天に一人を増しぬ   

  
天に一人を増しぬ
この詩は、Sarah Geraldina Stock 作の詩 "One less at home" を植村正久牧師(1858~1925)が翻訳したものを、植村牧師の娘婿である佐波亘牧師(1881~1958)が著書『植村正久と其の時代』(1937年 教文館刊)の第1巻 「四六 植村薫子」 の章に収録したものです。(上掲は同書p806~807の複写)
この章は1892年に、水痘に冒され、それが麻疹から気管支炎に変じ、6歳で亡くなった植村牧師の二女薫子さんの死に関わる植村牧師の心境などについて書かれた章です。
ここに収録された『或る人の亡兒』と題された一文には、第三者を装っての植村牧師の思いが描かれています。


同書によれば、植村牧師の没後、植村牧師の書斎の反古(※)の中から、書物の包装紙に彫琢(※)を加えたまま記してある訳詩のような未定稿(※)が見つかり、佐波牧師が植村牧師の弟子であった斎藤勇氏(※)に尋ねたところ、・・・・・・
この原詩は、Sarah Geraldina Stock 作で、1900年秋の Spectator 誌に載り、後に小冊子として上梓された。
最初の1連はいつかの「福音新報」(※)に転載されていた。
この作者は有名ではないが、この詩には喞々(※)として迫るものがある。
私(斎藤氏)が明治43年(1910年)に弟を亡くした時、植村牧師が小冊子になったこの原詩を貸して慰めてくれた。
私(斎藤氏)もこれを翻訳し、「福音新報」第76何号かに寄稿した。
訳文中のとある一字は「顔」というような字ではないだろうか。
・・・・・・・という内容の返書があったと記しています。


反古:ほご=書画などを書き損じた不用の紙=広辞苑
彫琢:ちょうたく=詩文の字句に磨きをかけること=広辞苑
未定稿:まだ十分に推敲を経ていない草稿=広辞苑
斎藤 勇(たけし)(1887~1982) 東京帝国大学教授、東京女子大学学長、ICU教授などを歴任
日本における英語・英米文学研究の生みの親として知られる。
植村牧師の牧する富士見町教会で大正から昭和初頭にかけ長老として仕える。植村牧師没後は高倉徳太郎牧師に従い信濃町教会に転会。
佐波牧師の長男正一氏(東芝社長・会長を歴任)の岳父。
福音新報
植村牧師が創刊した週刊伝道誌で日本基督教会の機関紙
1891(明24)~1895(明28)の1~221号、1895(明28)~1942(昭17)の1~2421号
喞々:しょくしょく=悲しみ泣く声=広辞苑


斎藤氏のいう『いつかの「福音新報」』とは、1900年(明治33年)11月7日発行の第280号であり、そのp3に次の記事があります。
これは、『植村正久と其の時代』によれば、植村牧師の筆によるものです。(第1巻p805)
   
家に一人を減じ天に一人を加ふ
スペクテートル紙上に家に一を減ずと題する歌の一節を掲載す。英國の聖公會傳道會社の書記に其人ありと知られたる、ユウジエン、ストツク氏の姉妹セラ、ゲラルデナ、ストツク氏の作に係る。愛する家族に先だゝれて悲哀に沈める人の爲めに深き慰めとなすに足るべし。之を原文のまゝ左に録す。
“One less at home:
The charmed circle broken, a dear face
Missed day by day from its accustomed place:
But cleansed, and saved, perfected by grace,
One more in heaven.”


