フランスのプロテスタント

和田光司(聖学院大学教授/当教会員)

[フランス社会における重要性]
フランスはカトリック国ですが、プロテスタントも存在します。人口の約1%で、日本のクリスチャン人口とほぼ同じです。両者は社会において人口比以上の重要性を有する点でも似ています。たとえば文化人では「狭き門」の作者である作家のジッド、哲学者リクール、映画監督ゴダール(出身はスイス)などが、政治家では社会党で首相を務めたロカールとジョスパンが有名です。実業界にも影響力は強く、それぞれ自動車会社を創始したシトロエン家とプジョー家もプロテスタントでした。また19世紀のフランス近代教育の形成においても大きな影響を与えました。
[ユグノー] 
フランスのプロテスタントは「ユグノー」とも呼ばれます。語源はドイツ語の「アイトゲノッセン」(同盟者たち)です。これが16世紀前半のジュネーヴ(現スイス)でフランス語風に訛って「ユグノー」になり、その後複雑な経緯を経てフランスのプロテスタントに用いられるようになりました。ただし「ユグノー」という言葉は敵側がプロテスタントを揶揄するために使っていた蔑称で、プロテスタント自身は進んで使っておらず、彼らはむしろ「改革された教会」「改革された宗教」(いわゆる「改革派」のこと)という呼び方を好んでいました。今日ではプロテスタントへの敵対も薄れたため、自ら「ユグノー」を名乗ることも多いようです。
[歴史1]
ルターは1517年に宗教改革を始め、その流れはフランスにも広がりましたが、歴代の国王により迫害されます。にもかかわらずフランスでは信徒が増え続けます。これはジュネーヴからフランスへの宣教を積極的に行うカルヴァンの影響でした。彼自身フランス人であり、祖国のプロテスタント化に強い使命感を抱いていました。プロテスタントは大貴族層にも広まり、貴族の権力争いの影響もあって、16世紀後半のフランスはカトリック対プロテスタントの宗教戦争になります。戦争は36年の長きに亘りますが、結局1598年に「ナント王令」(以前は「勅令」と言われましたが、天皇による発令という意味合いがあるため、近年では「王令」と呼ばれます)が発布され、プロテスタントは部分的に容認されます。部分的とはいえ、一国一宗教が当然であった時代に宗教的少数派が認められたことは画期的でした。今でもフランスのプロテスタント教会には、「この教会の最初の殉教者は15△△年のA氏とB氏」である、といったプレートが掛かっている教会もあります。彼らにとってこの時代の迫害の記憶は今なお色あせてはいないようです。
[歴史2]
公認されたとはいえプロテスタントは多難の道を歩みます。17世紀はカトリック改革(宗教改革に対する巻き返し)がフランスでも進展した時代で、国王(ルイ13世)によるプロテスタントへの圧力も高まり、宗教戦争が再発します。プロテスタントは敗れ、彼らは1629年のアレス王令で軍事力を奪われることになりました。以後、彼らの運命は国王の意のままになります。1685年、国王(ルイ14世)はナント王令を廃止し、プロテスタントを禁止しました。ルイ14世はヴェルサイユ宮殿を作った国王として有名ですが、この時期のプロテスタントへの迫害は過酷であり、彼の暗黒面として有名です。信徒はカトリック信仰を強制され、国外亡命も禁止されました。しかし20万人が密かに亡命します。これは当時の信徒の四分の一で全人口の一パーセントでした。亡命先はオランダ、ドイツ、イギリス、スイスなどです。彼らは絹織物など当時の先端技術を持っており、この流出によってフランス産業は痛手を受けたと考えられています。改宗を拒んだり亡命に失敗したプロテスタントには処罰が待っていました。男性はガレー船の漕刑囚(昔「ベン・ハー」という映画に似たような場面がありました)、女性は投獄です。今でもフランスの各地に迫害期を記念する場所が残っています。たとえば南フランスの港町マルセイユの沖合にイフ島という島があります。これはかつて牢獄に使われていた島で、デュマの小説「モンテ・クリスト伯」(日本では「巌窟王」として知られています)でも主人公が閉じ込められた島になっており、現在は観光地になっています。ここにはかつてプロテスタントも収監されていました。現在ではその記念のプレートを見ることができます。
