[ほんとうに12月25日がイエス・キリストの誕生日なの?] 聖書にも他の史的資料にも記録がありません。イエスが十字架にかけられた日については聖書に書かれていますが、誕生日については聖書の記者たちは重要と思っていなかったのかもしれません。 そのため、イエス・キリストの誕生日にはいろいろな説がありました。例えば、2月2日説、3月25日説、3月28日説、4月2日説、4月19日説、4月29日説、5月20日説、11月8日説、11月17日説、11月18日説等々です。12月25日をイエス・キリストの誕生日としたのは、4世紀です。 ローマで普及していた太陽神崇拝の宗教「ミトラ教」がローマ暦で冬至に当る12月25日を「不滅の太陽神の誕生日」としていましたが、キリスト教徒たちは、マラキ書3章19~20節の記事から「イエス・キリストこそ真の義の太陽だ」と考え、この日をイエス・キリストの降誕日として祝うようになったのです。
そして、西暦325年に開催されたニケア公会議(当時のキリスト教世界の教会の指導者が集まって行った会議)で「12月25日をキリストの降誕日とする」と正式に決定したのです。 しかし、「クリスマス=12月25日」という単純なものではありません。 2世紀から4世紀にかけてエジプトのアレキサンドリアで活躍していた「バシレイデス派」というキリスト教の分派は、「イエスは人間だったが、洗礼を受けたことによって、この世に神として顕現した」と考え、独自に1月6日を「イエスの洗礼記念日」として祝っていました(この「イエスは人間だったが、洗礼を受けたことによって、この世に神として顕現した」という考えは三位一体に反しており、異端とされています)。 もともと、エジプトでは1月6日は冥界の神オリシス神の祭日でした。バシレイデス派は、イエスのほうが真の神であると主張するため、あえてオリシスの祭日にイエスの洗礼記念日をぶつけたようです。 キリスト教布教の過程で、改宗者たちがかつて楽しんでいた祭りを奪うことが布教の妨げになるため、あえて異教の祭事の習慣を換骨脱胎して取り込んだのかもしれません。 のちにこの習慣が東方正教会に伝わった際、「イエスは洗礼によって神になったのではなく、生まれた時から既に神であった」という正統派の神学が反映され、1月6日はイエスの洗礼と同時に誕生も祝う日となったのです。そして、12月25日が降誕日と定められてからは、1月6日は、「東方から来た占星術の学者たちが、幼子イエスを礼拝した日」=「イエスが異邦人(=全世界の人々)に自らを顕現した記念日」=「公現日(エピファニー)」となりました。 ややこしいことに、ロシア正教など大半の正教会では、ユリウス暦(現在、世界の標準となっているグレゴリウス暦以前に使われていた暦)で教会暦を組んでおり、ユリウス暦で12月25日に当たるグレゴリウス暦の1月6日にクリスマスを祝っています。 グレゴリウス暦は11世紀に東西教会が分裂した後、1582年にローマ教皇グレゴリウス13世によって定められたため、東方正教会は認めていないのです。 さらに、12月25日をクリスマスと認めていない、エルサレムのギリシア正教会では、ユリウス暦の1月6日に当たるグレゴリウス暦の1月19日にクリスマスを祝っています。 キリスト教徒にとって重要なのは、厳密な日付ではなく、「神がその独り子を与えてくださった」という事実なのですから、12月25日はイエスがこの地上にお生まれになった歴史的事実を「記念」する象徴的な日として理解すればいいのです。 |
[西暦って、イエス・キリストの生れた年を元年としたって聞いたけど、そうなの?] 西暦をあらわすとき、AD(Anno Domini =主の年から)とか、BC(Before Christ =キリスト以前)と書きます。キリストの誕生を基準としようと、AD532年にディオニシウス エクシグウスという人が提唱し、定着したのです。しかし、その後の歴史研究によって、イエスが誕生したときローマの属国だったユダヤを支配していたヘロデ王(聖書の中では、東方の占星術の学者たちが拝謁したと書かれている)がBC4年に没していたことが他の史料から判明したのです。 現在ではイエス・キリストの誕生は、BC4年から6年の間とされています。 |
