歩むかということを定めたものです。洗礼において私たち一人一人はキリストによる新しい契約を神と結ぶわけですが、それはキリストのからだなる教会に結ばれるということでもあり、すなわち教会という共同体の契約に加わることでもあるのです。法とはその契約内容を表すものでもあるのです。

私たち小金井緑町教会は歴史的に長老改革派の教会の伝統を受け継ぎながら、日本基督教団(以下「教団」と略します。)という合同教会の中に誕生した教会です。教団は三つの制度をもった教会が合同したため、それぞれの制度を純粋に維持することはできなくなりました。
それをマイナスととらえることもできるでしょうが、私たちはそれぞれの伝統を尊びながら出来る限りその伝統的なよさを継承していこうと願います。中会がなければ長老教会を標榜することなどナンセンスだという厳しい意見もあります。純粋に長老制を追い求めようとすれば、確かにそうでしょう。しかし、主によってこの合同教会である教団に召されてあることを信ずるが故に、中会の果たした役割を現在の教団の機構の中に、あるいは有志的な集まりの中に見出していこうとするものです。

これまで長老制度としての側面から長老改革派教会の特質について見てきましたが、名前の中には改革派教会という言い方も含んでいます。改革派という時、広い意味ではカトリック教会に対して、宗教改革の原理に立つプロテスタント教会をさしますが、しかし狭い意味では主にヨーロッパでルーテル教会(ルター派)に対して、カルヴァン以来受け継いでいるスイスの宗教改革の伝統と遺産を受け継ぐ教会をさしています。同じ信仰の傾向を持ちながら、監督制の英国国教会と対決して新たな教会の制度的な旗印をかかげようとした所では、長老派(長老主義)という言い方がなされます。改革派の「改革」とは、神の言葉による改革という意味です。それは何よりもまず神の言葉としての聖書に権威をおき、徹底した神の超越性と主権と恩恵の重視ということを特徴とし、それらが信仰告白や教理問答や礼拝の指針、教会規則などに結実してきています。それは監督制の英国国教会や会衆制の教会にも受け継がれているものでもあります。長老改革派教会と言う時、端的に言えば、教会の制度的な側面を「長老派」、教理的な側面を「改革派」と言いあらわしています。