[歴史3]
国内に残った信徒は密かに地下教会を組織します。これは「荒野の教会」と呼ばれて、スイスの神学校から牧師が派遣されました。集会に国王の密偵が忍び込まないように信徒は秘密のメダルを分与され、参加時にはこれを持参しました。彼らの聖書は隠すのに容易なポケット版でした。聖具や説教壇も組み立て式で、外の見張り番の合図があれば即座に解体されて隠されました。現在のフランス・プロテスタントはこの時代を自分たちのアイデンティティの拠り所にしています。南フランスの山岳地帯のセヴェンヌ地方に「荒野の博物館」という場所があります。これは、かつてこの地方で反乱を起こした指導者の生家を博物館にしたものですが、ここには特に迫害期を中心にしてフランス・プロテスタントの諸資料が展示され、いわゆる彼らの「聖地」となっています。毎年9月の最初の日曜日には記念集会が開かれ、その時には子孫の有志が全国から集まります。一般にフランスのプロテスタントは自分の家系の歴史には大変関心を持っており、これに誇りを抱いています。
[歴史4]
1789年、フランス革命が勃発します。これによって迫害の時代は終わり、プロテスタントは信仰の自由を与えられました。1802年、ナポレオンはそれまでのカトリックに加えてプロテスタントとユダヤ教も国教として認めました。これを「公認宗教制」と呼びます。ナポレオンはプロテスタントのためにカトリックから教会堂を取り上げて彼らに与え、牧師は国家公務員になりました。約一世紀後の1905年、フランスは政教分離を決定し、公認宗教制は廃止されました。現在、フランスは世界で最も厳しい政教分離国といわれています。プロテスタントは国教ではなくなりましたが、ナポレオンから与えられた教会堂は現在でもそのまま使用されています。1914年に第一次世界大戦が起こります。その後ヨーロッパではファシズムが台頭し第二次世界大戦へと進むのですが、フランスもナチスに占領されたためユダヤ人迫害が起こりました。同じく迫害の記憶を持つプロテスタントは、この時期ユダヤ人保護のために積極的に活動したことが知られています。
[カトリックとの関係]
第二次世界大戦後、1960年代に第二バチカン公会議が開かれて教会合同運動(エキュメニズム)が起こり、カトリックとプロテスタントは和解の道を歩みます。現在、両者は友好的関係を保ち、宗教的立場から共同で社会にメッセージを発することが多くなっています。たとえばフランスは政教分離が徹底されすぎたため、公立学校で宗教的内容を扱うことができません。その結果、若年層には常識的な宗教的知識も欠ける傾向があり、一般的な思想や歴史を学ぶ際にハンディになっているといわれています。(日本では「倫理」の授業で仏教やキリスト教の基礎知識を学んでいます)。カトリックとプロテスタントはこのような状況の是正を求めています。また、イスラム・テロ事件の頻発によって穏健なイスラム市民への風当たりも強まる傾向にありますが、カトリックとプロテスタントは協同して彼らの保護を訴えています。フランスのカトリック、プロテスタント、ユダヤ教、イスラム教の代表者たちは折にふれて合同の会議を開いています。
[現在のプロテスタント]
現在フランスにはカルヴァン派を中心としてルター派、聖公会、バプテストなど多くの派があります。1909年に発足した「フランス・プロテスタント連盟」(FPF)はこのような諸派の緩やかな連合体であり、フランスのプロテスタントを代表しています(http://www.protestants.org/)。フランスの国営ラジオ放送の一つ「フランス・キュルチュール」(フランス文化)で毎週日曜日の8時30分よりプロテスタント礼拝の番組を提供しています。プロテスタントの神学部は国立のものがストラスブール大学にあり、私立ではパリ、モンペリエ、エクス・アン・プロヴァンスにあります。新聞では「レフォルム」紙があり、政治から文化まで幅広く扱っています。ネットでもその一端を知ることができます(https://www.reforme.net/)。書店や図書館は以前はパリにありましたが、現在では残念ながら閉鎖されています。プロテスタント書籍はカトリック書店で1コーナーを設けてもらって販売しているような状況です。