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.『マッチ売りの少女』
 
[聖書]
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
(マタイによる福音書1:22〜23).
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クリスマスにちなんだ絵本にもなっている、アンデルセン作の物語『マッチ売りの少女』に改めて目を向けて行きたいと思います。なぜアンデルセンは、皆が喜び祝うクリスマスの時に合わせて、こんなにも悲しい物語を作ったのでしょう。
短いですので、まずは、改めてお目通しください。(※インターネットの電子図書館、青空文庫より。最後尾に出典記載。)
ちなみに、物語の時が「おおみそか」なのにクリスマスの物語とされるのは、キリスト教世界では、だいたい1月6日の公現祭と言われる日あたりまでがクリスマスシーズンだからなのです。では。
『マッチ売りの少女(THE LITTLE MATCH-SELLER)』
ハンス・クリスチャン・アンデルセンHans Christian Andersen 著
翻訳:大久保ゆう挿絵:Hans Tegner                
それは、ひどく寒いおおみそかの夜のことでした。あたりはもうまっくらで、こんこんと雪が降っていました。寒い夜の中、みすぼらしい一人の少女が歩いていました。ぼうしもかぶらず、はだしでしたが、どこへ行くというわけでもありません。行くあてがないのです。ほんとうは家を出るときに一足の木ぐつをはいていました。でも、サイズが大きくぶかぶかで、役に立ちませんでした。実はお母さんのものだったので無理もありません。道路をわたるときに、二台の馬車がとんでもない速さで走ってきたのです。少女は馬車をよけようとして、木ぐつをなくしてしまいました。木ぐつの片方は見つかりませんでした。もう片方は若者がすばやくひろって、「子供ができたときに、ゆりかごの代わりになる。」と言って、持ちさってしまいました。だから少女はその小さなあんよに何もはかないままでした。あんよは寒さのために赤くはれて、青じんでいます。少女の古びたエプロンの中にはたくさんのマッチが入っています。手の中にも一箱持っていました。一日中売り歩いても、買ってくれる人も、一枚の銅貨すらくれる人もいませんでした。少女はおなかがへりました。寒さにぶるぶるふるえながらゆっくり歩いていました。それはみすぼらしいと言うよりも、あわれでした。少女の肩でカールしている長い金色のかみの毛に、雪のかけらがぴゅうぴゅうと降りかかっていました。でも、少女はそんなことに気付いていませんでした。
どの家のまども明かりがあかあかとついていて、おなかがグゥとなりそうなガチョウの丸焼きのにおいがします。そっか、今日はおおみそかなんだ、と少女は思いました。一つの家がとなりの家よりも通りに出ていて、影になっている場所がありました。地べたに少女はぐったりと座りこんで、身をちぢめて丸くなりました。小さなあんよをぎゅっと引きよせましたが、寒さをしのぐことはできません。少女には、家に帰る勇気はありませんでした。なぜなら、マッチが一箱も売れていないので、一枚の銅貨さえ家に持ち帰ることができないのですから。するとお父さんはぜったいほっぺをぶつにちがいありません。ここも家も寒いのには変わりないのです、あそこは屋根があるだけ。その屋根だって、大きな穴があいていて、すきま風をわらとぼろ布でふさいであるだけ。小さな少女の手は今にもこごえそうでした。そうです! マッチの火が役に立つかもしれません。マッチを箱から取り出して、カベでこすれば手があたたまるかもしれません。少女は一本マッチを取り出して――「シュッ!」と、こすると、マッチがメラメラもえだしました! あたたかくて、明るくて、小さなロウソクみたいに少女の手の中でもえるのです。本当にふしぎな火でした。まるで、大きな鉄のだるまストーブの前にいるみたいでした、いえ、本当にいたのです。目の前にはぴかぴかの金属の足とふたのついた、だるまストーブがあるのです。とてもあたたかい火がすぐ近くにあるのです。少女はもっとあたたまろうと、だるまストーブの方へ足をのばしました。と、そのとき! マッチの火は消えて、だるまストーブもパッとなくなってしまい、手の中に残ったのはマッチのもえかすだけでした。
