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日々の聖句

このコーナーは、山畑勝美牧師が選んだ1年365日の日毎の聖句とショート・メッセージからできています。
教会暦を意識してはいますが、イースター、ペンテコステなど移動祝祭日は毎年異なりますから、日付と記載内容が必ずしも一致しませんのであらかじめご了承ください。
なお、"索引"で聖句から日付を逆引きできますのでご活用ください。


[1 月]

1月1日  「主に信頼せよ」
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
箴言 3章5〜6節
わたしたちの前に新しい年の門が開かれ、道が前方に向かって続いています。それはわたしたち自身が歩む道なのです。けれどもわたしたちの目は、はるか彼方まで見通すことが出来ません。この道をどのように歩んで行くべきか、今その足を一歩踏み出すためには、新しい心を持って臨まねばならないと感じます。誰しも思いは同じと見えて、新しい年への期待がそれぞれに年頭所感としてもたらされ、一年の計を元旦に立てるのです。しかし、明日に向かって今日を如何に生きるかは、確かな拠り所を前方に持たない者にとって、これほど難しい問題はありません。なぜなら、今日の確かさは必ずしも明日を保証してはくれないからです。
「心をつくして主に信頼せよ」とイスラエルの賢者は教えています。「自分の分別に頼るな」とも言うのです。明日に生きる知恵とはこういうことなのだと聖書が教える言葉を心に刻み込んで、新しい年の歩みを踏み出したいものです。そして、「常に主を覚えてあなたの道を歩け。」とあるように、わたしたちがどのような状況におかれるとしても、いつでも、何処でも、「この方においては『然り』だけが実現したのです。」と言われている主イエス・キリストの確かさに身を委ねて生きる者でありたいのです。「そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」のです。そして、あなたはそこに、明日に向けて新しい地平が開かれてくるのを見ることが出来るでしょう。
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1月2日  「神の確かさに生きる」
信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。
ヘブライ人への手紙 11章8節
森有正さんが、「人生は一つの冒険である」と言っています。それは、日毎に新しい時へと向かい、未知なる世界に自分を見いだすこと、だからであろうと思います。「未知との遭遇」とでも言うことが出来るかも知れません。しかし森さんは、「その冒険と反対の意味の言葉がある。それは同化という言葉である」とも言っているのです。つまり、何よりも自分というものが先にあって、自分のまわりにおきてくることを、そのまま受け入れることをしないで、その中で自分に都合の良いものだけ、あるいは自分の判断に適合したものだけを取り、後は捨ててしまう、自分に合わせた生き方をすることだと言うのです。現代ではこういう生き方が歓迎されるのかもしれません。それは、自分の確かさの中にだけ生きようとすることだからです。しかし、アブラハムはそういう生き方を取りませんでした。彼は冒険を選んだのです。神の召しに応じて、自分の確かさではなく、神の確かさの中に生きる道を選びました。ヘブライ人への手紙の著者はそのことを取り上げて、「信仰によって、アブラハムは、・・行き先も知らずに出発したのです。」と言っているのです。信仰とは自分の確かさではなく、神の確かさに生きることなのですから、もし人生が一つの冒険であり、未知なる世界に自分を見いだそうとすることであるならば、わたしたちもまたアブラハムの如く、神の確かさに賭けたいのちを生きる者でありたいと思います。そこにこそ「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」信仰の道が開けてくるからです。
1月3日  「光に歩む」
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネによる福音書 8章12節
今日の聖句は、わたしたちにまず光の所在を告げています。そこに光がある、目指すべきものは何かが明らかにされているのです。「わたしは世の光である」と、イエスは言われます。わたしたちの視野にしっかりと入れておかなければならないイエスの存在が示されているのです。そうでないと、光のない暗黒の原野に足を踏み入れたように、生きる手がかりを失ってむなしさの中で立ち往生してしまうことでしょう。信仰に生きるということは、信じる対象を持って生きるということに他なりませんから、そこから外れてしまえば、生きる確かさも喜びもどこかへ消え去ってしまいます。そういう世界こそ闇の世界に他なりません。けれども、イエスの言葉はわたしたちに光の所在の確かさを教えてくれます。光があるのです。そして光のあるところには闇はありません。もし、わたしたちの人生が暗いと嘆くのであれば、その闇にこそこの光を灯さなければなりません。イエスの招きは暗い人生へ光をもたらす招きなのです。イエスはヨハネによる福音書12章46節で「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」と言われています。イエスがわたしたちの生のただ中に光となられるとき、そこに闇はなくなり、生きる望みと力が湧いてきます。イエスこそ、わたしたちの命の光なのです。望みのない暗い生活、喜びのない生活に別れを告げ、明るい、希望に満ちた生き生きとした人生へ歩み出すためにイエスの招きに従いたいのです。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェ5章8節)
