[4 月]
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4月1日 「ゆるし」 |
「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕 |
ルカによる福音書 23章34節 |
イエスは「わたしについて来たい者は、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。十字架を負うということは、単に苦しみを負うというようなものではありません。むしろ、それは人間としての破局に出会うことであり、絶体絶命の窮地に立たされることでもあります。わたしたちはとてもそのような状況に耐えられませんから、救いを求めて叫び、わめくのです。それを自分のこととして甘受し得ないからこそ、神に助けを祈願するのです。けれども、イエスはそのことを自分のこととして受けとめ、負いきる者でなければ、彼の弟子としてふさわしくないと言われるのです。キリスト者とは、イエス・キリストと共に十字架を負う者なのです。そのことによって初めて、イエスに起きたことがわたしたちの身に実現するのです。何が実現するのか、それをイエスの十字架の上に見て行かねばなりません。
十字架の上でイエスは七つの言葉を語られました。その初めは「父よ、彼らをお赦しください。」でした。自分を十字架につけた人々を恨みもせず、非難もしませんでした。「赦す」とは受け入れることです。イエスは彼を十字架につけた人々を含めて、その痛み苦しみと、耐え難い現実をすべて、神の前で、あるがままに受け入れられたのでした。そこで十字架は「赦し」のしるしとなりました。そしてここに、わたしたちが彼と共に負うべきわたしたちの十字架が見えてくるのではありませんか。 |
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4月2日 「今日」 |
イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。 |
ルカによる福音書 23章43節 |
十字架の上の二つ目のイエスの言葉からは、「今日」という語に特別な意味や重さを感じとることが出来ます。イエスと一緒に十字架につけられ、その隣りに立たされた二人の犯罪人たち、彼らも、もはや助かる望みのない絶体絶命の境地に立たされていたのでした。「今日」は彼らにとって終わりの日でありました。「ひかれ者の小唄」という言葉があります。刑場へひかれて行く者が、がんじがらめに縛られて乗せられた馬の背で、間近に迫っている最後の時を思う絶望的な心の動揺を隠すために、ことさら平静を装って口ずさむ、その哀れを語る言葉です。しかしこのようなとき、追いつめられた心の抑えがたい絶望感が激しい悪罵となって吹き出ることもあります。十字架にかけられていた犯罪人の一人がイエスに罵声を浴びせかけます。「お前はメシヤではないか。自分自身とわれわれを救って見ろ。」 それはもう後がない人間の断末魔の叫びでしかありません。もう一人はその終わりを知っていて、素直に受け入れています。そしてイエスに、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言います。「今日」を終わりとし得ない人間の叫びと、その終わりを知る者の祈りとが交錯します。そして、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、終わりが始まりになる「今日」に出会い、その「今日」を、新しい生の始まりとされたのはどちらであったのでしょうか。イエスの十字架の傍らで、自分の十字架を真に負う者だけが、この言葉を聞くことが出来たのです。 |
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4月3日 「愛を見い出すところ」 |
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 |
ヨハネによる福音書 19章26〜27節 |
十字架上のイエスの三つ目の言葉には、母をいたわる子の悲痛な思いが溢れ出ているように思えます。けれども、もしわたしたちがこの言葉をそのような人間の情においてのみ受けとめるなら、人情としては理解することが出来ても、かえって十字架をその陰に隠してしまいはしないかと危惧されます。死を前にして、母の心を思いやり、後に残される者たちへの断ちがたい思いの中で、心からのいたわりを溢れさせるイエスの言葉はわたしたちの胸を打つものがあります。こんなにまで母を思いやるイエスの胸中を思うと、わたしたちの心は熱くなり、胸に迫る思いを味わいます。けれども、そこで流す涙で十字架を曇らせてはなりません。 「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。」と、イエスは十字架の上からこのように語ります。愛する者を失う人に、その愛する者を失う場所で、新しく愛する者を見い出させるのです。悲しい出来事のさ中で、新たに愛する者を見い出し、愛することが出来るというこのことが、つらく悲しい現実をも耐えて乗り越える力となるのです。「見なさい。あなたの母です」。尊敬し、大切にしてきた師を失う所で、新たに尊び大切にすべき者を見い出さしめられ、師を愛するように愛することが出来るようになるのです。そのことが絶望の中で、しっかりと踏みこたえる力になります。これらの言葉が、十字架の上から語られたからこそ、イエスの愛が、人情を超えてわたしたちの信仰となり希望となったのです。 |
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4月4日 「叫び」 |
3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 |
マタイによる福音書 27章46節 |
「神様にも見放された」という思いは、最後の望みの綱も切れたという全く絶望的な嘆きに他なりません。十字架には、わたしたちが托しうるどんな意味においても、そこには人間的な希望というものはありません。あるのは、まさにイエスの悲痛な叫びの如く、絶望だけです。そこには救いがないのです。しかし、イエスは人間の苦しみをそこで負われた方なのだと言われています。その苦しみとは、この絶望のことではなかったでしょうか。そこまでイエスはわたしたちの苦しみを負われたのだと聖書はわたしたちに語っているのです。そして、わたしたち自身にとっては、本当にこの十字架を負うときには、もはや死しか残されていないという、その苦しみをイエスは負うて下さったのでした。イエスの叫びは彼の人間らしさを証すると言うよりも、わたしたち自身の叫びを反映させたものではなかったでしょうか。けれども、イエスの十字架には絶望の暗さの彼方に光がありました。彼の叫びには詩編22編における神への信頼と讃美が谺(こだま)しています。絶望の極限において明るい地平が開けていることを示しているのです。そして、わたしたちにとって終わりであり、望みの絶えるところに、滅びではなく救いを、死ではなく命をもたらしたのでした。
