.『あり得ないはなし』
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聖書
 「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」

(ルカによる福音書 2章8〜18節)

 
 まずはクリスマス豆知識から。「クリスマス」という言葉は、「クリス」と「マス」がくっついてできた言葉です。「クリス」は「キリスト(新約聖書が書かれた言語のギリシア語だとクリストス)」のこと。「マス」は、カトリック教会の礼拝をミサというのと同じで、私たちの言葉で言えば「礼拝」となるでしょう。つまり「クリスマス」とは、「キリストを礼拝する」という意味になります。クリスマスの聖書の記事に、遠い東の国の博士たちが、新しい王としてのキリストの誕生を祝い、拝みに(礼拝しに)やってきたとありますが、それはまさにクリスマス=キリストを礼拝する出来事でありました。

 「キリスト」という言葉は、「イエス・キリスト」と、「イエス」とセットになって使われる事が多いものです。キリストを、名前の名字のように思われている方があるかもしれません。「イエス」は確かに名前です。その意味は「主は救い」です。それに対して、「キリスト」は、「救い主」という意味の言葉です。つまり、イエスという名のお方は、キリスト(救い主)ですという事を、「イエス・キリスト」という言葉で表しているのです。

 ここで、ちょっと気を付けなければいけません。と言うのは、歴史を振り返ってみる時に、「キリスト」の中身が、実に人間の身勝手な考えで都合よく入れ替えられてしまうことが起こってきているからです。人は実に都合よく、この「キリスト」の中身をすり替えます。「キリスト」とは何ものか。飼い葉桶の中の赤子は、キリスト(救い主)としてどのように歩んでいくのか。キリスト(救い主)は、いったい何から、誰を、どのように救ってくれるのか。そもそも「救い」とは何なのか。そのようなことは分かりきっていると油断していると、いつのまにか的外れになってしまうようです。救いとは何なのか、救い主はどのようにして何から救って下さるのか、その中心にあることをよくよく考えてみる時としてクリスマスの時が与えられています。

 主イエスのご生涯を聖書に見ていきますと、クリスマスという誕生の出来事ばかりでなく、不思議なことばかりです。イエス・キリストは、およそ30才の頃、公の活動を始められたと聖書に記されています。それまでは、ナザレという小さな村で、父ヨセフの仕事を受け継いで大工をしておられたよう。ところが人から見れば「突然」、おそらくご本人にすれば「時満ちて」、公の活動を始められます。イエス・キリストは、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って人々に救いとは何かを教え、弟子たちを召して町々を巡り、その福音を伝えていかれました。そして、やはり時が来たのを知って、エルサレムへと向かわれ、十字架に架けられていくわけです。聖書には、大勢の人たちが全国から癒してもらおうと、また話を聞こうと、イエス・キリストのもとに集まったと記されています。政治的な背景が何も見えないこの「ナザレのイエス」と呼ばれる人物に対して、当時の権力者たちが何としても排除しようとした理由・原因は何なのでしょう。考えてみますと、人は大勢集まってはいるが、何の統率もできておらず、政治的な脅威になるとはとても思えません。それなのに、権力者たちは、民衆を煽り立てて「十字架につけろ!」と叫ばせて、遂に「キリスト」は十字架に架けられていきます。イエス・キリストは何の抵抗もせず、不法な裁判にもかかわらず、その裁きを黙って受けていかれます。

 クリスマスの出来事の「不思議さ」や「あり得なさ」は、クリスマスだけのことではなく、イエス・キリストのご生涯、イエス・キリストの存在そのものが、「不思議」と言ってもいいかもしれません。いや、「不思議」いうレベルをはるかに越えて、「つまずき」とでも言うべきであるかもしれません。初代教会の指導者、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の1章18〜25節で、「十字架につけられたキリスト」が「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」であると言っています。神さまが与えようとして下さる「救い」を十字架に見いだすということは、決して当たり前なわけでも、すんなり受け入れられるものでもないということでしょう。普通なら「そんなバカな話があるわけがない。」「訳わかんない!あり得ない!」と言われて、スルーされるのが落ちです。イエス・キリストの救いをいただくには、十字架という「つまずき」にきっちりと向き合わなければならないのだと示されます。無抵抗で、不法な裁判で殺されていく十字架のイエス・キリストに救いがあるなど、「あり得ないはなし」でしかないのです。

 しかし、不思議な仕方で私たちは教会に導かれ、礼拝をとおして十字架の前に立たせられます。その時、クリスマスから始まって、イエス・キリストの「あり得ない」、もろもろの事柄に対して、「そんなのおかしい!」と正直に言って、しっかりつまずいたらいいのです。それでイエス・キリストをスルーするのも道ですが、不思議に「おかしい!」と思いながら、十字架の前にとどめられていると、十字架が鏡のようになってきて、自分が映し出されるようになるのです。そこに映る自分の醜さ、汚れ果て、血にそまった手をしているのに、向き合わなければならなくなります。そこから逃げ出したくなるのを、なお不思議にもとどめられて、十字架を仰ぎ、十字架の言葉に聞く時、そこに復活して、今も生けるイエス・キリストと相対していることに目を開かれるのです。

 文豪ドストエフスキーは『罪と罰』というタイトルの小説を書きましたが、この作品は、罪を犯してしまった者が、どんなに自分で償いをして罪を消そうとしても消しきないということ、そして本当に罪をなくすことができるのは、イエス・キリストの十字架の命の代償(贖罪)によるしかないということに行き着かせるものだと思います。罪を自覚するのがきっと第一歩ですが、悲しいかな、それも自力ではできません。鏡の前に立たせられて、八方塞がりになってしまう、まさにそこに復活されたイエス・キリストが相対して下さり、その釘跡のついた手が差し伸べられてくるのを見出すのです。それがゆるしの、愛の御手であることに目を開かれていく時、深い悲しみをもって悔い改めて、その御手に自分のすべてをゆだねていくことが起こるでしょう。それを生ける主イエス・キリストこそがしっかと受け止めて下さるのです。

 不思議という言い方を重ねてきましたが、そこには深い神さまの憐れみがあるのだと思います。あり得ないのは、神さまの救いの御業の方ではなく、救われるはずのないこの自分が赦され救われることです。クリスマス、その不思議さ、あり得なさは、すべて「十字架と復活を見ろ!」と指さしているものです。飼い葉桶に眠る小さな赤子の手が、やがて十字架に釘打たれるのを私たちは知っています。飼い葉桶もあり得ないですが、釘跡のついた手がこの自分に差しのべられて来るのもあり得ないのです。あり得ない恵みの中、生かされている幸いを、「クリスマス」という言葉に立ち帰って噛み締めたく願います。