尚、冒頭の訳詩の1行目の(=判読不能な1文字)については、Sarah の原詩でも "face" となっていますから斎藤氏のいうように「顔」が正解でしょう。


英国の週刊誌 "The Spectator" の1900年9月15日号に、P.M.Martneauによる「Mendip Hills の村の墓石に刻まれていたOne less at home・・・・・なる短詩はわたしが初めて見るものだった」との投稿が掲載されたのに対し、翌22日号の同誌に、Sarah の兄である Eugene Stock の「(あの詩は)亡妹 Sarah Geraldina Stock の詩の最初の連(stanza)であり、同封した J.F.Shaw and Co.刊行の小冊子 "Joy in Sorrow" の18ページに掲載されている」旨の投稿が掲載されています。


斎藤氏のいう『原詩は、1900年秋の Spectator 誌に載り』の 『原詩』は上記投稿にある第1連を指すものと推察されますが、 明治33年という時代(夏目漱石が留学を命じられ海路英国に向かったと同じ年)に、英国で9月15日に発行された雑誌の記事を、同年の11月7日号の福音新報に転載したということに驚かされます。


"One less at home" が収められた Sarah の詩集 ”Joy in Sorrow" は1885年に刊行されており、Eugene の投稿にある第3版は1890年に刊行されています。


"One less at home" が感動的な詩であったためか、墓碑や、新聞・雑誌の追悼記事、追悼広告などにも全文や一部が引用されています。
  例:
     ・1887年 5月15日付 "Signs of the Times"
    ・1887年第5月21日付 "The Friend : A Religious and Literary Journal"
    ・1889年 2月13日付 "Deseret Evening News"
    ・1890年 3月 1日付 "Herald of Truth"
    ・1894年12月15日付 "Daily Telegragh"
    ・"Pearls From Many Seas" (1902version)

また、1908年には、小冊子"One Less at Home" (1card)が Drummond's Tract Depot より、発行年不詳ですが、小冊子"One Less at Home"(2ページ)が R.J.Mastersにより出版されています。


『植村正久著作集 第3巻 文学』(1966年 新教出版社刊)「VI 自作の詩及び訳詩 」には、新かなづかい、常用漢字に改められた植村訳の『天に一人を増しぬ』も収録されています。(p430~433)
同書の「解説」(p435~470)において、斎藤氏は訳詩『天に一人を増しぬ』について、次のように書いています。
私は(1910年に)弟が世を去った時、この英詩だけの小冊子を植村に貸されて慰められた。
彼自身にこの訳があることを知らなかったので、「ひとり缺(か)けたり、わが家(や)には」で始まる訳を「福音新報」に寄稿した。
(植村の)訳詩は、原作が初め1900年秋の「スペクテイター」誌に載ったのち、同じ年の冬か翌年か、あるいはそれから数年後にか、できたものであろう。
『植村正久と其の時代』によれば、未定稿の遺作である。
とすると・・
斎藤氏が植村牧師から借りた小冊子は、「この英詩だけの」とありますから、1885年刊行の詩集ではなく、1908年刊行の小冊子か別の小冊子だったのでしょうか。それとも、訳詩を寄稿した「福音新報」には「・・・・・詩人が詠じたる吊(弔)いの歌の集より・・・・」と書かれているところから見て『詩集』だったのでしょうか。


以上から大胆な想像をしてみました。
1900年9月の Spectator誌で Sarahの詩(第1連のみだが)を見つけた植村牧師は、8年前に亡くした我が子への思いから甚く感動し、同年11月の「福音新報」誌上で紹介した。
その後、全文の載った小冊子を入手したので、翻訳を試み、推敲を重ねていた。
1910年に入り斎藤氏の弟が亡くなり、斎藤氏を慰めるためこの小冊子を貸したところ、この詩に慰められ、感動した斎藤氏が、植村牧師が翻訳仕掛かり中だったことを知らないまま、自ら翻訳し、植村牧師から借りた小冊子に関わることなので、訳詩を「福音新報」に寄稿することについて植村牧師に了承を求めた。(植村牧師と斎藤氏は富士見町教会の牧師と信徒の間柄でもあり、主日礼拝の後とか、集会の後とかに話し合ったのかもしれない。)
植村牧師としては、否とするわけにもいかずこれを了承したので、斎藤氏は「福音新報」に寄稿し、同年3月3日付の同誌に掲載されてしまった。
そのため、植村牧師は自らの翻訳発表の機会を失い、推敲を中止して「お蔵入り」させてしまった。
これが没後、遺品の整理をしていた娘婿の佐波牧師によって書斎の反古のなかから発見された。
・・・・・・もしかしたら、そのようなことがあったのかもしれません。