十字架上におけるイエスの四番目の言葉は、人間としては断末魔の叫びでありながら、その救いがたい絶望のただ中に、神への信頼に身を委ねる者に与えられる命の希望のしるしとなったのです。 |
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4月5日 「わたしは渇く」 |
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。 |
ヨハネによる福音書 19章28節 |
ヨハネによる福音書は十字架上のイエスの苦しみを冷静に見つめています。そのためにイエスの苦しみは内面化され、肉体的な苦痛を表現する言葉はなぜか排除されています。けれども、それにも関わらず「渇く」と言われたこの一語は、紛れもなく死の苦しみの極みを物語っています。6時間に及ぶ十字架上の苦しみは激しい渇きをもたらしたのです。もしイエスがこの苦しみを忍びたもうことがなかったなら、わたしたちは死んで後、死者の国でさいなまれた金持ちのように「指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせて下さい」と哀訴する他はない、と言った人があります。イエスの渇きは、人間としての渇きの中に、永遠の生命の水を慕い求める者を招いて下さるのです。サマリヤの女に求められてイエスは、この出会いを通して永遠の生命の水を与えて下さいました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。」と言われたのです。わたしたちの社会では、死に臨んで飲む水を末期の水と言います。この水を求めるのどの渇きが癒されるとき、確実にその生涯が終わり、望みが絶えるのです。しかし、死に望んで渇くその苦しみを通して、イエスはわたしたちを永遠の生命へと導いて下さいました。彼のその渇きのゆえにわたしたちの渇きは癒され、わたしたちの魂は潤う園のようになり、悲しみが喜びに変えられたのです。十字架上のイエスの五番目の言葉は、わたしたちに、死を前にした絶望への共感ではなく、死を超えて永遠の生命へとわたしたちを導く希望をもたらす言葉となったのです。 |
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4月6日 「すべて終わった」 |
イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終わった」と言われ、首をたれて息をひきとられた。(口語訳) |
ヨハネによる福音書 19章30節 |
ヨハネによる福音書が伝えるイエスの最後の場面は、実に荘厳さに満ちています。マルコやマタイが伝える壮絶な最後とは全く異なって、引き締まった静けさが支配する中で確実に事態が進行していきます。その中でイエスは言われました「すべてが終わった」と。わたしたちが、もし同じ言葉を語ったとしたならば、後に何が残るのでしょうか。放心。虚脱。たとえようもない大きな空白だけが確かめられるものに違いありません。身近にしばしば見させられるさまざまな終わりの場面があり、そこで、多くの悲哀を味わうわたしたちではないでしょうか。しかし、イエスの言葉は、その絶望的な情景にもかかわらず、わたしたちに虚しさではなく、新しい生命的な期待、希望をもたらすのです。人への期待ではなく、神への期待なのです。別な表現をしてみましょう。それは神にすべてを委ねることなのです。わたしたちはそのことを「信仰」と呼びます。自分のことが終わったときに、信じる者には神の事が始まるからなのです。新共同訳聖書で人間的悲哀の満ちた「すべてが終わった」という訳の代わりに、「成し遂げられた」という訳を取っているのも、そこに理由があると思われます。マルチン・ルターは、「わたしはこの一語によって慰められる。わたしが如何に全力を尽くし神のみ旨をおこなったとしても、それは不完全、断片的なものにしか過ぎない。それなのに、キリストは律法の終わりとなり、律法がわたしに要求するところを、彼は完成したもうた」と言っているのです。 |
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4月7日 「御手に委ねます」 |
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 |
ルカによる福音書 23章46節 |
十字架上における最後のイエスの言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」でありました。すべてが終わった後、何か為すべき事、あるいは為しうることを、わたしたちは持っているでしょうか。残念ながらわたしたちの終わりには、それは全く無いのです。わたしたちにとって終わりとは、そこで一切することが無くなるのです。そして、何もすることがないところでわたしたちは消滅するのです。それ故、未来がないということは自分そのものを見失うことでもあるのです。ある人が「人間は死ではなく、死ぬことが恐いのだ」と言いました。つまり自分というものが全く失われてしまうことに、自分の未来がなくなるという現実に直面することが本当に恐いのです。わたしたちが言うところの絶望とは、そういう現実に他なりません。しかし、イエスは死に臨んで何も為すことがなかったのではありませんでした。彼は自分の霊を父である神に委ねたのでした。人間的な終わりが、イエスにおいては神の手の中に自分を託すことによって、新しい始まりとなったのでした。そこから未来が開けてくるのです。神を見る者は未来に目を注ぐ者であり、神の手に自分を託す者は未来に生きる者となるのです。イエスは自分を神に託すことによって死から生への道を開いて下さいました。十字架はこの最後の言葉によって輝かしい復活につながって行きます。わたしたちもまた、主イエス・キリストのゆえに、神に自分を託すことによって復活の望みに生きる事が出来るようにされたのです。 |
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4月8日 「途方に暮れる人に」 |
婦人たちは、・・・週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。・・・中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 |
ルカによる福音書 24章1〜4節 |