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1月4日 「神への信頼」
わたしたちは自分が真理に属している事を知り、神のみ前で安心出来ます。心に責められる事があろうとも。神はわたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。
ヨハネの手紙 一 3章19〜20節
「神はすべてをご存じ」だということ、これにまさる信頼の根拠は他にありません。新しい年のわたしたちの歩みを安定と確かさにむすびつけ、守り導いてくれる言葉がここにあります。「心に責められる事があろうとも」とは何とあわれみと慈愛に富んだ言葉でしょうか。わたしたちはごく小さなことでも気にし、自分を責め、自信をなくしてしまい、またそのような自分をひどく哀れに思うのです。そしてワラをも掴むような思いで惨めな自分を正当化しようとしてあがくのですが、勿論、そのような事が成功するはずもなく、より一層不安に落ち込むだけなのです。けれどもヨハネは言うのです。「言葉や口先だけではなく、誠実に愛し合おう。」と。それがお互いの心を確かさへ結びつけ、真の平安をもたらしてくれるのだと、彼はそう確信しています。なぜなら、「神はすべてをご存じ」なのだからです。自分の弱さも、醜さも、何もかもご存じなのだったら、もう神の前でいい顔をしようなどと考えなくてすむではありませんか。神の前だけでなく、誰の前でも、そのまま、あるがままの自分でおれる、その確かな安心に支えられて生きられるということの素晴らしさが、互いに愛し合う事によってわたしたちにもたらされるのです。主イエス・キリストに結ばれた者たちにとって、すべてをご存じである神への信頼は、お互いが心から愛し合うことの中に確かにされるのだということを、この聖句から教えられるのです。
1月5日  「新しい始まりへ」
ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
ヨハネによる福音書 2章1〜3節
婚礼とは人生における一つの新しい始まりです。そして、婚礼は一人の人格ともう一人の人格との相互の契約、つまり、約束が中心になります。それは神と人との間の契約、約束を反映していると聖書では考えられています。ですから、神との契約が祝福を伴うように、婚礼において人間相互の間に交わされる契約にも、神は祝福を伴わせて下さるのです。イエスがこの婚礼に招かれていたということも、そのしるしと考えることが出来ましょう。宴たけなわというとき、思いがけずぶどう酒が尽きてしまいました。せっかくの祝宴が中断の憂き目を見ようかと思われ、台所方の困惑もさこそと思われた時、母マリヤはすべての困惑と悩みをイエスに委ねました。「ぶどう酒がなくなってしまいました」。イエスがそこにいて始まりが終わりになったり、喜びや希望が中断させられるということはありません。イエスにおいて終わりは常に新しい始まりとなるからです。物語は僕たちが命じられたように水がめに水を満たして宴会の世話役のところへ持って行くと、美味なぶどう酒に変わっていた不思議を伝えています。そろそろお開きかと思われる宴の終盤、より美味なぶどう酒の供応を受けて満足する世話役、そして面目を施した花婿。すべてそれらは、新しい始まりに伴われたイエスより与えられた祝福に他なりません。ヨハネはこの不思議を「最初のしるし」と呼んでいます。それはイエスが共にいて下さる恵みへの最初の招きだったからです。
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1月6日  「われらに助けあり」
わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。
イザヤ書 41章13節
いろいろな言葉がわたしたちの耳に入ってきます。優しく甘い言葉もあれば、心も凍りつくかと思われるような厳しい言葉もあります。さまざまな言葉が聞こえて来、そしてまた消えて行きます。パウロは「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と言っていますが、果たしてわたしたちの耳はどれほどキリストの言葉を心に聞きとどめているのでしょうか。新しい年の歩みを踏み出したわたしたちは、常にも増してしっかりとみ言葉に耳傾け、聞く者でありたいと思います。なぜならば、そのことにおいてわたしたちの信仰は確かなものとされ、より深く神への信頼を強められるからです。荒野で悪魔に試みられたとき、イエスは答えて、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われました。人として生きる真の拠り所が語られる言葉を、わたしたちは心に聞きとどめつつ生きたいのです。自分のいじけた心で耳を閉じてしまわないで、わたしたちの危急の時にこそ力となる言葉を聞きとどめる耳を持ちたいのです。 預言者は語ります。「わたしは主、あなたの神。・・・恐れるな、わたしはあなたを助ける」と。遠い時代に、捕囚の民イスラエルに告げられた言葉が、今わたしたちの耳にも届いてはいないだろうか。キリストに結ばれて生かされている民に神は語りかけて下さっているのです。「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と。しっかりと聞きとどめておかなければならない言葉があることを忘れてはなりません。
