同じ日本基督教団に属する教会でも、礼拝プログラムの構成は少しづつ異なっていますし、よりよい形への改革も試みられています。 このコーナーは小金井緑町教会の「礼拝」についての考え方、6年間に亘る検討と準備により、2004年4月から導入した新しい礼拝プログラムの構成とその内容を紹介するコーナーです。 一部、教会員向けの文章を転載しているので予めご了承ください。 引用している聖書の個所の「略語」はこちらをご覧ください。 |
礼拝について |
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キリスト教信仰をもって生きていこうとする時、その中心にあり、土台となる具体的なものは、「礼拝」です。教会にとっても、様々な活動の中心に礼拝があります。 以下、礼拝についての私たち小金井緑町教会の考え方を記します。キリスト教にまだふれたことのない方、教会に通い出して日の浅い方には、やや分かりにくい教会独特の言葉や表現が出てくるかと思いますが、ご容赦ください。 |
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1.礼拝とは、神の御前(みまえ)で神を拝し、御名(みな)をほめたたえること | ||
礼拝とは、神の御前で神を拝し、御名をほめたたえることです。神の御前に立つということは、全き聖(きよ)さを持つお方の前に立つということです。その聖さというものは、浄・不浄という宗教的禁忌に違反して負う「汚れ」に対する「浄さ」ではなく、偽り、悪、貪欲、嘘などの人格的な関係を壊す罪に対する全き正しさや真実、誠実という意味を込め、あえて「聖」という字をあてています。そこは履き物を脱ぐようにモーセが言われたのに等しい聖なる所です(出3:5)。罪に汚れた自らを省みるときに、本来私たちは、一人としてその場には立ち得ない者です。神の御前に立たせられて神を見てしまったならば、たちどころに討ち滅ぼされてしまうべきものです(創32:31,出3:6,33:20,士13:22)。深い憐れみと慈(いつく)しみの故に、そのような者であるにもかかわらず御前に立つことをゆるされて、礼拝が実現します。 私たちは造られた者として、造り主の御前に畏(おそ)れをもって進み出ていくものです。その畏れは恐怖する恐れではありません。造り主にして全能なる方、比べ得るもののない圧倒的な権威と力とを有し給う神の御前に、おののきひれ伏す畏れです。その畏れは張りつめた緊張感を生じさせます。 畏れと同時に、礼拝は母の懐に憩う幼子の如く、深い安息の時と場でもあります。詩編131:2に「わたしは魂を沈黙させます。私の魂を、幼子のように、母の懐にいる幼子のようにします。」とあるようにです。本来ならば、私たちは造り主を造り主とせず、自らを神と等しいものとしようとする罪の故に、神の怒りを身に負わねばならない者です。その神の怒りを恐れるべきところでありますが、愛なる神(一ヨハ4:16)に招かれて立つそこは、その愛の故に「恐れ」(恐怖や不安)が締め出されている場所(一ヨハ4:18)だからです。キリストの十字架によって全く罪ゆるされ、神の怒りがのぞかれているいるからです。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥(おとしい)れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(ロマ8:15)とあるように、イエス・キリストによって、また聖霊によって、神を最も親しく幼子の如くに『アッバ』(アラム語で幼児が父を呼ぶときの言葉)と呼ぶことがゆるされています。主の祈りの冒頭にある言葉も、「父よ」という呼びかけです。私たちは、神を父と呼んで礼拝するのです。このように礼拝は、神への全幅の信頼をもった敬慕の思いの内に、安息と平安をもって神の御前に立つ時と場です。 「拝する」とは、「ひれ伏すこと」です。圧倒的な権威あるお方、王の王なるお方の玉座の前で、私たちは如何なる姿勢を取り得るのでしょうか。それはぬかずくと言われるように、膝を折り、面を伏せ、額を地に付けるようにしてひれ伏し拝むという形になります。それは恐怖に圧せられてなすのではなく、罪ゆるされ、神共にいまし給う喜びと感謝とをもってひれ伏すのです。御前に立ち得ないはずの者が、神の御前に立つ恵みと幸いを頂いた喜びによってです。 「拝する」ことのもう一つの内容は、「主の御名を呼ぶこと」です。アブラハムも約束の地に来て、まず礼拝しました。それは「主の御名を呼ぶ」というものでした(創12:8)。それは讃美する、ほめたたえるということです。神を讃美するとは、神とは如何なるお方であるかを告白することでもあります。神の救いの御業(みわざ)を告白することは、神をほめたたえることです。如何にして神は私たちを救って下さったかということを歌にして、言葉にして言い表すのです。 |
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2.礼拝とは、自分の体を聖なる生けるいけにえとして献げること | ||
