.『クリスマスとオールマイティ・ゴッド
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聖書
  六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
                                   (ルカによる福音書 2章8〜18節)  
 
 この聖書の言葉は、『受胎告知』と言われるものです。私たちを救って下さる「救い主(キリスト)」がどのようにして生まれることになったのかが記されています。今の日本では、クリスマスは、イルミネーションがきれいで、家族や友だちとご馳走を食べて楽しい時を過ごすイベントとして好意的に定着していると思います。クリスマスの聖書のお話について関心のある人は、東の国の博士たちが星に導かれてやってきたとか、家畜小屋で生まれて飼い葉桶に寝かせられているイエスさまのもとに天使のみ告げを受けた羊飼いたちがやってきたということを知っていることでしょう。この天使の告げるその子が何者であるかはちょっと置いておいて、この言葉はいわゆる処女降誕などあり得ないとしてスルーすることが多いのではないでしょうか。「そんなことありえない」と現代の科学的常識からも思えますが、しかし二千年前の当事者であるマリアが一番最初にそう思って「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と言っています。二千年前だって現代だって、変わることのない理解不可能な事態です。それなのに、マリアは最終的に「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えています。どうしてなのでしょう。

 このマリアの言葉を理解するには、その前のところで天使が告げていることをマリアのように受け止めることがカギとなるでしょう。天使は、不妊の女と言われていた叔母にあたるエリサベトも、神の力によって子をその胎に宿していると告げています。マリアに先立って、神さまの特別な働きがあるのだと告げられて、その上で「神にできないことは何一つない」と、まるで宣言するかのように言われています。これは神さまは「全能」なのだと言い換えてもいいでしょう。

 聖書が示す神さまは、「全能の神」(Almighty God)と言えます。「全能」という言葉の意味は、『広辞苑』(第七版)には「何事もできないことのないこと。十全の能力。」とあります。「神の全能」と言われると、何か超常現象を起こすようなイメージになるでしょうか。聖書に示される「神の全能」は、ただ何でも好き勝手にできるということではなく、神さまの本質と連動して発揮されると言ったほうがいいでしょう。神さまの本質は「愛」です。新約聖書のヨハネの手紙一という書の4章16節に「神は愛なり」と記されているのが、一番ストレートな神さまの本質の表現です。神さまの愛があらわされる時に、神さまの全能の力が発揮されると言えます。

 少し飛躍するようですが、『ブルース・オールマイティ』という映画があります。オールマイティとは「全能」ということで、神さまから全能の力を授かったブルースという男を描いたコメディ映画です。こんな物語です。仕事や恋人に不満だらけのテレビレポーターの主人公ブルースが、自分の不運を神さまのせいにして神さまにさんざん悪態をつくのでした。すると神さまが現れて、「私の仕事に不満があるなら君がやれ」と、なんと神さまの仕事を代行させられることになるのです。全能の力を手にしたブルースは、恋人の思いを自分に向けさせようと、また出世しようと、面白がって都合のいいように全能の力を使いました。その結果、大混乱が生じます。全能の力を使っても、彼女の心はかえって離れていってしまいました。神さまの仕事としての多くの人の膨大な祈りに応える仕事も手に負えず、挙げ句の果てには全部の祈りの求めにOKを出してしまって、またまた大混乱が生じていきます。そんな中、彼女のお姉さんから彼女が祈っていることを聞かされ、パソコンで祈りを検索して、遂に彼女がブルースのために祈っている祈りにたどり着くのでした。祈られている自分、愛されている自分に気づかされ、彼はそこで神さまに「もう降参です。全能の力を持つ神はいやだ、あなたの意志におまかせします!」と祈るのですが、トラックにはねられ天国行きに。改めて天国で神さまから「君は何を願う?彼女を取り戻したいのか?」と尋ねられると、「いいえ。彼女には幸せになってほしい。こんな僕と違う神の愛のまなざしをもって彼女に愛を注ぐ人と出会ってほしい。」と言う。祈られ愛されている自分を知った時、全能の力を都合よく使って自分の思うようにしようとした愚かさを恥じ、改めて自分のことではなく、彼女の幸せを求めるのでした。さてさて、そんな彼はどうなるのでしょう。図書館やレンタルビデオなどで、可能でしたらぜひ見てみてください。
 
 この物語は、全能の力が、愛において真実に発揮されることをよく表しています。自分への愛に祈りをとおして気づかされ、神さまと愛してくれるその人に立ち帰ることのできた主人公は幸いです。「神にできないことは何一つない。」と神さまの全能を突きつけられ、そこに神さまの慈しみと憐れみが必ずあることを信じてゆだねたからこそ、マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように。」と応えることができたのだと思います。神さまの全能の力を信じるということは、神さまの愛を信じるということです。この世の不条理の中、自分の思うように、自分の考える正義に従わせるように神の全能の力を要求するのは、一番大切な愛を失っていることになるでしょう。全能の力だけを自分の考えに従わせようとして、自分が神に成り代わってしまう大きな罪がそこにあります。そんなことばかりしていて、神さまの愛にまったくふさわしくない強欲で自己中心な自分なのに、それでも愛してくださる神さまの愛があることを、神の全能の力・愛を信じてイエスさまを産んだマリアをとおして知らされるものです。私たちも、このクリスマスに改めて神の全能の力の中に生かされていること、すなわちクリスマスにお生まれになったイエス・キリストの十字架のゆるしの中に生かされていることを信じてゆだねつつ、思うようにならないこの世ですが、復活して今も生きておられるイエス・キリストに励まされつつ精一杯生きていきたいと願います。