少女はべつのマッチをかべでこすりました。すると、火はいきおいよくもえだしました。光がとてもまぶしくて、かべがヴェールのようにすき通ったかと思うと、いつのまにか部屋の中にいました。テーブルには雪のように白いテーブルクロスがかかっていて、上にごうかな銀食器、ガチョウの丸焼きがのっていました。ガチョウの丸焼きにはリンゴとかんそうモモのつめ物がしてあって、湯気が立っていてとてもおいしそうでした。
しかし、ふしぎなことにそのガチョウが胸むねにナイフとフォークがささったまま、お皿から飛びおりて、ゆかをよちよち歩き出し、少女の方へ向かってきました。そのとき、またマッチが消えてしまいました。よく見ると少女の前には、冷たくしめったぶ厚いかべしかありませんでした。
少女はもう一つマッチをすると、今度はあっというまもありませんでした。少女はきれいなクリスマスツリーの下に座っていたのです。ツリーはとても大きく、きれいにかざられていました。それは、少女がガラス戸ごしに見てきた、どんなお金持ちの家のツリーよりもきれいでごうかでした。ショーウィンドウの中にあるあざやかな絵みたいに、ツリーのまわりの何千本もの細長いロウソクが、少女の頭の上できらきらしていました。少女が手をのばそうとすると、マッチはふっと消えてしまいました。
たくさんあったクリスマスのロウソクはみんな、ぐんぐん空にのぼっていって、夜空にちりばめた星たちと見分けがつかなくなってしまいました。そのとき少女は一すじの流れ星を見つけました。すぅっと黄色い線をえがいています。「だれかが死ぬんだ……」と、少女は思いました。なぜなら、おばあさんが流れ星を見るといつもこう言ったからです。人が死ぬと、流れ星が落ちて命が神さまのところへ行く、と言っていました。でも、そのなつかしいおばあさんはもういません。少女を愛してくれたたった一人の人はもう死んでいないのです。
少女はもう一度マッチをすりました。少女のまわりを光がつつみこんでいきます。前を見ると、光の中におばあさんが立っていました。明るくて、本当にそこにいるみたいでした。むかしと同じように、おばあさんはおだやかにやさしく笑っていました。「おばあちゃん!」と、少女は大声を上げました。「ねぇ、わたしをいっしょに連れてってくれるの? でも……マッチがもえつきたら、おばあちゃんもどこかへ行っちゃうんでしょ。あったかいストーブや、ガチョウの丸焼き、大きくてきれいなクリスマスツリーみたいに、パッと消えちゃうんでしょ……」少女はマッチの束たばを全部だして、残らずマッチに火をつけました。そうしないとおばあさんが消えてしまうからです。マッチの光は真昼の太陽よりも明るくなりました。赤々ともえました。明るくなっても、おばあさんはいつもと同じでした。昔みたいに少女をうでの中に抱きしめました。そして二人はふわっとうかび上がって、空の向こうの、ずっと遠いところにある光の中の方へ、高く高くのぼっていきました。そこには寒さもはらぺこも痛いたみもありません。なぜなら、神さまがいるのですから。
朝になると、みすぼらしい服を着た少女がかべによりかかって、動かなくなっていました。ほほは青ざめていましたが、口もとは笑っていました。おおみそかの日に、少女は寒さのため死んでしまったのです。今日は一月一日、一年の一番初めの太陽が、一体の小さななきがらを照らしていました。少女は座ったまま、死んでかたくなっていて、その手の中に、マッチのもえかすの束がにぎりしめられていました。「この子は自分をあたためようとしたんだ……」と、人々は言いました。でも、少女がマッチでふしぎできれいなものを見たことも、おばあさんといっしょに新しい年をお祝いしに行ったことも、だれも知らないのです。だれも……
また、新しい一年が始まりました。
貧しさと寒さの中で少女が死んでゆくこの悲しい物語は、喜ばしいクリスマスに似つかわしくないのでしょうか。アンデルセンが、少女の悲惨さを描いて、いわゆるお涙頂戴的な物語にして、クリスマスにあたって貧しい人々への慈善の奉仕を喚起しようとしているのでないのは、読めばすぐにわかります。現実はどうしようもないほど悲惨です。しかし、それでも少女は暖かく美しい光を見出し、やさしいおばあさんを見出し、そして喜びに包まれて神さまのもとへといったと言うのです。しかし、それを町の人たちは知らない。このギャップが最後のオチになっているのです。