復活の物語は誰にも信じがたいものです。それは何よりもその復活に出会った人々の証言の中にも明らかにされています。だれも最初からそのような事があるとは考えられなかった事柄でした。むしろ、その事実に戸惑い、恐れ、立ちすくみ、途方に暮れたと言われています。空虚な墓を前にして思考が停止してしまった、というのが事実ではなかったでしょうか。
島村哉哉師の句に[妻に言わでいること多し暮れの春]があります。先生の長男が4歳の時、イースターの卵を食べて食中毒にかかり、それが原因で亡くなられた、その悲しみの中で作られた句だそうです。奥さんの心中を思って子供のことは口に出さず、自分一人で悲しみを噛みしめていた、と書いています。悲しみを分かち合う時に言葉を失う、その心の痛みを感じさせられます。
空虚な墓の中で立ちすくみ、言葉を失い、途方に暮れている婦人たち、その悲しみや絶望に向けて、輝く衣を着た二人の人が現れ、「主は復活されたのだ」と語りかけます。途方に暮れている者たちに、信じがたい言葉が語りかけられたとき、新しい望みがもたらされます。復活のメッセ〜ジは途方に暮れ、望みを失っている悲しみの魂に、行きづまりに立ちすくんでいる者に、そこから新たに出発することを可能にしてくれる言葉をもたらしてくれたのです。 |
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4月9日 「空虚になった墓」 |
婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」 |
ルカによる福音書 24章5〜6節 |
復活の朝、婦人たちは香料を携えてイエスの墓へ向かいました。十字架の上で死んだイエスの体がその墓に納められた事を見届けてはいましたが、しかし、彼女たちは自分たちの手でイエスの死を確かめ、香料を塗り、葬りの業をすべて終えなければ心に平安は与えられず、悲しみも終わりませんでした。愛する者の終わりを確かなものとすることによってしか、彼女らは悲しみから解放されることはなかったのです。ですから、墓が大きな石でふさがれ、女手ではとても動かすことが出来ないことを知っていたにもかかわらず、香料を携えて墓へと行かざるを得なかったのです。彼女たちはイエスの死を確かめるつもりでありました。けれども、彼女たちが墓に着いたとき、墓は空虚でありました。為す術を見失ったとき、彼女たちは途方に暮れました。墓は死者を見い出すところ、生きる者の住処ではありません。わたしたちも何れはそこに身を横たえ、永遠の忘却の中に自分自身の身の終わりを確かめなければなりません。けれども、その墓に婦人たちはイエスの姿を見い出すことは出来ませんでした。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」婦人たちは、わたしたちが終わりを確かめる場所にイエスは居られないこと、死に勝利なさった方は永遠に生きるお方として復活なさったのだと告げられたのです。彼女たちは空虚な墓において、終わりではなく、新しい命の始まりとしての復活のメッセ〜ジを聞いたのでした。 |
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4月10日 「朝早く」 |
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。 |
ヨハネによる福音書 20章1節 |
十字架の上で死んだイエスの体は、降ろされて墓に納められました。その最後までを遠くから見守り、見届けていた婦人たちがいたことを、福音書記者ルカは伝えています。多分、マグダラのマリヤもその中の一人であったに違いありません。胸が締め付けられるような悲しみと心の痛みを抱きながら、マリヤはこの朝、まだ暗いうちに、人目を避けて墓を訪れました。その道の暗さは彼女の悲しみと絶望の深さと同じでありました。主イエスの亡骸に香油を塗り、葬りの業を行い、イエスの死を自分の手で確かめなければ、彼女の悲しみは終わらないと思っていたでありましょう。死者を自分の手に取り戻さなければ悲しみは終わらず、諦めもつかない、たとえ骨の一片であろうと、それを手にすることによって愛する者の終わりを確かめたい。人はみなそういう思いを持っているのではないでしょうか。墓へ行く道の暗さは、炭坑の坑底にいつまでも愛する者の体を残し、手許に戻ってくるのを待っていた人々の悲しみと心の暗さに通じています。遠く北洋の海に沈んだ夫や子を思う人々の心にも通じるでありましょう。しかし、ヨハネによる福音書は「朝早く」と言葉を加えています。もうすでに夜ではないという心が語られています。この墓への道の暗さの背後にはすでに光が射し始めています。マリヤの悲しみには、すでに新しい命の始まりの喜びが備えられていたのでした。十字架に向かい合った者は、イエスの死において、新しい命の始まりに出会う者なのです。どんなに暗くても、その人生はもはや夜ではないのです。 |
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4月11日 「その日の夕方」 |
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 |
ヨハネによる福音書 20章19節 |
「夕方」、それはユダヤ人にとっては一日の終わりであり、また新しい始まりでもある境目でありました。そしてこの一日の境は神殿において犠牲がささげられる時刻でもありました。この時、弟子たちはイエスの死によってすべての望みを絶たれた悲しみの中にいます。そればかりではありません。彼らは自分たちにも及ぶであろう危険に恐れをなして、家の戸に鍵までかけていました。イエスが復活されたという知らせを受けても、すぐには反応できないでいたのでした。彼らにとって、その日の夕方は特に暗い望みのない一刻でありました。恐怖の前に立ちすくんでいた彼らには、新しい一日の始まりは暗い夕闇の中に沈んでいて見えなかったのです。戸を閉じてこもっていた弟子たちにとって、夕べの祈りがあったのでしょうか。彼らは恐れに心を固く閉じていたのだろうと思います。しかし、そのような不安に満ちた恐れの時に、復活の主イエス・キリストは彼らの真中に立たれます。そして彼らの不安と恐れに対して、「あなたがたに平和があるように」と言われます。終わりの時に面して不安でいる者たちに、復活の主は共にいて、平安を与えてくださり、暗い夕闇の彼方に向かって新しく始まる歩みを踏み出す勇気を与えてくださるのです。復活の主が共にいて下さるところには平安が伴います。その平安が、新しい明日へ向けて、恐れを克服し、勇気を奮い起こして、一歩、足を前に踏み出す勇気をもたらしてくれるのです。 |
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4月12日 「エマオへの道」 |