1月7日  「新しい生き方」
あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
ローマの信徒への手紙 6章11節
新しい時に生きようとする者は「新しい人」でなければなりません。時代は既に、わたしたちが古いままの人間では生きられないことを、様々な形で具体的に示しています。価値観が変わり、生き方もまた変えられつつある現代社会です。このような時代に生きるわたしたちは、キリストに結ばれた新しい生き方を求めなければなりません。それは、罪に死に、キリストに結ばれて神に生きる生き方です。パウロは、わたしたち自身がそのように生かされ、現にそのように生きているのだと考えなさいと言うのです。口語訳では「認むべきである」と、少し強調した言い方になっています。それは、バプテスマにおいて既にわたしたちがキリストに結び合わされ、死から生へと転換したことを認めなさいということなのです。「そう宣言すべきである」と訳す学者もいます。わたしたちがキリストに結ばれるために洗礼を受けたのは、その死にも与る者となり、またキリストが死者の中から復活されたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのだということを知らないのか、と問うパウロです。そして彼は、わたしたちはキリスト者とされた後も、繰り返し神に逆らい、悪い思いを起こす人間であり、また自分の弱さを逆手にとって自分を正当化してしまうような者ではありますが、しかし、それにもかかわらず、キリストに結ばれて生きる者は、決して罪に従って生きているのではない、神に対して生きているのだということを確信しなさいと言うのです。キリストと共に死んだ者は、キリストと共に生きる者だからです。
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1月8日  「御心を悟る」
こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、霊≠ノよるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。
コロサイの信徒への手紙 1章9〜10節
イエスは「主の祈り」において、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」と祈るように教えられました。この祈りは、わたしたち自身が神の御心のもとに生きようと願い求めることでもありました。しかし、御心のもとに生きようとするためには、神の御心が何であるかを十分にわきまえていなければなりません。なぜなら、そこにこそキリスト者の生の始まりがあり、終わりがあるからなのです。けれども、わたしたちの現実は絶えずそこに雲がかかり、おぼろであって、確かに知ることに困難を感じとっているのです。またその不確かさがしばしば神への信頼を危うくすることも多いのです。「何が御心なのであろうか?」と疑いたくなることもあります。苦難の現実において御心を知るということは本当に難しいことなのだと思い知らされるのです。そうであればこそ使徒パウロは信徒のために祈るのです。霊≠ノよるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟るようにと。それはこの世の知恵や理解力では至り得ない深みにあるのですが、ただキリストによって開かれた心によってのみ汲み出すことが出来る恵みの賜物なのです。ですから、その恵みにおいて一層深く「神を知る」ようになって欲しいとパウロは祈り願うのです。疑い、迷いの闇夜に、真実に生きることの喜びをこの知識が与えてくれるからなのです。
1月9日  「心の貧しい人々」
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5章3節
イエスの「山の上の教え」は、まず祝福の言葉から始まります。その最初が「貧しい人々」への祝福です。マタイは「心の貧しい人々」としていますが、ルカは単に「貧しい人々」と言っています。あたかも「貧しいこと」が幸いなのだと言っているかのようにも思えます。確かに、富むこと、豊かになることによって、かえって人間らしさというものが失われて行くことがあることを考えますと、貧しさのゆえに、互いに支え合い、助け合って生きて行くことの中に、人間としての生命的な共感を持ち合えることのほうが、はるかに幸せなんだと言えるかも知れません。しかし、イエスが語っているのは、この世的には何も頼れるものがない、頼ることが出来ない貧しさであり、「人」という文字が示すような相互に支え合う基盤を失った貧しさではなかっただろうか、そういう貧しさに向き合って生きて行かなければならない人々のことを、マタイは思い描いていたのではなかったかと思います。共同訳では「ただ神により頼む人々は、幸いだ。」となっています。貧しさを何かが不足しているかのように量的に理解しないで、ひたすら神により頼む心の問題として捉えるとき、わたしたちはそこに本当の幸せの所在に行き当たるのではないでしょうか。なぜなら、「天の国はその人たちのものである。」からなのです。そこは神がいます所、神がご支配になっている所、神が共にいて下さる所なのです。詩編八四編には「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を見ている人は。」「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう。」と歌われています。