少女は絶望して、悲しみを抱えて死んでいったのではなかった。喜びに包まれて、口もとにはほほえみさえうかべて、高く高くのぼっていった。その喜びとは、神さまが見ていてくださって、その御手の中に入れてくださっているという喜びです。神さまが共にいてくださるのだ、という喜びです。
マッチの明かりとそのぬくもりは、それを知らせ教えてくれました。大好きだったおばあさんも一緒に、神さまの光の中にやさしく幸せそうに光り輝いています。神さまのもとで、神さまと共にいるとき、どんなに幸せで、光輝くのかを、おばあさんは教えています。
しかし改めて、朝の雪の中に冷たくなっている少女の現実を、ろうそくの光の中に見出した「夢」で、私たちはよしとできるのでしょうか。この物語は、「夢」を見て、現実逃避させて“よし”とさせるものなどでは、もちろんないでしょう。アンデルセンは、ろうそくの光の中の事も、リアルな真実な物語として描こうとしたのではないでしょうか。では、どこに、この物語を“よし”とできる根拠があるのでしょう。
クリスマス!救い主イエスさまがお生まれになったクリスマス。クリスマスにお生まれになった神さまの独り子のイエスさまによって、私たちにはどんなに時にも神さまが共にいてくださるのだと、トップの聖書の御言葉が教えています。マッチ売りの少女のように、私たちの世の中も悲しく辛いことだらけだとも言えるでしょう。どうしてこんな悲惨なことが、と思うこともたくさんあります。私
たち人間の罪がいけないと言えば言えるのですが、それですべてが納得できるわけでもありません。
「なぜ?どうして?」と尋ねざるを得ない中、すぐに答が出ない中にも、その悲惨な現実の中に、なお神さまは私たちといつも一緒にいてくださっているんだということに気付かされていく時に、この少女のように大きな喜びを得ることができるのかもしれません。なぜなら、赤児のイエスさまは、やがて十字架に架かられます。そのために生まれて来られたのだと言えるでしょう。その十字架によって、人をひとりぽっちにする罪の壁を打ち壊し(罪をゆるし)、復活して永遠の命のうちに、私たちとどこまでも一緒にいようとしてくださっているのだと、聖書は告げてきています。
赤ちゃんのイエスさまですが、この方こそ私たちを罪によるひとりぽっちの孤独から救ってくださる救い主。すべての罪をゆるしてくださる救い主。神さまがいつも一緒にいるようにしてくださる救い主。それがどんなに大きな喜びか。それはどんなに人の世が悲惨であっても、かき消されない喜び。
人の世の悲惨さをきちんと見ることが、クリスマスの意味を深く知っていく道筋なのではないでしょうか。
深い寂しさ、底知れぬ悲しさ、言いようのない苦しさに痛んできた人、いや、今も痛んでいる人に、どうぞイエスさまによって「神共にいます」が故の、慰めと勇気と大きな喜びがもたらされますように、心より祈ります。そして、もしその喜びを知らされたならば、その喜びをなお孤独の中に身を置いている方々のもとへ、伝え運んでいけますように。
※青空文庫収録ファイル
『マッチ売りの少女』THE LITTLE MATCH-SELLER
ハンス・クリスチャン・アンデルセンHans Christian Andersen 著
大久保ゆう訳
翻訳の底本:English Translation by H.B.Paull (1846) "The Little Match-Seller"
上記の翻訳底本は、著作権が失効しています。
1999(平成11)年12 月24 日初訳
2014(平成26)年3 月24 日微修正
※挿絵は、Hans Tegner (1853-1932) によるものです。
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ表示2.1 日本ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)によって公開されています。Creative Commons License
上記のライセンスに従って、訳者に断りなく自由に利用・複製・再配布することができます。
※翻訳についてのお問い合わせは、青空文庫ではなく、訳者本人(http://www.alz.jp/221b/)までお願いします。
翻訳者:大久保ゆう2014 年3 月24 日作成
青空文庫収録ファイル:このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。