修士論文要約
「宗教改革以降における教会論の展開
 ~明治初期日本の伝道的教会論形成まで」

森 豪司(本荘教会主任担任教師/元当教会員)
[指導教員]
東京神学大学 棚村重行教授

[目次]

序 章 日本伝道開始時における教会論
第1章 16世紀宗教改革時の教会論
第2章 17世紀ピューリタニズムの動向
第3章 18世紀・第1次大覚醒運動時の教会論(国家からの自由化)
第4章 19世紀初頭・第2次信仰復興時の教会論
第5章 20世紀初頭・日本の教会論
第6章 結語

【参考文献〔主要なもの〕】

一次資料
(1)植村正久『植村正久著作集 第五・六巻』(新教出版社、1966年、1967年)。
(2) カルヴァン、ジャン『キリスト教綱要 改訳版 第1篇・第2篇・第3篇・第4篇』(渡辺信夫訳、新教出版社、2007年)。
(3) フィニー、チャールズ『上からの力』(角笛出版翻訳委員会訳、角笛出版、2000年)。
(4)『宗教改革著作集 第十五巻』(徳善義和他訳、教文館、1998年)。
(5)Whitefield、George , Sermons of George Whitefield: The 57 Classic Lectures Upon Christian Theology, Biblica
Doctrine and Prophecy,South Carolina , 2017

二次資料
(1) ゴンサレス・フスト『キリスト教史 下巻 宗教改革から現代まで』(石田学・岩橋常久訳、新教出版社、2003年)。
(2)棚村重行『二つの福音は波濤を越えて』(教文館、2009年)。
(3) パッカー、I・ジェームス『ピューリタン神学総説』(松谷好明訳、一麦出版社、2011年)。
(4)藤田治芽『植村正久の福音理解』(新教出版社、1981年)。
(5)野呂芳男『ウェスレー』(清水書院、1991年)。
(6)渡辺信夫『カルヴァンの教会論』(改革社、1976年)。
(7)渡辺信夫著『プロテスタント教理史』(キリスト新聞社、2006年)。

【要約】


序 章 日本伝道開始時における教会論
 1859年、アメリカから6人の宣教師が相次いで来日し、1872年に横浜には「日本基督公会」が設立された。しかしながら、この時代より、「教理・信条における一致の課題」は日本のキリスト教史の初めから存在していた。そこで、世界的の視野に立って、16世紀以降のヨーロッパ・北米におけるプロテスタント諸教会が実践し構築してきた教会論、ないし教会形成と伝道論の変遷をたどり、近代以降日本において移植され構築されてきた教会形成的な伝道論の進展を論じる。

第1章 16世紀宗教改革時の教会論
 
宗教改革時の教会論を、カルヴァンに求めた。カルヴァンの置かれていた教会環境は、ローマ・カトリックの統治されてきた教会である。国民は全て洗礼を受けてもいる。その歴史から、カルヴァンの教会論は当然、ローマ・カトリックの伝統への対決がある。そのため教会の中心を、異邦人伝道ではなく、「信仰の継承・継続性」に教会論の中心を起き、そのための「教会制度、会議、戒規」を確立していると読むことができる。但し、国家的統治を伴っている「戒規」である背景がある。

第2章 17世紀ピューリタニズムの動向
  神学的にはカルヴァン主義をとりつつ、礼拝様式、教会制度はローマ・カトリック的儀礼主義という英国の混乱期17世紀、聖書的な信仰に立ち返ることによって教会を清める必要を強調し、イングランド教会が保持していた礼拝の伝統的要素の多くに反対する「ピューリタン」と呼ばれる人々が登場する。しかし、これらピューリタンの中には、内部改革を目指す長老派と、それぞれの会衆は他から独立すべきという「独立派」とに分かれていた。一方、ドイツでは神学者の教条主義と哲学者の合理主義への対抗運動の一つとして「敬虔主義」が生まれた。この敬虔主義は、18世紀初頭の1707年に、敬虔主義を信じるデンマーク王が、インドの植民地に宣教師を派遣する決断し、プロテスタントが初めて、非キリスト教世界への異邦人伝道を目的とした宣教活動が誕生する。この世界宣教の拡大は、18世紀の教会論に新たな教理的課題を広げていくこととなる。

第3章 18世紀・第1次大覚醒運動時の教会論(国家からの自由化)
 18世紀、英国に第一次大覚醒運動が起きた。この主要な指導者として、カルヴァン主義を堅持したリバイバリストのジョージ・ホイットフィールドと、カルヴァンの予定論を否定したジョン・ウェスレーが挙げられる。この二人の指導者が、英国国教会の後ろ盾の無いアメリカで、どのような教会論をもって野外説教を行ったのかに注目した。いずれの指導者においても、「自覚的信仰体験」を大切にしている。その体験を野外説教において起こることを期待していたことは、彼らの説教から伺うことができる。
 その一方で、国家的統治という後ろ盾の無い、アメリカにおける教会の在り方は、教理の捻じれが生じていたことは確かである。ジョージ・ホイットフィールドは、教会を自覚的信仰体験が起こる場として考えていたが、教会論的には、国家的統治における教会という「英国国教会」の制度をアメリカにおいても堅持する方向であったようだ。その一方で、ジョン・ウェスレーは、教会を二つに区分し、教会論を展開した。一つは「地域的・個別的・可視的教会」であり、もう一つは「普遍的・公同的・不可視的教会」としている。この不可視的教会という教会観から、教理の捻じれを英国国教会から分離することに求めなかった。しかし、前者の可視的教会について、アメリカという国家的後ろ盾の無い教会の在り方について、具体的な方策を提示しているとも言い難い。