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1月10日  「悲しむ人々」
悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
マタイによる福音書 5章4節
不思議な言葉を聞きます、「悲しむ人々は、幸いである」と。どうして悲しむ人が幸せであり得るのでしょう。けれども、そのような思いでこの言葉につまずく前に、幸せへの道が悲しみの中にある人々にも開かれていることを知りたいと思います。人間にはさまざまな悲しみがあります。思いがけない不幸に直面して悲しむ人、失敗や挫折によって希望を見失って悲しむ人、誤解、無理解、中傷などによってひどく心を傷つけられ悲しむ人など、このような人々にも幸せへの道は決して閉ざされてはいないことをイエスの言葉を通して知りたいと思うのです。イエスは言われます、「その人たちは慰められる」と。この「慰める」という言葉は、聖書の中では、「助ける・励ます」という積極的な意味でも使われている言葉です。ですから、悲しみに打ちひしがれている者にも助けがあり、励ましがあり、助け手が共にいて下さるならば、あなたの不幸はもはや不幸ではあり得ないのです。パウロは神を「慰めを豊に下さる神」と呼んでいます。どのように悲しみ、苦しみが多くとも、わたしたちはキリストに結ばれて慰められ、励まされ、助けられる者、神の慰めを持つ者なのです。ですから、わたしたちは悲しんでいるだけの人であってはなりません。悲しみ中のにあっても助けられる者であることを知る、そういういのちを生きる者でありたいと思います。イザヤはメシヤ預言の中で「彼が負ったのはわたしたちの痛み(悲しみ)であった」と言っています。わたしたちが痛み、悲しむとき、その悲しみを負うて下さる方がいることを知る、そこに真の慰めがあり、励ましがあると言えるのではないでしょうか。
1月11日  「柔和な人々」
柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
マタイによる福音書 5章5節
幸せへの道は柔和な人々に開かれているとイエスは教えています。国語辞典では、柔和とは「性質が優しくおとなしいこと・素直なこと」と説明されています。こうした世間並みの柔和とは、誰にも好まれる人間的美徳の一つであるかもしれませんが、しかしその反面、積極性に欠けた間の抜けた性格として、必ずしも頼もしがられる人間としての良いイメージにつながってくるわけではありません。それ故、ただおとなしく穏やかであることが幸せにつながってくる訳ではないと知らねばなりません。共同訳では、「耐え忍ぶ人々は」となっています。つまり、この柔和には苦難に耐える強い心が伴わなければならないということなのです。耐える力があってはじめて、穏やかに落ちつきをもって事に対応できるのです。ただおとなしいだけの柔和では毒にも薬にもならないし、決してキリスト者の美徳でもないのです。本当の柔和は、神に深く信頼し、ひたすら神のみ心に従って生きようとする心から生まれてきます。そして、こういう人が神の約束の地を受け継ぐことが出来るのです。そして、柔和と謙遜とは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されている(コロサイ3:12)確かさでもあることを知らなければなりません。民数記12章には「モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。(口語訳)」と記されています。しかし、モーセはただおとなしいだけの人、謙遜な人であった訳ではありません。彼の決断と行動力はエジプト王パロの心を震え上がらせ、恐れさせました。彼の柔和、謙遜は神への深い信頼から生まれた落ちつきと平安によるものでありました。そこにイスラエルの民が約束の地へと導かれて行く道が開かれていたのです。
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1月12日  「義に飢え渇く人々」
義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
マタイによる福音書 5章6節