[クリスマスシーズンって、いつからいつまで?] 教会暦では11月30日の前後で11月30日に最も近い日曜日(2024年の場合は12月1日)から始まります。 この日曜日を待降節(アドベント)第一主日と呼び、教会暦の1年がスタートします。 教会の暦は、主の来臨を待つところから始まるのです。因みに 、待降節第一主日の前週の主日は「終末主日」です。 12月24日(の日没)以前が(待降節)、25日以降(24日の日没後)が降誕節で、1月6日(公現日=前述))までがいわゆるクリスマスシーズンです。 日本では、お正月の祝が来ますから、26日にはクリスマスの飾りなどを片付けてしまいますが、ヨーロッパなどでは1月6日まで飾っています。 日本では、巷のクリスマス商戦は11月に入ると始まりますが、アメリカではサンクスギビングデー(11月第四木曜日)が過ぎるとクリスマス商戦が始まりますし、ドイツなどでは11月最終日曜日の前の金曜日から町の広場でクリスマス市が始まります。 |
[なぜ、前日の12月24日をイブとして祝うの?] "eve"は"evening"の略です。"evening"=「晩」とは、日没から「就寝時刻」を指します。ローマ帝国や古代オリエントでは、1日の始まりは「日没」でした。 古代オリエントにおける12月25日は、わたしたちにとっての12月24日の日没から始まるのです。ですから、前夜ではなく当日の夜なんです。12月24日の日没前はイブでも何でもありません。 |
[クリスマスツリーに飾るガラスなどで作った色付きのボールは何なの?] あれは、リンゴの替わりです。クリスマスツリーには本来リンゴをぶら下げるんです。 アダムとイブが禁断の木の実(聖書にはリンゴとは書かれていませんが、ラテン語で「リンゴ」は 、「悪」は と発音が似ているのでリンゴが原罪の象徴とされた。)を食べて楽園を追われたという話はご存知の方も多いと思います。 イエス・キリストの誕生によって、罪が赦され楽園に戻れるようになったという象徴的な意味があるのです。 |
[クリスマスの花環を寝かせて蝋燭を立てたやつは何なの?] 壁や扉に飾る花環(リース=wreath)自体の発祥は古く、ギリシア時代にまで遡りますが、クリスマス用としては19世紀初頭と言われています。 常緑樹で作った環の上に4本の蝋燭を立て、天井から水平にぶら下げたり、卓上などに置いて飾る花環は「アドベント・クランツ」(Advent=待降節、Kranz=花環)と呼ばれ、19世紀にドイツの家庭でで始まったとされています。初期には24本の蝋燭を立て、12月1日から毎日1本づつ点灯したものもあったようです。 待降節第1主日に1本を灯し、第2主日に2本を、第3主日に3本を、第4主日(大抵はクリスマス礼拝が行われる主日)に4本を灯します。 4本の蝋燭のほかに「イエス・キリストの蝋燭」として白くて太く長い蝋燭を輪の中心に立て、12月24日の晩(実は古代オリエントでは12月25日の晩 大抵はクリスマス・イブ讃美礼拝のとき)全5本を灯すのです。 4本の蝋燭には、入手の容易さ、見栄えのよさなどから、赤、白、金色、銀色などの蝋燭が使われますが、伝統的には、待降節の典礼色である紫色(待望、王の尊厳、悔改、節制、回心を表す)の蝋燭を使います。因みに降誕節の典礼色は白です。 但し、カトリックの場合、待降節第3主日のミサが「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリッピ4:4)という入祭唱(ミサの一番最初の祈り)で始まるため「喜びの主日」とされ、第二ヴァチカン公会議以前の典礼では司祭はこの日バラ色の祭服を身につけました。このため、薔薇色(またはピンク)の蝋燭とする教会もあります。 プロテスタント教会のなかにも、3本目にピンクの蝋燭を用いる教会もあるようですが、小金井緑町教会の場合はカトリックではありませんから、当然、「入祭唱」などないので、4本とも紫色の蝋燭を使っています。 |