第4章 19世紀初頭・第2次信仰復興時の教会論
 第1次大覚醒運動が1730年代から1740年代の10年ほどで退行した。その後、空白期間を経て、第2次大覚醒運動が、開拓地のキャンプ・ミーティングとして1795年頃から1830年代に起こった。主要な指導者は、チャールズ・グランディソン・フィニーである。フィニーによる「自覚的信仰体験」の「伝道」は、第一義的に短期的な新人獲得キャンペーンの性格を帯びることによって、教理の捻じれの矛盾は完全に棚上げされる。彼は未開墾の土地を開拓しようとするが、結局のところ、むしろ、大地を枯渇させ、福音に対する応答力が強められるのではなく、弱められた状態にして終わる。ここではカルヴァンの目指した「継承される信仰」という観点は失われている。もちろん、フィニー神学がアメリカのプロテスタント信仰であるわけではない。しかし、宗教改革的教理に立つ「旧派カルヴァン主義」から、アルミニウス主義に近い「新派カルヴァン主義」と呼ぶフィニー神学に至るまで、米国における教会の在り方は大きな幅をもった中で、日本に宣教師によって伝道されたことを想像することは難しくはない。

第5章 20世紀初頭・日本の教会論
 日本の明治期における教会論を、植村正久の教会論に求めてみた。福音伝道25周年を経た1897年に、植村正久は、「日本独立の教会、簡易なる信条、堅固なる団体を体とし、神国を拡張し、福音を宣伝する」と講演し、「独立」「簡易信条」「伝道」という三点を主張している。それを具体化するために尽力したことが知られている。1つ目の「独立」については、国家やミッションからの独立を目指し、日本人による神学校を設立するに至った。2つ目の「簡易信条」については、当時スコットランドにおいて、異端者が糾弾され、紛争が巻き起こったことを指摘しつつ、日本基督一致教会の四つの信条(「ハイデルベルク信仰問答」、「ドルト信仰規準」、「ウェストミンスター信仰告白」、「ウェストミンスター小信仰問答」)をW.インブリーが提案した簡易信条「信仰告白」を支持した。彼は「余輩日本のクリスチャンたる者は、神学の新田を開拓し、欧米の短を捨て、その長を採る」と述べ、それは、教理を重んじる植村が信条を軽んじていたのではなく、各個教会主義でも、各個教派主義でもない、3つ目の「伝道」のためであることを主張している。その上で、1894年に「伝道局」の設置に至っている。植村は、欧米の伝統に基づくプロテスタント信仰に対して、「批判的な継承」を行い、「日本型キリスト教」を幻として見つめていたことが想像できる。

第6章 結語
 植村正久の時代までは、合同教会の在り方や、向かうべき方向は示されたことは確かだが、明治期から続く日本型キリスト教の模索期であって、教会の在り方、というような教会論には至ってはいないと分析する。フィニーのように、増員ノルマとしての伝道だけが強調されると、伝道は中身の無い、自覚的体験運動としての短期的キャンペーンに矮小化してしまう。カルヴァンの主張した「継承伝道」と、ウェスレーの実践した「異邦人伝道」の両面を持って、合同教会の在り方と、各個教会の在り方を同期し、伝道の豊かさを広げていくことが求められる。


【執筆の動機】
 学部論文で「古代イスラエルとカルヴァンの求めた礼拝特徴の共通性」を執筆し、その礼拝の在り方から、教会と伝道の在り方へ関心は広がり、カルヴァンの求めた礼拝の延長線上に、カルヴァンの求めた教会の在り方へ研究を進めた。しかしながら、宗教改革者たちは、教会の改革を求めたのであって、伝道を進めたわけではない。その伝道を伴った教会の在り方は、英国国教会からピューリタン、そしてアメリカに至る中で発展していき、それが明治期の日本に伝道された歴史から、その教会と伝道の在り方を長期に渡って探求しようと考えたことが動機である。


【感想】
 
記述するには至らなかった事項として、日本の教会論は、植村正久の門下にあった「逢坂元吉郎」において一定の到達点に達したと見ることもできる。彼は説教の中で、「正しい伝統の教会が見失われている」ことを主張し、カルヴァンの「継承伝道」と、ウェスレーの「異邦人伝道」を推奨している。しかしながら、彼の主張は、戦時中の国家統制下の合同教会の時期に入っており、その主張を広げる社会情勢ではなくなっていたことを、悔いを残しながら加筆したい。広く浅くの修士論文でした。生涯かけて深めていきたいと思います。