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから60スダディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話しあっていた。‥‥二人は暗い顔をして立ち止まった。 |
ルカによる福音書 24章13〜17節 |
ルカによる福音書はイエスの復活の出来事の日、イエス復活の知らせを受けていながら、暗い顔で西へ向かって歩んでいた二人の弟子がいたことを伝えています。婦人たちからの知らせで、空虚になった墓を確かめてきたペトロたちの話を聞いても、なお信じ難い思いのまま、エマオへ向かう道すがら、二人の弟子の間で、この一切の出来事について話は尽きなかったのでした。主イエスの復活が決して弟子たちの心をすぐに喜びへと導いたのではなかったことがうかがわれます。信じがたい思いで受け止めながら、まだ主を失ったショックから立ちなおれずにいる弟子たちの姿、それは何か生きる張り合いを失くし、気力を喪失した人間の姿をわたしたちの目にまざまざと焼付けるかのようです。彼らの歩む先に日は沈んで行きます。一日が終わるように、まるで人生の夕暮に向かって生きているかのように歩む彼らからは、明るさも失われていたのでした。そのような旅路に、ふと気がつくと同伴者がいたのです。彼らの悲しみ、不安を聞いてくれるお方でした。そして、このお方が聖書に書かれたことを彼らに説き明かして下さいました。まさかそのお方が復活の主イエスだったとは思いもよらぬことでありました。知らず心が燃える思いを味わっていました。わたしたちの人生にも、ふと気がつくと傍を共に歩んでいてくださる主イエスがおられた、ということがあります。復活の主はこの時代でも不安の中にある者に来て下さるのです。 |
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4月13日 「東に向かって」 |
二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、11人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 |
ルカによる福音書 24章32〜34節 |
エマオはエルサレムの西の方、12キロにあります。日の沈む方へ、人生の暮れ方へ向かって歩む者には悲しみや、憂いばかりがあるようです。仏教では西の方に浄土があると、西を拝みます。日没後の微かに残る光を極楽浄土の反映と理解しているからかも知れません。日暮れに向かって「暗い顔」をして歩む者に復活の主イエスの姿は見えません。けれどもそのような者たちの傍らに復活の主イエスはいたまい、共に歩んでいて下さるのです。そして、道々、彼らに聖書を説き証しして下さるのもこの復活の主イエスでありました。エマオで弟子二人は道連れとなった人と食卓を囲みます。そして、その道連れがパンを裂く姿からその人が主イエスだとわかるのです。復活の主イエスはそれほどの身近におられたのです。しかし不思議なことに、そのことがわかるとき、主イエスの姿は見えなくなります。そうとわからないときは姿が見え、そうとわかるときは見えなくなっています。しかし、暗く悲しい顔で歩いていたときなのに、心に燃えるものを残して下さったのは、復活の主イエスなのです。弟子たちはもう暗い顔をしてはいない。直ちに、時を移さず、彼らはエルサレムに戻ります。主は甦られたと証しするために。エルサレムはエマオからは東、その時から、復活の主を証しする者たちは東を向くようになりました。それがイースターの始まりです。 |
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4月14日 「湖畔にて」 |
その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。 |
ヨハネによる福音書 21章1節 |
マルコとマタイが伝えているような、イエスのガリラヤ先行については何も語ってはいませんが、ヨハネは復活のイエスの三度目の顕現を伝えています。場所はガリラヤ湖畔です。復活された主イエスの姿を二度も見ていながら、それでも弟子たちはまだ活力を取戻す事が出来ていません。この部分は後から書き加えられたのだと考えられるのですけれども、それでも、元へ戻った弟子たちのいささか呆けた姿をイメ〜ジするには十分な記述です。一度失われた気力は容易には回復出来ないのです。ペトロが「わたしは漁に行く」と言えば、他の者も「わたしたちも一緒に行こう」と言います。なぜか活気がありません。ガリラヤは彼らの故郷です。そして、彼らはそこでもう一度人生をやり直すつもりで戻って来たのでしょうが、しかしまだ、何もかも惰性で動いているだけだという状態でありました。全部ではないにしても、弟子の主だった者たちがそこに集まって暮らしていました。でも、何の為に一緒にいるのか、それが彼らにはわかっていないのです。共にいながら、共にいることに彼らは無反応、何の自覚もありませんでした。しかし、そのような彼らが、徒労にも似た作業を繰り返している所で、かって主イエスに人を漁どる者として招かれた時のように、復活のイエスに出会うのです。生きる気力を失っていた者たちがようやく活力を取り戻す事が出来るようになったのは、ここで再び主の招きに与かったからです。ヨハネが三度も繰り返し、復活の主イエスの顕現を語るのはその為なのです。 |
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4月15日 「主は弱さの中に現れる」 |
シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。 |
ヨハネによる福音書 21章3〜4節 |
イエスが十字架にかけられて死に、すべての望みが絶え果てた後、弟子たちに残ったのは失意と落胆だけでありました。彼らの、その落ち込みようは復活の主イエス・キリストに出会った後まで尾を引いていたようでありました。イエスが復活されたと知っても、そのことがそんなに急速に、一気に彼らを福音宣教の使徒として立ち上がらせたのではなかった、ということが福音書の記述を通して伝わってきます。そして、ガリラヤへ引きこもった弟子たちが、自分たちの生き方をまだ決めかね、しかも、復活の主が共にいて下さる確かさを知らずにいる彼らの不安定な様子、そんな状況が今日の聖書の言葉から伝わってきます。夜通し働いても何も獲物がない、徒労の嘆きが伝わってくるような情景の中で、疲れ切って戻ってくる夜明けの岸辺に、彼らは朝靄に包まれて立つイエスの姿を発見するのです。彼らにはそれがイエスだとはわかりません。失意と落胆、そして気力を失った心の虚しさの中へイエスが姿を現して下さったのに、彼らは言われて再度網を入れ、漁獲のあまりの多さに驚き、はじめてそこにイエスの姿を確認するまで気づくことがありませんでした。しかし、弟子たちはここでも主の言葉に従って与えられる恵みの豊かさと確かさを知らされたのです。意気阻喪している者の弱さの中に現れて、望みに生かして下さったのは復活の主なのです。 |
