.『クリスマスなのに』
    .

      「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださいました。」
                                    (使徒言行録 13:30)

 キラキラ美しくイルミネーションの輝くクリスマス。冬の寒さの中、恋人だけではなく、みんな幸せを味わいたい季節。この季節に、たくさんのクリスマス・ラブソングが作られ、私たちの思い出に残っています。そんな中、ホントに水を差すようでまことに申し訳ないのですが、いきなり不吉なことをここに申し上げます。そう、「死」についてです。実は、クリスマスと「死」は、切っても切れない関係なのです。

 とりあえず、一つ、Q&Aです。
Q :人は、つまり私たちは、死んだら、楽になれるのでしょうか?
A:安楽死なんて言葉もありますが、聖書は、『死んだからといって、断じて楽にはなれない。』というのです。「否!」なのです。私たちは、死んだら安らかな眠りの中に置かれるのではなく、残酷な「“死”の支配」の下に置かれるというのです。ここが最初の大切なポイントです!

 「“死”の支配」とは、私たちが、自分のこの世に生きてきた意味や価値や目的や尊厳などのを一切を“無”に帰していく支配です。虚無の支配です。だから、そう、「死んで楽になるなどということは、幻想なのだ。」と聖書は教えています。
 中世の作家ダンテという人が『神曲』という作品を残しました。それは紛争や戦乱や商売の足の引っ張り合いなどが日常茶飯事に起こっている世の中で、聖職者も例外なく、悪徳を行っている人たちが死んで、どうなったか、それと救われる人がどうやって天国にいくのかということを、みごとに描き出しています(若干、読むのはたいへんでしょうが・・・)。最初の地獄編だけでも読むならば、すり鉢状の地獄の奥底に主人公は導かれ、そこで恐ろしい刑罰を受けて苦しんでいる悪徳を行った人々の姿を目の当たりにするのです。それはそれは恐ろしいものです。

 改めて申し上げます。「死」は、楽になるどころではありません。恐ろしい虚無の支配を受けるのです。しかし、教会で取り行われるお葬式では、いつも変わらず慰めと希望をお伝えします。それは、死の支配から、救い主イエス・キリストの復活に、ただ唯一の救いがあるのだということが、根底にあります。信仰者にとって、「死」は『天国』への通り道なのです。すべてを虚無に帰する「死」を、真に打ち破った決定的な出来事が、『復活』です。主イエス・キリストは、我々人を滅ぼす、「究極の敵」である「死」を打ち破られるべく、私たちと同じ、まことの人間としてお生まれになった。その短いご生涯は、十字架を目指すものであり、そして事実、十字架を担い、そして十字架に死んでゆかれた。
 
 人間の存在根拠である造り主なる神さまに、とことん背き続け、本来ならば地獄の火で焼かれるべきはずの我らのために、神さまは我らの身代わりとして独り子主イエス・キリストを遣わされた、と聖書はいうのです。そしてその通りに、イエス・キリストは十字架に罪人として死なれました。しかし、三日目(24時間以上経過し、完全に死んだということ)に陰府(よみ/死者の世界)からよみがえらされたという。これこそ、人が死んだ後もどこまでも苦しめ続ける死の支配を、打ち破ること。罪の最終的な支配である「死」に、『勝利』した出来事であったということです。『復活』によって、「死」は打ち負かされたのです。

 クリスマスは、その復活に向かう「はじまり」なのです。ここが究極のポイントです!! 願わくは、皆さまお一人お一人が、このクリスマスをとおして、ご自身の「死」を深く考え、そして、その「死」に勝利された主イエス・キリストの復活の命を分け頂いて、共々に天の御国を目指したいのです。「死」を本気で考えることは、「生きる」ことをまじめに考えることになるでしょう。きっと“まじめ”が嫌いな人には敬遠されるかもしれません。死は、ただそれだけのことだ、と。斜に構えるのも、おちゃらけるのも、悟りきるのもいいですが、本気で向き合いませんか?(これは決して嫌みではありませんよ。)
   
   我らすべての者を救うなどという、途方もないことをなさる救い主は、なんと、家畜が餌を喰う餌箱(飼い葉桶)の中に寝かせられていたという。こんなめちゃくちゃな話に「救い」があるなんて、普通ではスルーされますよね。誰もがバカにして相手にしないような話が、クリスマスの出来事。ヒーローの誕生にしては、ちょっといかがなものか・・・。その答えは、本当の救い主は、ヒーローではない、ということ。
 救い主は、我らの身代わりとなって罪人として、十字架という処罰を受けるために生まれた。そのどこに救いがあるといえるのか。答は、正義を本当に貫くためには、「裁き」がきちっとなされなくてはならない。それが十字架なのです。罪の罰が執行されているのです(ドフトエフスキーのあのタイトル『罪と罰』のように)。そしてその上で、人を滅びに至らしめる罪・悪の最終的に行き着かせる「死」に勝利する『復活』があるのです!そこに、「死」に打ち勝つ『希望』があるのです。

 それをもたらしたのが、クリスマスに誕生された主イエス・キリスト!
 飼い葉桶に寝かせられた乳飲み子、主イエス・キリスト。
 とりあえず、教会にきてみて、遭って下さいませ。