1.キリストの定められた聖礼典 | |||||||||||||||||||
洗礼は、イエス・キリストの十字架と復活による「救い」の見えるしるしです。 教会が洗礼を執り行う根拠は、主イエス御自身が洗礼をお受けになり、そして主イエス御自身が命じられたことによります。祝祷の派遣に関して既に紹介しましたが、マタイによる福音書28章19-20節にこうあります。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」 洗礼は救いを表すものですが、そこで救いとは何かが問われます。洗礼という行為によって、キリストの十字架と復活による全き罪の赦し・復活の生命にあずかり、神共にいまし給うこと(マタイ1:23)をあらわすのです。 |
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2.新生 | |||||||||||||||||||
洗礼とは、「キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられ」ることです(コロ2:12)。 イエス・キリストは「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)と言われています。 洗礼の水は、「死」を象徴しています。もともとは、受洗者は完全に水中に沈められました。それはキリストと共に死ぬことを表しています。その死の淵から、キリストと共に引き上げられ、復活の生命、永遠の生命に新たに生かされる者となるのです。それまでの歩みの延長線上に御国があるのではなく、それまでの歩みに終止符(ピリオド)が打たれるのです。 ローマの信徒への手紙6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」とあるように、洗礼は新しい命に生きる、すなわち新生する時です。洗礼はこれらの意味から生涯に一度だけになります。 |
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3.キリストの体(教会)の一部となる | |||||||||||||||||||
コリントの信徒への手紙一12章13節に「一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」とあります。 一つの体とは教会のことです。洗礼はただ個人的・内的なことがらではなくて、教会の一員となる出来事であるということです。神の家族の一員としてその交わりの中に加わる原点です。ガラテヤの信徒への手紙3章26-27節に「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」とあります。 |
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4.新しい契約の締結 | |||||||||||||||||||
洗礼はイエス・キリストの十字架と復活による「新しい契約」を結ぶということです。 イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦し・永遠の生命を与えられ、その救いに応えていく約束です。 それはキリストの体の一部として教会の一員となり、そこで御言葉にあずかり、御言葉に従って生きていくということです。生涯を教会の一員として生きると約束することです。 洗礼によって、神との契約関係の中に生きていくのです。私たちのアイデンティティ(私は何ものであるかということ)を基礎付け、神との関係、人との関係を基礎づけているものは、洗礼において結ぶ「新しい契約」なのです。この神との契約が基盤となって、人と人との関係も契約や約束事に基づいて結ばれるのです。 牧師となる按手式や教会の教師就任式、長老・奉仕者の就任式、結婚式もみなそこで誓約を交わし、約束によって結ばれる関係を築いていくのです。契約(約束)によって結ばれる関係が、聖書によって示される関係のあり方なのです。 |
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5.洗礼に至るまで | |||||||||||||||||||
洗礼を受けたいと志したならば、まず牧師にその旨申し出、相談をしてください。 牧師との話し合いと祈りの上、牧師の了承を得て、牧師をとおして長老会に受洗準備会の開始の承認を求めます。長老会で承認の上、受洗準備会を開始します。 受洗準備会は、日本基督教団信仰告白を中心に学んでいきます。受洗準備会を終え、その志しに変わりなく、日本基督教団信仰告白を告白し、教会の一員としての責任を全うする意志を確認の上、牧師をとおして長老会に洗礼執行を願い出ます。 長老会は信仰試問会を開催し、志願者の信仰の試問を行います。長老会で承認の上、定められた時と所で洗礼式を執り行います。原則的には主日礼拝の中で行います。 |
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6.洗礼式の式順 | |||||||||||||||||||
式文が用いられます。 |
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7.司式者 | |||||||||||||||||||
洗礼を含む聖礼典の司式は、按手を領した牧師が執り行います。通常は日本基督教団の正教師たる教会の主任担任教師(教団の教憲・教規に従い)が執り行います。 |
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8.幼児洗礼について | |||||||||||||||||||
教派によっては幼児洗礼を否定しているところもありますが、長老改革教会の伝統に立つ小金井緑町教会では幼児洗礼を行っています。 幼児洗礼とは、親の信仰と願いに基づいて、その子(幼児)に洗礼を授け、教会の枝とならせます。これは教会という共同体の一員に加えられ、その信仰の交わりの中で、やがて成長して自ら信仰を告白するように導く責任を親も教会員も約束をするものです。 イエス・キリストによる新しい契約を結んで救いにあずかるという過程において、たとえて言うならば、幼児洗礼は、まず神の側が新しい契約の契約書にサインをしてくださったものと理解できるでしょう。親は、やがて本人が契約の当事者として、自らの責任でサインをして、その契約が完結することを願い、祈りと福音を伝達し証しする責任を果たしていかねばなりません。 幼児洗礼を受けた者は、成長して、自らの意志をもって信仰告白を神と会衆との前でなす(信仰告白式/堅信礼と言われます)ことによって、救いの契約が完全に成立したと言えます。 ですから、幼児洗礼を受けた者でも、信仰告白式を経るまでは、聖餐にあずかることはできません。 |