「飢え渇く」ということは、豊かさの中に安住している時代の人間にとって理解し難いことかも知れません。ここで言われている「飢え」とは、少しばかりの軽い食事で満たされるようなちょっとした口さみしさではありません。「渇き」も一杯の冷たい飲み物で癒されるようなものでもありません。この「飢え」は餓死しつつある者が食物を求めるような、また「渇き」とは、水を飲まなければ死んでしまうような状態を表しているのです。しかし、「義に」と言われている点に注目しましょう。食物や水を切実に求めて生への執着を表すように、ここでは「義」に飢え渇く者が幸いだと言われているのです。しかし一般的には、「義」とは物事の理にかなったこと、正しいこと、社会的正義と言った道徳的な概念として理解されています。そうした理解から考えると、このイエスの言葉は、世間的にも立派な人になりたいと一身に願い努力する人が幸せになれるのだということになりそうです。けれども、聖書において「義」とは神との関わりの中における正しさですから、共同訳で「み心にかなう生活に飢え渇いている人々は幸いだ。」とありますように、神を求める切実さの中にこそ祝福が備えられているのだと言えるのではないでしょうか。詩編119編に「いかに幸いなことでしょう、主の定めを守り心を尽くしてそれを求める人は。」とあります。イエスの言葉はこのように、神との正しい交わりなくば生きられないとの切ない思いに、神が応えて祝福して下さると語っているのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ロマ10:13)という、その恵みを語る言葉なのです。
1月13日  「憐れみ深い人々」
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
マタイによる福音書 5章7節
イエスは至福の教えの前半において、幸せへの道が、ひたすらな神への愛と信頼の中に開かれていることを教えてきましたが、後半において、その道は自分自身を愛するように隣り人を愛する事の中に開かれていることを教えるのです。「憐れみ深い」は「情け深い」とも言い換えることが出来ます。それは人間の悲しみや痛みを共感できる心でもあります。隣り人の悲しみや痛みを共に分かち合える人は、また自分の痛み悲しみを共に分かち合ってくれる友を持つということに他なりません。隣り人に自分の心を閉ざせば、自分もまた隣り人の心から閉め出されるということなのです。 「憐れみ深い」とは「愛する」ということでもあります。言い換えれば、「愛する者は幸いだ。その人は愛されるから。」と言うことになります。「互いに愛し合いなさい」と愛に支えられたいのちの在り方をイエスは教えられました。パウロは「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と、愛に生きる者の具体的な姿を言い表していますが、そのようにわたしたちが愛し合うところ、そこでは神がわたしたちと共にいて下さる幸せを味わうことが出来ましょう。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(ヨハネ一3:17)と言われていますように、愛も憐れみもないところには神はおられないし、神の愛を味わい知ることもまたあり得ません。人を愛する者はまた愛される人でもあり、憐れみ深い人は、多くの憐れみを得ている人でもあります。しかも、その人は神の愛の中に生きる者でもあるのです。
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1月14日  「心の清い人々」
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
マタイによる福音書 5章8節
イエスは心の清い人々の幸いを語ります。なぜなら、人は人間のうわべを問題にしますが、神は人間の心をご覧になられるからです。うわべだけという事であれば、水で洗えば汚れも落ちるでしょうし、落ちない汚れでも新しく上を塗り直せば見えなくなります。どんなに非道なことをしていても、巧みな言葉でこれを覆い隠すことが出来るというものです。けれども、心まで偽ることは出来ません。心はその人を映すからです。神はそういう人間の真実を見られるのです。ですから、心の清い人々というのは、偽りのない、ありのままの姿を神に見ていただくことの出来る人々のことに他なりません。「わたしの心を潔白にした、と誰が言えようか。罪から清めた、と誰が言えようか。」(箴言20:9)と言われていますように、わたしたちは自分の汚れた手で自分の心を清めることは出来ません。しかし、「人の心をお見通しになる神は、・・・彼らの心を信仰によって清め(使徒15:8〜9)」られるのです。わたしたち自身の手によって清い心が保たれるのではなく、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められる」のです(ヨハネ一1:7)。それゆえ、心の清い人々とはキリストによって罪赦された人々のことであり、信仰によって生きる人々のことなのだと言うことが出来ましょう。そして、彼らの心には彼らを生かして下さる神の愛と真実が映し出されるようになるのです。そして、イエスが教えられたように、自分を愛するように隣り人を愛し、互いに愛し合う者になるのです。その時、彼らは神を見るようになります。なぜならば、愛あるところに神が存在するからです。
1月15日  「平和を実現する人々」
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
マタイによる福音書 5章9節