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4月16日 「ペトロのやり直し」 |
三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」 |
ヨハネによる福音書 21章17節 |
この福音書が最期に確認しておきたいことがここにあります。三度もイエスがペトロに問われたというのもその辺の事情を示唆しています。ガリラヤに逃げ帰った弟子たちが、復活の主イエスによってその深い挫折感から立ち直って行く過程で、自分の側にではなく、復活の主イエスの側にのみ本当の確かさがあることを知るようになって行くのです。主イエスを愛する心さえ、その確かさは主イエスのものでありました。イエスが捕らえられ、大祭司の邸へ引き立てられて行ったとき、三度も「わたしはその人を知らない」と否認し、イエスを裏切ったペトロが、ここでは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と三度繰り返す主イエスの問いに答えながら、「あなたは何もかもご存じです」と、自分の信頼のすべてを主に委ねようとします。そしてここからペトロのやり直しが始まるのです。「わたしを愛するか」と問う復活の主イエス、この言葉によってペトロは主に深く結ばれて行きます。この問いがペトロを真に立ち直らせるのです。愛されている者が愛によって応えるのです。これがペトロの復活なのです。そして、新しい使命が彼に託されます。彼の復活においてこそ復活の主イエスが証しされるようになる、為なのです。 |
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4月17日 「つながる」 |
わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 |
ヨハネによる福音書 15章4節 |
人はお互いに支え合い、関わりを持つことの中で生きているものです。そして、何に関わり、何につながっているかによって、その人の生き方も、またその生活内容も変わってきます。イエスは弟子たちとの別離の宴において、限りなく彼が愛された者たちがその拠り所を失い、虚しくなってしまわないように、先ず、彼らが互いに愛し合うようにお命じになりました。それは、愛し合うことによって互いに関わりを持ち、互いにつながれて共に生きるようになるためでありました。ユダヤの古人は、「三つ縒りの綱はたやすくは切れない」と言いました。人は愛につながれて共に雄々しく生きられるようになります。三つ縒りの綱にまさる愛の綱によって互いにつながれた者になれ、これがイエスがお命じになったことでありました。しかし、イエスは加えて「わたしにつながっていなさい」と言われました。つながると言っても、浮き草のようなつながり方もあります。根づくことを知らないつながりもあるのです。ですから、わたしたちはイエスの言葉に従って、わたしたちを愛して下さるお方そのものにつながれなければなりません。その時、わたしたちだけがつながっているように見えて、実はそのお方がわたしたちにしっかりつながっていて下さることがわかってきます。そのお方のしっかりとした手がわたしたちを捕らえて支えていて下さることがわかるのです。だからイエスは、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われるのです。 |
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4月18日 「神の招き」 |
「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。」 |
マタイによる福音書 22章2〜3節 |
イエスは弟子たちに語ってきた天国のことを、ここで祭司長や民の長老たちに語り告げようとしています。それは、一つ前の章で語ったぶどう園のたとえと関連しているのですが、気をつけて、間違いのないように留意したいのは、このたとえの軸になっているのは王がその王子のために催す婚宴の席に人々が「招かれている」ということです。そして、ここにはその招きを無視する人々がいたり、あるいはその招きに逆らう者もいたのです。そういう人々は王の怒りにふれて滅ぼされてしまいます。当然招かれても良い人々がその招きを無視し、拒んだので、今度は無条件ですべての者が招かれることになりました。しかし、婚宴に招かれたら、招きにふさわしい姿で応じるという常識のようなものがありましょう。しかしいくら自由だと言っても、それを無視したら入場を拒否されるという、ごく当たり前のことがここに語られています。 イエスが語る天国とは、婚宴の席にわたしたちが招かれているようなものだというのですから、その招きにどのように応じるかということが、わたしたちの在り方、生き方を決める鍵になるということになります。王子の婚宴に、つまり喜びの宴に招かれているのですから、その喜びにふさわしい姿、在り方を、招かれているわたしたち自身の生に実現していくことが大切なことではないでしょうか。イエスは厳しい言葉をつけ加えています。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」招かれていながら、その招きを無効にするようなことの無いよう心がけねばなりません。 |
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4月19日 「いつでも」 |
しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。 |
ヘブライ人への手紙 7章24〜25節 |
「キリスト教は墓からの良き知らせである。」と言った人がいます。墓からはいつも悲しみだけしか伝わっては来ません。その悲しみから逃れる唯一の方法があるとすれば、それは忘却ということだけではないでしょうか。けれども、この人はその墓から命の喜びと希望の良い知らせが伝わってくると言うのです。なぜなら、イエス・キリストが死から甦られ、墓は空になったという事がもたらす驚きに満ちた、しかし、喜びの溢れる知らせだからなのです。キリストの福音が宣べ伝えられる所ではどこでも、何時でも、悲しみではなく喜びがもたらされるのです。聖書学者シュラッターは「わたしたちは自分たちの祝福の始まりを彼に負うている。なぜなら、キリストによってわたしたちは神のみもとに至るからである。」と言いました。「キリストは甦られた」というあの復活の日のメッセージは今も生きています。「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」わたしたちの生活のどのような場面でも、あらゆる状況において彼を頼りにすることが出来るのです。わたしたちの生のどこか一点に目をとめてみましょう。そこがどこであれ、どのような状況であれ、必ずそこにキリストがわたしと共にいて下さることに気づかされます。ですから、そのように共にいて下さる彼の助けによって、救われ、祝福を受ける事が出来るのです。 |
