.『クリスマスは何故おめでたいのか』
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いきなり!ですが、「人間」の“はじまり”って、どこorなんなのでしょう。たまたま偶然に原始的な細胞のレベルで突然変異が起こって、環境に合わせて進化してきたというのが、おそらく現代の一般的な見方ではないでしょうか。聖書は、その1ページ目から、この世界も人間もみな神さまが造った(←普通の作るのとは違う次元であることを示したくて、あえて「造」に)のだと、まるで宣言しています。クリスマスを考える時、そこまでさかのぼっていくと、何でおめでたいのかが、ちょっとずつ見えてくるでしょう。
偶然の産物には、存在する(生きる)意味も目的もありません。たまたま発生し、たまたま消えていくだけです。案外、そういうのが好きだという方もいらっしゃるでしょう。しかし、大切な人との別離や自分自身の終わりの時と向き合うわねばならなくなると、それではかなり辛くなるのではないかと思います。空しさに捕らわれて、苦しくなるのではないでしょうか。
聖書が「造り主」である神さまを教え示しているのを聞く時、自分の由来が明確でない中で、自分が自分の人生の中で一番偉くなって、自己中心的に考えて生きているのに気づかされる事があります。それでいいと思っていたけれども、そのために色々な争いや思い煩いが起こっていることに、更に気づかされます。また自分の自己中心はよくて、他人のは許せなくなります。その悪循環の中、聖書との出会いは、自分のルーツ(存在の原点)との出会いともなるでしょう。
造り主なる神さまは、私たちの言葉で言う「人格的なお方」です。機械的に造ったものがダメなら壊せばいいとは思わないし、そうはなさらない。造ったもの、特に人間を愛し、対話をしようとし、そして愛の手を差し伸べてくるのです。「愛」なる神さまは、同時に「義」なる神さまでもあります。悪を悪、罪を罪として裁く「義・正義」の神さまでもあることを、聖書は教えます。
ロシアの文豪ドストエフスキーの小説のタイトル(『罪と罰』)にもなっていますが、自己中心の罪は、裁かれて罰を負わねばなりません。神さまから(もちろん人からも)切り離され、見捨てられる罰です。最終的には「永遠の死」にいたります。神さまは、その前に、人間を愛するが故に、人間が受けるべき罰を身代わりになって受けて、罪の縄目から解放して、とこしえまで神さまと一緒にいることができるようにしようとされました。それが「救いのわざ」です。人を愛し抜き、かつ義を貫き通す。それが、神の独り子イエス・キリストの十字架と復活となりました。その救いのために、人間の罪の罰を身代わりに負うために、イエス・キリストがこの世に遣わされ、まことの人としてお生まれになった出来事がクリスマスです。
クリスマスは、「人間のため」としてその意味を第三者的に理屈で分かっても、ちっともありがたくもないでしょうし、おめでたいとも思えないでしょう。ふ〜ん、そんなものか〜・・・、と。あとはおいしいケーキを食べて家族団欒の時を楽しむか、恋人たちの時間を楽しむのがクリスマスということになるでしょう。しかし、「人間」という十把一絡げではなく、「この私」という人間のために、クリスマスをもって、とてつもない自己犠牲を開始して下さったのだと、自分の罪深さを知るほどに、ほんとうにありがたいものとなり、心の底から感謝の思いをもってお祝いをすることになるでしょう。