イエスは、憎しみや争いの中にではなく、何よりも神と人への信頼と愛の中に生きる人々の幸いについて教えて来ましたが、ここで「平和を実現する人々」の幸いを語ります。これは決していわゆる平和愛好者の幸いを語っているわけではありません。平和を彼自身のものとして、その隣り人との間に実現して行く者の幸せを語っているのです。しかし、平和とは、単に争いがないということ、平穏が保たれているということなのでしょうか。平和は、まず第一に神がイエス・キリストによって実現して下さったもの、そして、キリストこそがわたしたちの真の平和なのです。パウロは、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と教えています。神との平和が神との正しい関係の回復にあるように、この平和に支えられて、人と人との間に正しい関係を作り出して行くことが平和を実現して行くということではないでしょうか。イエスは「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」と教えています。平和とは間に恨みを置かないことです。憎しみや不信を置かないということなのです。しかし、それは愛によってしか克服し得ず、愛によってのみ実現することなのです。ですから、ここでも「互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めが重い意味を持つようになってきます。なぜなら、愛は神から出、愛する者は皆神から生まれ、神の子と呼ばれるようになるからです。
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1月16日  「義のために迫害される人々」
義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
マタイによる福音書 5章10節
イエスは最後に迫害される人々の幸せを語っています。なぜなら、幸せとは良いことや喜べる状況の中にだけあるわけではないからです。けれども、そうだからと言って、この世の苦しみや不当な圧迫がすべて幸せにつながるということにはならないのです。イエスが語っている幸いとは、神の御心に従って生きようとして苦しめられている人々の幸せなのです。この人々とは、悔い改めを通して人生の転換をはかった人々のことなのです。当然それまでとは異なった価値観を持つようになり、違った人生に生きようとします。その新しい生き方がさまざまな抵抗に出会うのもまた当然のことでしょう。イエスは信仰に生きるということは大変なことだと知っています。神を信じたらすべてが良くなるなどと安直に考えたりはしていませんし、そのようなことは教えもしません。それ故彼は、信仰に生きる人間の苦しみを共に担って下さるのです。そして、その苦しみを「わたしのため」(一一節)と言って下さるのです。キリスト者にとって、信仰に生きる人生のさまざまな苦しみが、自分のための苦しみではなく、キリストのための苦しみだとされる事ほど大きな慰めと励ましはありません。キリストの苦しみを担う者へと変えられるのです。そこに喜びがあります。そして、天の国はそのような人たちのものだとイエスは言われるのです。彼はまた、こうも励まして下さいます。「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)勝利者としての祝福がそこに備えられ、天における大きな報いが約束されていることを忘れてはなりません。
1月17日  「キリストの思い」
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
コリントの信徒への手紙 一 2章16節
文語訳では「我らはキリストの心を持てり」と訳されていますが、「キリストの心を持つ」とは実に大胆な訳だと思います。というのは、わたしたちがあたかもキリストのように生きられると言わんばかりだからです。しかし、安逸を求め、自己中心的な愛にしか生きえず、神の導きにすべてを委ねることも、自分の十字架さえも満足に負うこともできずに、自分なりの小さな平安の中に閉じこもってしまうようなわたしたちが、キリストのように生きられるとはとうてい言えることではありません。「思い」とある言葉は国語辞典によれば「思考力、分別、理性、心構え、心」などと説明されています。ですから、わたしたちはイエス・キリストのお考え、その分別、お心において導かれ、支えられている、キリストの配慮の中に生かされている、という確信が「キリストの思いを抱いています。」と語らせているのだと思います。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」と箴言に記されていますが、自分の心で計画して歩む人生にも、神の導きのあることを理解することが出来、キリストの思いに支えられて生きる者には、人の知恵でははかり知ることの出来ない幸せを味わい知る恵みが備えられているのです。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」と使徒パウロはコリントの人々に書いています。ですから、わたしたちは自分の思いではなく、キリストの思いに導かれ、助けられて歩む人生においてこそ、神が備えて下さるすばらしい祝福に与ることが出来ることを確信するのです。
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1月18日  「人を生かすもの」