礼拝とは、自分の体を聖なる生けるいけにえとして献げることです。礼拝では、神の御子イエス・キリストによる救いを頂き、それに対して自分を献げて応答することが中心となります。礼拝は何かを習得したり獲得したり、あるいは自己表現をする場ではありません。何よりもまず、神が独り子なるイエス・キリストを人とし、十字架と復活をもって与えて下さった救いの御言葉(みことば)を感謝をもって頂くことです。その救いに対して、私たちがなし得る応答は、この身を献げることしかありません。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ロマ12:1)とあるとおりです。それは私はあなたのものですと告白することとなります。私たちは神に対して、ああしてほしい、こうしてほしいという求めが先行するものですが、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6:32)と主は教えて下さっています。既に与えられている恵みに、まず心を向けましょう。「贖(あがな)う」という教会独特の言葉があります。それは奴隷を買い戻すという元々の意味があります。罪の奴隷であったところから、主イエス・キリストの計り知れない犠牲をもって贖いとられた者として、自分の人生を主のものとして、主のために生きようとすること(献身)へと向かう原点が礼拝です。 |
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3.礼拝とは、主の食卓を囲むこと | ||
礼拝とは、主イエス・キリストの食卓を囲むことです。主イエス・キリストは、御自身の十字架と復活における救いを、食卓において、パンとぶどう酒を分かつことをもって示されました。それは食卓を囲む場です。礼拝は、主イエス・キリストの食卓を囲み、主の与えて下さる命の糧(かて)を頂く場です。「わたしは命のパンである」(ヨハネ6:48)と言われたイエス・キリストは、御自身を投げ出し、十字架の苦しみと死、そして復活をとおして、自らを命のパンとして、ロゴス(「言」ヨハネ1:1)として私たちに与えて下さいます。私たちは命のパンを頂いて、主に養われていくのです。 この主の食卓を囲むことは、現臨される復活の主と相見(あいまみ)えることへの集中となります。礼拝は、召集されて御前に立つ所から、プログラムが進行するに従い、復活し今も生きていたまう主と相見える〔現臨の主との会見〕という一点に集中し、絞り込まれていきます。今も生きていたまう主と食卓において向き合うことです。それは「御言葉」(説教と聖餐)において実現されます。そこから感謝の応答をもって各々の持ち場へと派遣されていくのです。 またイエス・キリストは終末が来た時の神の国を、宴会に譬(たと)えられています(ルカ13:29)。礼拝はその神の国の宴会を先取りして与えられる恵みの食卓でもあります。キリストの再臨(さいりん)を待ち望み、「目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙21:4)と言われる神の国への希望を新たにする食卓です。 |
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4.礼拝とは、人生の主たる目的である神を知り、神の栄光をあらわし、神を喜び、唯一の慰めを頂く時と場 | ||
礼拝とは、人生の主たる目的である神を知り、神の栄光をあらわし、神を喜び、唯一の慰めを頂く時と場です。宗教改革期の尊い遺産として、いくつかの信仰告白や信仰問答が伝えられています。それぞれの冒頭の第一問は、礼拝とは何かをも示しています。 ・『ジュネーブ教会信仰問答』(私たち小金井緑町教会の伝統である長老改革派教会の祖とも言えるジャン・カルヴァンがまとめたもの) 第一問:「人生の主たる目的は何か。」 答:「神を知ることです。」 ・『ウェストミンスター信仰問答』 第一問:「人間の主な、最高の目的は何であるか。」 答:「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」 ・『ハイデルベルク信仰問答』 第一問:「生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは何ですか。」 答:「私の体も魂も私のものではなく、私の真の救い主イエス・キリストのものであるということです。」 これらの信仰問答から、礼拝とは、人生の主たる目的である神を知る時と場であり、神の栄光をあらわし神を喜ぶ時と場であり、唯一の慰めを頂く時と場であると言うことができます。礼拝は私たちの人生の意味や目的を知り、生きる力を与えられるという意味で、人生の土台をいただく、あるいは確認する時と場です。揺らぐことのない土台が据えられてこそ、よい家にたとえられる人生が建て上げられていくでしょう。 |
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5.人格的応答関係と礼拝の基本構造 | ||
礼拝の基本にあるのは、「人格的応答関係」です。造られた人間は罪に陥る時、造り主である神との関係を断絶していきます。応答関係を失ってしまいます。呼ばれても応えようとしなくなってしまいます。そんな人間の罪にもかかわらず、いつも神は先行して私たちに呼びかけ、救いを告げ、実現して下さいました。神は御子イエス・キリストを遣わし、「救い」を与えてくださいます。この救いに対して私たちは、「信仰」をもって応答するのです。 「信仰」とは、具体的には礼拝をささげることであり、御言葉に従った生活をすることです。礼拝そのものが、神の呼びかけであり、またその呼びかけに対する応答です。礼拝の具体的な礼拝式順において、大きな流れでも、細かい項目でも、この人格的応答関係があらわされています。 教会は「新しい契約」によって一つとされる契約共同体です。礼拝には、一人の神に造られた人として神の呼びかけに応える側面と、共同体として共なる祈りや告白や讃美をもって応えていく側面とがあります。 この人格的応答関係という基本的な関係に立って、礼拝の基本構造は次のように大きく5つの要素によってできています。 |