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4月20日 「見えると言い張る罪」 |
イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」 |
ヨハネによる福音書 9章41節 |
車のスピ〜ドを上げると視野が狭くなると言われています。ゆっくり走っているときにはしっかりと自分の視野に捉えていた筈のものが、スピ〜ドを増すにつれて視野の外にずれて行く、自分では見えているつもりなのに、実際は見えなくなっているという事がある、そういうことが実験の結果わかって来ているのです。それは何も車に関してだけのことではありません。わたしたちの生き方の中にもそういう死角が存在することを知っておく必要があります。自分では見えているつもり、わかっているつもりでいながら何も見ていない、わかっていないところがある、自己本位に、身を自由に任せて奔放に生き、わき目もふらずに突き進み、生き急ぐとき、見えない部分がいつのまにか大きく広がってくるのです。これは恐ろしいことなのだと知らなければなりません。本当の知恵は、ソクラテス流に言えば、自分が知っていない事実を知るということに他なりません。イエスによって、それまで見えなかった目を開かれた人は、見えるようになった事実を、自分が知っている唯一の確かなこととして証言します。しかし他方、自分にはすべて見えると思っている人間は、その目に見えていないものがある事実を知らず、にもかかわらず「見える」と言い張る、その頑なな心をイエスは罪だと指摘なさるのです。何でも見えているつもり、知っているつもり、わかっているつもりで生きているわたしたちです。しかし、そういうわたしたちの心の頑なさが砕かれて、はじめて見えてくるものがあるのではないでしょうか。 |
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4月21日 「わたしは門」 |
わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。 |
ヨハネによる福音書 10章9節 |
最初の和訳聖書として知られているギュッツラフ訳では、「ワシラニトヲワ、ワシヨリハイルヒト、スクワレズ、アノヒトワハヰラズ、デズ、タベモノヲメヱケズ。」となっています。何か逆な訳し方をしているようにも思えるのですが、並べて見ますと、救いと滅びの両面がかえってよく見えてくるのですから不思議です。イエスは門である、その門を通るものは救われ、通らない者は救われないと言われています。イエスのたとえの中には羊が多く出てきますが、その羊にたとえて、この門を通らない者には食べ物が見つからない、つまりそれでは生きられない、というのがギュッツラフ訳の意味だろうと思います。本当の命はイエスという門を通ってこそ見い出すことが出来る、たとえ羊のような無力なものでも、この門を出入りすることによって養われ、生かされることが出来るのだということに他なりません。
夏目漱石の作品に「門」というのがあります。その中で主人公について、「彼は門を通る人ではなかった。また通らないですむ人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ちすくんで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。」と書かれているのが、奇妙に心にかかります。「わたしは門である。」と言われるイエスの前に立って、あなたはどういう態度をとろうとするのでしょうか。イエスは「狭い門から入れ、命に至る門は狭く、その道は細い」と教えています。あなたが、門の前に立ちすくんで日の暮れるのを待つ不幸な人でないようにと、心から願わざるをえません。 |
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4月22日 「断絶」 |
イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 |
ヨハネによる福音書 10章23〜24節 |
イエスがメシア、つまり、救い主であるかどうか、そこにイエスとユダヤ人との間の論争の中心テーマがあり、同時に、イエスをキリストと告白できるかどうかは現代のわたしたちの信仰の中心的課題でもあると言うことが出来ましょう。「気をもませる」とある言葉は、口語訳では「不安のままにしておく」と訳されている言葉ですが、それは心を上げる、起こすという意味を持っており、心が宙に浮くということなのです。「疑いの中におく」という訳もあります。ユダヤ人たちがはっきりとさせたい、知りたいと思っている心のいらだちが現れている言葉です。それに対してイエスは答えて、「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。」と言っています。はっきりしているのにあなたたちは信じようとしないだけなのだと、イエスの言葉はどんなに確かな言葉も閉じられた心には何も入ってこないことを示しています。ブルトマンはここで、「彼らは見ても見なかったように、聞いても聞かなかったのである。」と言っています。信じるということは心が通い合うということです。イエスとユダヤ人たちとの間の断絶は、彼らの心がイエスに対して開かれていなかった、閉じられていた、だからすべてが不安定なまま、むしろ疑いの心のみが大きく増幅されて行ったのだと言えましょう。はっきりさせて欲しい、確かさを得たい、そういう思いが心を開かせないで、かえって閉じさせてしまった不信の悲しい現実を見させられるのです。 |
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4月23日 「喜びをもって祈る」 |
わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。 |
フィリピの信徒への手紙 1章3〜4節 |
使徒パウロの手紙の中でこの手紙ほど親しみと喜びに満ちているものはほかにはありません。この小さな教会にも困難があり、問題もありました。けれどもこの教会ほど親しみに満ち、温かな交わりが生きている教会はなかったのではないでしょうか。この手紙は声を出して読むとよいと書かれている注解書もあります。差出人と受け手との間に響きあう愛の交わりが生き生きと伝わってくるように思えるからです。