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊≠ノ導かれて荒れ野に行かれた。そして40日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
マタイによる福音書 4章1〜4節
「人間にとって何よりも大切なことは、どう生きたかではなく、どう生きるか、ということだ。」と、山本周五郎という作家が言いました。その生きるということは決して食べることにのみに終始しているわけではないことを、わたしたちは知らないわけではありません。けれども、では食べることの他に何がわたしたちの生を支えているのかというと、答えは必ずしも単純ではなくなってしまいます。生き甲斐を語る多くの言葉から多様な生き方があることを教えられますが、それは生きる充足感、満足感から語られている事が多いと思われます。しかし、人間の危機に臨んでもたらされる生の感動、生きていることの喜び、そして、生かされている命の確かさの味わいなど、生き甲斐とはまた別なものがあることも事実です。イエスは処世訓の一つとして「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」と言ったわけではありません。彼自身の危機に臨んで、いま彼を生かしているものが何であるかを語ったのです。空腹が彼の感覚を狂わし、石さえもパンに形が似ているという事だけで食べられると考える、似て非なるものを真としてしまう危機の中で、正しく己を生かすものが何であるかを告げているのです。
1月19日  「いのちのパン」
イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。
ヨハネによる福音書 6章35節
「真理や救いを『パン』として表すのは、人間共通の現象であるが、そのような『生命をもたらす真理』がイエス・キリストにおいて明示されたのである。」と、聖書学者ブルトマンは言っています。食べ物は人間が生きるために欠かすことの出来ないものです。パンはその意味で命の支えです。「わたしが命のパンである。」と言われたイエスは、この言葉によって「わたしは命の源だ。わたしが生きる真のよりどころなのだ。」と言われたに違いありません。荒野において悪魔に試みられたとき、イエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と反論されました。そのイエスが「わたしが命のパンである。」と語られるとき、彼こそが「生命をもたらす真理」であり、生きる真のよりどころであることが明らかに示されたのではないでしょうか。イエスは続けて「わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない。」と言われます。それはイエスを信じるものは生きるという宣告であり、永遠の生命への招きでもあります。そして、イエスはこのようにわたしたちを招いて下さいます。「わたしを信じなさい!わたしにしっかりとつきなさい!わたしを働かせ、あなた方を導くようにさせなさい!わたしはあなた方に永遠の生命を与える者である。あなた方が、その思いと思考においてわたしによりすがること、それこそあなた方の業が神をほめ讃えるために、必要欠くべからざる唯一のものなのである。」(シュラッター)
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1月20日  「イエスに生きる」
生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
ヨハネによる福音書 6章57節
イエスは「わたしは命のパンである。」と言われましたが、宗教改革者のカルヴァンは、「命のパンであるわたしを軽蔑するなら、あなたたちには、命へのどんな希望も残されていない。」とイエスは言われたのだと語っています。そして、カルヴァンが「信仰をよそにして、キリストの肉を食べる何らかの方法を考えることは、冗談も甚だしいことだろう。それというのも、信仰だけが魂の口であり、胃だからである。」と言っているのも、そのパンを食べる事にかけて言っていることに他ならないからです。「食べる」という言葉は「信じる」という事に他なりません。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るように、パンを食べる者は、そのパンを日毎に必要とします。そのように、イエスへの信仰は日毎に新しくされなければならないものです。ですから、繰り返し、いつも新しく、キリストに結ばれて神に出会うならば、その人こそ真に命のパンを食べる者、イエスに生きる者であり、イエスにあって神に生きる者なのです。イエスが「命のパン」であり、そのパンの味わいを知るのは信仰なのだということをわきまえていなければなりません。「信仰は主の恵み深さを味わうところの舌である。」と言った人がいます。その味わいは命、生きる喜びを知る事ではありませんか。イエスが生ける神にあって生きられたように、そのイエスに結び合わされ、信仰によって命の味わいを知る者となるとき、わたしたちは、主と共にある命の確かさに生きる者であることを真に知るようになるのです。
1月21日  「神は真実な方」