["Christmas"の略は"X'mas"じゃなくて"Xmas"なの?] 「クリスマス」は英語の“Christmas”の日本語読みで、英語の“Christmas”の語源は“Christ's Mass”=「キリストのミサ」です。 英語“Christmas”の略記として、19世紀の英語圏ではキリストを意味するギリシア語の頭文字である“Χ(カイ)”、あるいはそれと同じ形であるローマ字の“X(エックス)”を省略形として用いて“X'mas”としたり、“Christ”の末字“t”を“X”に上付き添字したとする表記が多用されていました。“X.mas”やローをpに見立て“Xpmas”とも書かれていたようです。 現在の英語圏では“Xmas”あるいは“X-mas”と綴ることが多いようです。 “X'mas”は間違いではありませんが、現代の英語圏で使用が少ないことから、使わないほうがよいでしょう。 |
[前は『東方の3博士』と言ってたと思うんだけど、今は『占星術の学者』?] 確かに、口語訳聖書では「東方から来た博士たち」となっていました。これは文語訳聖書の「東の博士たち」を踏襲したのでしょう。しかし、博士といってもドクターではありません。 原語の"magos" は、元来ペルシャの宗教で祭司の機能を受け持ち、占星術にたけた職の職名なのです。 日本では「博士」とは、学問またはその道に広く通じた人・ものしり・学者を指しますし、律令時代の官名に、文章・明経・明法・算・音・書・陰陽・暦・天文・漏刻・医・針・按摩などの博士があって、それぞれ学業を教授し、学生の試験などをつかさどったことから、聖書を翻訳するとき、「博士」と訳したのでしょう。 英語の聖書では"wise men"とか"magi"、ルター訳のドイツ語聖書では"Weisen"としています。新共同訳では、原意に近い「占星術の学者」と訳されました。 ただし、聖書にはどこにも3人だったとは書かれていません。3種の贈り物を持ってきたのだから、3人だったと言い出したのは、アレキサンドリアの教父オリゲネス(184~253)で、それが定着したのです。 6世紀には、3人は「メルキオール」「バルタザール」「ガスパール」と名付けられ、12世紀頃にはメルキオールが老人、バルタザールが壮年、ガスパールが青年と個性化されました。さらに彼らは、ヨーロッパ・アジア・アフリカを代表する者とされ、「メルキオールは白い髪と長い髭を持つ老人で黄金を捧げた」「ガスパールは髭のない赤色人種の若者で乳香を捧げた」「バルタザール」は髭だらけの黒人で没薬を捧げた」となりました(ただし、名前・年齢層・人種・贈り物の種類は違った組み合わせもあるようです)。 なお、3人の遺骨は、キリスト教を公認したローマ皇帝コンスタンティヌス一世の母へレナによってペルシアで発見されてコンスタンチノーブルに移され長く人々の崇敬を受けていましたが、後に皇帝アナスタシオはこれをイタリア・ミラノの司教オイストギオに贈りました。1163年、ドイツのフリードリッヒ・バルバロッサ(神聖ローマ帝国皇帝)がミラノを占領すると、1164年ドイツ・ケルンのダッセル大司教がミラノから持ち帰ったため、ケルンはヨーロッパ屈指の巡礼地になりました。この聖遺物のために「アルプス以北最大かつ特別な建造物」を作るべく、1248年にケルン大聖堂が着工されました。完成したのは、632年後の1880年でした。現在遺骨はケルン大聖堂の黄金の大きな櫃に納められています。 |
[贈り物の黄金・乳香・没薬って何なの?] 「黄金」は王位の象徴。 王位の象徴である「黄金」をイエスにささげたことは、すなわちイエスが「諸王の王」と呼ばれる存在であることを、世界に示したことになります。 「乳香」は 祈りの象徴。 乳香樹の樹液から作られた 崇拝に使われる高価な香料。イエスが「神から油を注がれた者(キリスト)」であり、聖別されている者であることを意味し、さらに、イエス自身が崇拝を受ける存在、「神」であることも表すとされています。 乳香樹はカンラン科の植物で、アフリカのエチオピア、アラビアのイエメン、オマーンなどの痩せた土地に自生しており、樹皮に傷を付けて樹脂を採りますが、樹液は初め乳白色の液体で、空気に触れると固化し、淡黄色の涙型の樹脂になります。甘くスパイシーな香りのする樹脂を加熱すると良い匂いがします。