2007年4月号の『信徒の友』に、植村訳(上記『著作集』収録のものとほぼ同じ)が 掲載されたこともあり、近年、葬儀や召天者(永眠者、逝去者、聖徒の日)記念礼拝での説教や、記念会での講話などに引用されることもあるようです。
小金井緑町教会でも、2013年の召天者記念会で、山本圭一牧師により植村訳が紹介されています。また、2014年の召天者記念礼拝では、山本圭一牧師による『天に一人を増しぬ』を説教題とする説教がなされています。

尚、冒頭で別ページに掲げた英文の "One less at home" は、1885年の詩集や1908年の小冊子の原文から転記したものではありません。現在のところ残念ながら Sarah の原文が入手できておらず、引用されたものしか確認できていません。
上記例に掲げたものなど確認できた資料間では、全文・抄録の違いのほか、一部単語の大文字・小文字、単語そのものなどに小異や明らかな誤記があり、どれが原文通りなのか判断できなかったので、これらを比較検討し、原文ないし原文に近いと推定される上掲 "The Friend" のものを掲載しました。
(Sarahの原文をご存知であれば、お教えください。)

上記英文例の何れもが「5行連」で構成されており、全文のものは5行連8連となっています。
ですから、Sarahの原文も、5行連8連であったと推察されます。
これに対し、植村訳は『植村正久と其の時代』では、本稿冒頭に掲げたように、原詩の1連を2行とする全16行として掲載されており、斎藤訳は英文のものに対応した5行連8連の構成になっています。『植村正久著作集』及び『信徒の友』の植村訳では、原詩の第4連まではこれに対応した5行連となっていますが、第5連以降は対応した連の形をとっていません。
反古の中から発見された植村牧師の未定稿は、どのようだったのでしょうか。
 
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Sarah Geraldina Stock (サラ ジェラルディーナ ストック)
生:1838年12月27日 ロンドン北部 イズリントン
没:1898年 8月29日  北ウエールズ ペンマインマウル

The Child’s Life of Our Lord (1879), Bible Stories from the Old Testament (1882), Four last words from the Book of God (1889), The Story of Uganda and the Victoria Nyanza Mission (1892) など日曜学校の子どもたち向けや布教活動関連の著作多数を遺したほか、作詞したり、作詞作曲した讃美歌も多数遺しています。

Sarah の兄 Eugene Stock (1836~1928)は、英国教会がアジア・アフリカ宣教のため設立した英国教会伝道協会 (Church Missionary Society, CMS) の幹部として大きな業績をあげた人物です。
CMS創立100年にあたる1899年には、Eugene を編者とする "THE HISTORY OF THE CHURCH MISSIONARY SOCIETY" が刊行され、吉田弘/柳田裕による抄訳「英国教会伝道協会の歴史」が2003年聖公会出版から刊行されています。この「第六十五章 日出る国」(p11~26)には日本における布教の様子が描かれています。


植村正久(うえむら まさひさ)
生:1858年1月15日(安政4年12月1日) 江戸・芝露月町 (現 港区新橋)
没:1925年(大正14年)1月8日 東京府豊多摩郡淀橋町柏木 (現 新宿区西新宿)
 

1500石取りの旗本 植村禱十郎の長男として生まれましたが、1867年の大政奉還により没落。
1873年(明治6年) 宣教師バラより受洗
日本のプロテスタントの指導者であり、日本のキリスト教会の形成に大きな役割を果たしました。
1887年(明治20年)に番町教会(後の富士見町教会)を設立しました。

  


当小金井緑町教会は、この富士見町教会が1964年に設置した「伝道所開設調査委員会」による伝道所新設準備活動により、同教会の副牧師であった山本圭一牧師と同教会信徒数名を中心として、1965年に創立されました。