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招 き: | まず第一に神の招きがあります。 招きに対する応答として頌栄を歌います。 項目として、招詞・頌栄が含まれます。 |
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悔 い 改 め: | 神の御前にあって、まずなすべきは悔い改めです。来し方の歩みを省み、神に背いた罪を悔い、告白する部分です。そして御言葉にあずかる者となさせて下さるように聖霊の助けと導きを長老の祈りの内に願い求めます。 項目として、主の祈・交読・讃美・祈祷が含まれます。 |
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御 言 葉: | 「御言葉」は見えない御言葉としての説教と見える御言葉としての聖餐(せいさん)があります。 この2つはコインの裏表のように一体で不可分なものです。聖書朗読と説教、そして聖餐が御言葉の内容になります。 小金井緑町教会では、聖餐は、毎月第一主日と教会の三大祝祭日(クリスマス・イースター・ペンテコステ)の主日に、説教に続いて行います。 項目として、聖書朗読・讃美・説教・祈祷・聖餐が含まれます。 |
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感謝の応答: | 与えられた救いと恵みに対して、感謝の応答をします。 項目として、讃美・信仰告白・献金が含まれます。 |
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祝福と派遣: | 父・子・聖霊なる神の祝福のうちに、新しい歩みへと派遣されます。 項目として、頌栄と祝祷が含まれます。 |
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6.教会の基本方針との一致 | ||
礼拝は、小金井緑町教会の基本方針と一体で不可分のものです。 |
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小金井緑町教会基本方針 私たち小金井緑町教会は、ただ神に栄光を帰することを使命とし、この世で福音を証しするキリストの体なる教会として、下記の二つの柱を基本にすえ、教会形成と伝道に励む。 |
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1)召し集められる教会 《召集》 | ||
私たちは主の召しによって御前に集められる礼拝を原点とする。私たちは御前において御名をたたえ、罪を悔い改めて告白し、救いの言葉(御言葉と聖餐)をいただき、感謝をもって自らを神に献げる礼拝を、霊とまことをもってささげる。この召しは信仰と愛に根ざした交わりをなす教会への召しでもある。 | ||
2)遣(つか)わされる教会 《派遣》 | ||
私たちは礼拝において聖霊の導きによって福音の奥義(おうぎ)を啓示(けいじ)せられ、召しに応える生活へと派遣される。私たちは備えられたそれぞれの持ち場に世の光・地の塩として遣わされ、キリストを証(あかし)し、キリストにならって隣り人に仕える。 |
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7.礼拝に関する指針 | ||
1)簡潔を旨とする | ||
小金井緑町教会の礼拝は、旧プログラムでも「簡潔を旨とする」ものでありました。新プログラムにおいても、主にささげる礼拝は、できるだけシンプルな形で、中心的なことがらを明確に表すものであろうとしています。また司式者の言葉も簡潔にし、多くの言葉を重ねることのないよう努めることとします。 | ||
2)文語体の言葉を用いる | ||
神にささげる礼拝の言葉として、私たちは「招詞」「主の祈」「交読」「信仰告白」「洗礼・聖餐式文」「祝祷」は文語体という伝統的な日本語を用います。その意図は、簡潔にして明瞭、そして伝統的な日本語の美しさと格調の高さを持つ文語体が、神にささげる言葉としてふさわしいものであるとの考えによります。 | ||
3)讃美について | ||
礼拝における讃美はすべて、讃美歌をまず一度奏楽で聞いた後に、皆で声を合わせて歌います。曲の最後の4小節前で起立して讃美します。 礼拝での讃美は、できるだけ讃美歌の主旋律を歌います。教会には讃美の歌を美しいハーモニーをもってささげる伝統があります。そのようにパートに分かれて歌う讃美は、聖歌隊などに受け継がれてきています。それは特別な訓練と練習を経て備えられるものです。 礼拝の讃美では、讃美歌に慣れていない方や音取りの苦手な方などもあり、また全体の調和を大切にいたしたく、ユニゾン(斉唱)で歌うこととします。 |