パウロはまず神とキリストからの恵みと平和を祈ります。この「恵み」という言葉は受ける側からすると「感謝」となる言葉です。パウロがフィリピの人々の事を思い起こすたびに感謝せざるをえないのは、そこに神の恵みの確かな働きを見る事が出来るからです。ある注解者は「上からの恵みは、下からの感謝となる。」と言っていますが、そこにパウロの喜びの源泉があったと思われるのです。祈るときはいつも喜びをもって祈ると言うのも、そこに恵みが生きているからです。その恵みとは、キリストにあって生かされている者の愛の交わりがあるという事です。「福音に与かっている」ということは、神の恵みの交わり(コイノーニア)の中にいることですから、パウロはその事を喜びとするのです。そして、その事をまた喜びとしなさいとフィリピの教会の人々に訴えるのです。この喜びは神の「恵み」への「感謝」から溢れて出てくるものだからです。 |
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4月24日 「神のものは神に」 |
「税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 |
マタイによる福音書 22章19〜21節 |
今日の聖句は政治と宗教とは全く別なのだということの論拠としてしばしば引用される所です。しかし、この話はパリサイ人たちがイエスを言葉の罠にかけてローマへの反逆者に仕立て上げようともくろんだ、ということなので、政治と宗教の対立の問題を取り上げているわけではありません。税金の納付の可否を論じているようなやりとりの中で、イエスは「神のものは神に」とはっきりと主張されているのです。わたしたちがこの世のことを信仰の課題とするときに、忘れてはならない大切な原則をイエスは教えて居られるのです。
カール・バルトが死を前にしたインタービューの中で、「バルトは人間について考えるのをやめて神だけを問題にしている」という批判に答えて、「わたしは初めから『神と人間』を問題にしてきた。神学のテーマは抽象的な『人間』ではなく『神と人間の対話』が神学の課題なのだ。しかし、神が曖昧なものにされてきてしまったことが、わたしに神を強調させるようになったのだ。」と言いました。彼の言葉は、人間のことを声高に語るようになり、神のことが語られること少なくなってきた現代のわたしたちの姿への痛烈な批判としても聞くことが出来るのではないでしょうか。「神のものを神に返しなさい」とは、わたしたちの生き方の課題でもあるのです。 |
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4月25日 「救いは主にある」 |
わたしは感謝の声をあげ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは、主にこそある。 |
ヨナ書 2章9節 |
ヨナがニネベの人に預言せよと神に命じられたとき、彼は恐れて地の果てへ逃げようとしましたが、海上で暴風に遭い、嵐を静めるために海に投げ込まれ、大魚に呑み込まれて、三日三夜その腹中にあったときに、その腹の中から神に祈った言葉の結びの言葉が今日の聖句です。自分の犯した罪の深さを、自分自身の危機に臨んで思い知らされ、取り返しのつかない思いで悩み苦しみ、救いを望んで神を呼び求め、自業自得だと言われても仕方ないのに、そのような者の祈りでさえ神は聞いて下さると知った者の言葉なのです。人間の不信に対して、あわれみと恵みをもって、真実をもって応えて下さる神がいます。ヨナは大魚の腹中で、暗黒の中で、望みのない所でそれを知ったのです。神が魚に命じられたので魚はヨナを陸に吐き出しました。ヨナは新しく生かされ、そして再び預言者として召されたのです。彼は困難を恐れず神の言葉を語る者になりました。一人の意気地のない人間を勇気ある者として立たせて下さったのは、変わることのない神の憐れみでありました。そして、そのような人間であっても見捨てることなく、彼に望みをつないで下さる神の愛でありました。
現代にも多くのヨナがいます。罪を犯し、神から遠く離れようと試み、しかし、人生の苦海に翻弄され、息の詰まる思いを味わいつつ、その苦悩の中でキリストに出会って悔い改め、新しい生命に生かされることを知るのです。キリストにあって新しいヨナが生まれてきます。そして「救いは主にある」と告白するのです。 |
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4月26日 「イエスこそ命のパン」 |
「神のパンは、天から降ってきて、世に命を与えるものである。」 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」というと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。」 |
ヨハネによる福音書 6章35節 |
貧しく飢えに泣く子の姿をテレビの映像として眺めながら、それが自分たちの現実から程遠いものとして身近なものにならない豊かな国の中で、それなのに奇妙な空腹感にさいなまれているわたしたち。「痩せの大食い」と言われるけれども、いくら食べても満腹感が伴わない心の飢えが限りなく充足感を求め、幸せを追い求めさせます。出エジプトの民はシンの荒野に辿り着いた時、飢えにせめられてつぶやき、エジプトの肉鍋を慕ったと記されています。その時、神は天からマナを降らせて民を養われました。人々はその事を覚えています。餓え、渇く時いつもその不足をおぎない豊かにし、満足を与えてくれる者を求めます。それは現代のわたしたちにも言える事です。豊かさの中でなお求め続けずにはおれない心の空腹感、幸せを求める痩せた心は貪欲なのです。「主よ、そのパンをわたしたちに下さい」と求める群衆にイエスは答えられます、「わたしが命のパンである」と。物でも財でも地位でも、この世のどんなものでも満たし得ない心の空白、それを満たすものはありません。人を生かすのはそういうものではないのです。命のパンなのです。そしてイエスこそ、その「命のパン」なのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがない」とイエスは言われるのです。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしを食べて生きよ」と言われるイエスの声があなたには聞こえてこないのでしょうか。 |
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4月27日 「神の計画」 |
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。 |