漢方薬として、止血、鎮痛、抗菌、鬱血解消にも使われています。 「没薬」は死の象徴。 没薬樹(ミルラ)という樹木の樹液から作られ、本来、死者の身体に、死体の防腐剤として塗られるもので、世界の罪を負い「神の子」として死ぬためにこの世に生まれ、やがて復活することをも意味する、とされています。 没薬樹(ミルラ)はアラビア半島、エチオピア、ソマリアにかけて産するカンラン科の植物で、樹皮に傷をつけて採集した樹液が凝固したものが没薬、色は黒色です。 抗菌効果が強く、古代エジプトではミイラの防腐剤に使われていました。 漢方薬として、胃腸薬、傷薬、鎮痛薬に使われ、香料、化粧品にも使われています。 なお、「乳香」も「没薬」もAmazonで10g約1,000円ほどで買うことができます。 |
[サンタクロースって本当に居るんですか?] このこどもたちの疑問に対する答えとして最も有名なのが、1897年に8歳の少女がニューヨークの地元新聞”The Sun”に寄せた質問とベテラン記者の回答です。 「ザ・サン」は、当時、アメリカの地方紙で最も権威のある新聞のひとつでした。 ニューヨークに住む8歳の少女バージニア・オハンロン(Virginia O'Hanlon)は、友達から「サンタさんなんて、本当はいないんだよ」と言われ、悩んで父親に相談したのです。 困った父親は、「新聞社に聞いてみたら」と逃げをうちました。バージニアは本気になって「ザ・サン」に手紙を出しました。『サンタさんはいるのですか。』と。 この手紙を受け取った新聞社は、48歳のベテラン記者 フランシス・ファーセラス・チャーチ(Francis Pharcellus Church 1839-1906)に、回答をコラムに書くよう命じたのです。バプテスト派の牧師の家庭に生まれた彼は、南北戦争の特派員などを経て、当時は「ザ・ザン」の論説委員としてコラムを書いていましたが、辛辣な記事で物議をかもしだすことが多く、特に宗教がらみの記事ではなおさらでした。その彼にこの手紙が回ってきたのです。 彼が重圧を感じたであろうことは容易に想像できます。他愛ない少女の質問とはいえ、多数の読者を抱えた権威ある「ザ・サン」を代表する見解を述べなければならなかったからです。お茶を濁す程度の回答では読者が黙っている筈もありません。誠実に、自分のすべてをかけて回答を書かなければならなかったのです。 彼の回答"Yes, Virginia, there is a Santa Claus." は、少女に対する回答の形をとっていますが、大人の手ごわい読者を十二分に意識した回答でした。 このコラムが掲載されるや、物凄い反響を呼び、読者から感動を綴った手紙が新聞社に殺到しました。 以後1949年まで毎年「ザ・サン」のクリスマスの紙面に繰り返し掲載され続け、また世界各国に紹介されています。 わが国でも、朝日新聞、読売新聞、NHKなどが取り上げています。 原文と日本語訳はこちら(A,B)でご覧になれます。 |
[日本におけるクリスマスは?] 1549年にキリスト教が伝来しましたが、その3年後、ザビエルのあとを受けて山口で布教活動をしていた宣教師コメス・デ・トルレスらが山口の司祭館に日本人の信徒を招きクリスマスを祝いました。 しかし、豊臣秀吉や徳川幕府によるキリスト教禁制に伴い、隠れキリシタンによるクリスマスのミサや、長崎出島でのオランダ人によるクリスマスの祝いに留まらざるを得ませんでした。 幕末の開国後は、来日した宣教師や商人の間でクリスマスの祝会が催され、これに日本人も招かれるようになりました。 日本人が主催した最初のクリスマス祝会は、1874年(明治7年)原胤昭(はら たねあき)によって開催されました。 原胤昭は江戸南町奉行所の与力の子で、維新後、浮世絵商をする傍ら、宣教師カルザースの開いた築地大学校で学び、東京第一長老教会で同宣教師から洗礼を受けています。会場は築地にあったカルザースの妻が運営していた「A六番女学校」(「女子学院」の前身)でした。 この祝会の様子については、植村正久牧師の女婿佐波亘牧師の著書「植村正久と其の時代」に原胤昭の談話が収録されています。 以下がその談話です。
|