エレミヤ書 29章11節 |
神の計画は「災いではなく平安、将来と希望」を与えるものだと告げられています。その言葉を聞いているのは、バビロンのために国を滅ぼされ、遠い異境に捕囚の身とされたイスラエルの民でありました。悲しみと嘆きの中で祖国に帰る望みを失ったかと落胆していた人々に、預言者エレミヤは神の計画を伝えたのでした。「あなた方の望みはまだ失われてはいない。あなた方に未来を備えて居られるのは神なのである」と、言うのです。それ故、懸命に神を求めるならあなた方は神に会える。自分たちの未来を見い出すことが出来るのだと、エレミヤは言うのです。神はわたしたちの未来を開いて下さるお方なのだと、イスラエルの人々は失意と落胆の中でその言葉を聞かされたのです。
わたしたちは、今、イエス・キリストの言葉としてそのことを聞かされています。生きることの不安と虚しさの中で、苦悩と悲しみの中で、わたしたちはイエスの言葉を聞きます。「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」神はわたしたちのために明日を開いて下さるのだとイエスは教えて下さるのです。「神は人間に彼を頼るようにさせ、頼られることを欲したもう。このことにおいて彼は神でありたもう。」とバルトは言いました。神のご計画の中に身を委ね得る者は明日を見ることが出来るのです。 |
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4月28日 「思いやりに生きる」 |
この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。 |
ヘブライ人への手紙 4章15〜16節 |
「どんな人間に育てたいと思いますか。」「思いやりのある人になって欲しいと思います。」何時も教育についてのアンケ〜トで繰り返される問いと答えです。けれども、「思いやりのある人間」になるということはどういうことなのか。このような受け答えをしている人々の心にあるイメージは必ずしも明確ではありません。「わが身をつねって人の痛さを知れ」という言葉がありますが、本当に苦しみを知り、悲しみを知る人でなければ、他者のことを思いやる事は出来ないのではないでしょうか。思いやりのある人間に育てるためには、その子に生きる苦しみや、痛み、悲しみの味を覚えさせなければならないでしょう。何一つ不自由なく、至れり尽くせりで豊かに育てていては、本当の思いやりが育ってくるはずもないと思われます。思いやりのある人間に育てるということは、本当は大変厳しいことなのだと知らなければなりません。 ヘブライ人への手紙の著者は、わたしたちには、わたしたちの弱さに同情して下さる方(口語訳では「思いやる」となっています)、悩み、苦しみ、悲しみもすべて共に分かち合って下さる方がいると語り、神に逆らう罪の他は、わたしたちと同じように苦しみに会われたお方がいて、わたしたちを助けて下さるのだから、元気を出して、そのお方の助けを得て神の前にしっかりと近づこうと励ましてくれるのです。 |
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4月29日 「愛の深まりへの祈り」 |
わたしは、こう祈ります。知る力と見ぬく力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。 |
フィリピの信徒への手紙 1章9〜10節 |
パウロが「キリスト・イエスの愛の心でどんなにかフィリピの人々のことを思っている」具体的な現れは彼の祈りです。彼はこう祈ります。「フィリピの人々の愛がますます豊かになるように」と。箴言10章22節に「人間を豊かにするのは主の祝福である」とありますが、パウロはフィリピの人々の愛の豊かさに神の祝福を求めたのでしょう。しかしパウロはここで愛が豊かになることについて二つのことを語っています。一つは愛が豊かになるためには「知る力と見抜く力」を見つける必要があること、そして、二つ目は愛が豊かになることによって「本当に重要なことを見分ける」事が出来るようになるということです。口語訳では「深い知識と鋭い感覚」となっていますが、「知る力」というのは<認識>とも訳されます。国語辞典によりますと、<認識>とは物事を見分け、本質を理解し、正しく判断する事、またそうする心の働き、あるいは知識などとされています。ですからここで言われている「見抜く力」も含まれていると言ってもよいでしょう。けれども「見抜く力」とわざわざ加えられている事にも注目しなければなりません。それは<感覚・理解>と言う意味を持っています。スペイン語で理解すると言うときは、対象を自分のうちに包み込むという意味がありますから、ただ感覚の鋭さだけでは本当の理解にはいたらないのではないかと思います。相手をよく知り、理解することなしには愛は深まらず、豊かにもならないという事なのです。言葉だけ愛をふりまわしても愛は豊かにはならないのです。 |
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4月30日 「生ける者の神」 |
「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。 |
マタイによる福音書 22章31〜33節 |
「神のものは神に返しなさい。」というイエスの言葉を聞いて驚愕したのはパリサイ人たちでしたが、ここでは群衆がイエスの教えに驚いています。死人の復活はないとするサドカイ人たちがこしらえ上げた仮定の問題、次々に夫に死なれ、七人の夫を持つことを余儀なくされた妻が、復活したら誰の妻になるのかという問いに対して、イエスは答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」
「天使のようになる」という言葉に注目しましょう。7人の夫を持った妻も、復活の時には誰の妻だということなしに、自由な存在として神に喜びを持って仕えることが出来るようになる、と言うのです。人々は律法に縛られて心ならずも何人もの兄弟の妻とされる者の不幸と悲哀を知っています。そのような世のしがらみから解放され、一人の人間として生きられる自由があることを教えるイエスの言葉は人々の胸を打ちます。そして、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」との言葉に、今生きる者の心の拠り所として、神は生きて居られることを知るのです。「神は生きていたもう。」とは、イスラエルの人々にとっては苦難を克服し得た喜びと感謝の中で神を誉め称える言葉でもあった、ということを忘れるわけには参りません。 |
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