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
コリントの信徒への手紙 一 1章9節
「神は真実な方です。」と語るパウロの言葉ををあなたはどのように聞くでありましょうか。真実とは確かだということ、より頼むことが出来るということです。しかし、今の社会には不信が満ちています。何が本当に信じられるのかと、そのことを問う前に、すでに何となくしらけたムードが漂ってしまう現実に失望し、人々は束の間の幸せだけを追い求めるようになっているのかもしれません。政治に対する不信ということだけでなく、日々を生きる確かさまでもうわべだけの事にしてしまっているこの時代に、真実を問う事のむなしさを人々は感じとっているのかもしれないとも思います。しかし、そのような時代であっても、このように聖書がわたしたちに語りかけてくる言葉にむなしさはありません。むしろわたしたちの生の拠り所を確かな語調で語りかけてくるのです。「神は真実な方です。」その事が、わたしたちのキリストに結ばれた交わりの確かさ保証しています。この交わりは決して夢まぼろしではありません。神の真実が、わたしたちをこの世のさまざまな試練に耐えさせ、克服させる力なのです。その真実に生かして下さるのが神なのであり、その命を支えて下さるのが「神の真実」なのだと聖書は語っているのです。不信の世に生きながら、真実に支えられる生を生きること、そこにこそ、うわべだけでは捉えることの出来ない真の幸せを見いだす道がある、とこの言葉が教えてくれるのです。そしてわたしたちが招かれているのはこの確かな拠り所、神との真実な交わりに他なりません。
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1月22日  「光の中を歩む」
あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。・・光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。・・何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
エフェソの信徒への手紙 5章8〜10節
ガラテヤの信徒の人々へ宛てた手紙の中でパウロは、「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。」と書いています。人か神か、喜ばせようとする者が何かによって、人そのものの生き方も変わってきます。そしてパウロは、ここで、主に喜ばれるものは何か吟味しなさいと言うのです。吟味とは、物事を詳しく調べて選ぶことですが、口語訳で「わきまえ知りなさい」とありますように、物事を正しく識別し、見分ける知恵に基づいています。自分の生き方の中で何が本当に神を喜ばすことになるのか、そのことをわきまえ知っていなければならないのです。なぜなら、わたしたちは闇の中を歩んでいるのではなく、光の中を歩んでいる「光の子」なのだからです。暗い闇の中であるならば、どんな生き方をしようが、醜く卑怯な生き方でも、たとえ闇の底で一人ほくそ笑んでいようが、それらは隠されている限り人の目に晒されることはありません。けれども、光の中を歩むものには何一つ隠されるものはないのです。「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」、ですから、「光の子」らは光にふさわしい生き方を自分自身の生活の中に実現しなくてはなりません。そのことこそが「主に喜ばれる」ことではないでしょうか。「吟味しなさい。」と言われているのは、わたしたちの生き方が光の中を歩むにふさわしいかどうか検証しなさいということに他なりません。ガラテヤの信徒の人々へ宛てた手紙の中でパウロは、「今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。」と書いています。人か神か、喜ばせようとする者が何かによって、人そのものの生き方も変わってきます。そしてパウロは、ここで、主に喜ばれるものは何か吟味しなさいと言うのです。吟味とは、物事を詳しく調べて選ぶことですが、口語訳で「わきまえ知りなさい」とありますように、物事を正しく識別し、見分ける知恵に基づいています。自分の生き方の中で何が本当に神を喜ばすことになるのか、そのことをわきまえ知っていなければならないのです。なぜなら、わたしたちは闇の中を歩んでいるのではなく、光の中を歩んでいる「光の子」なのだからです。暗い闇の中であるならば、どんな生き方をしようが、醜く卑怯な生き方でも、たとえ闇の底で一人ほくそ笑んでいようが、それらは隠されている限り人の目に晒されることはありません。けれども、光の中を歩むものには何一つ隠されるものはないのです。「光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。」、ですから、「光の子」らは光にふさわしい生き方を自分自身の生活の中に実現しなくてはなりません。そのことこそが「主に喜ばれる」ことではないでしょうか。「吟味しなさい。」と言われているのは、わたしたちの生き方が光の中を歩むにふさわしいかどうか検証しなさいということに他なりません。
1月23日  「召された者たち」
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
マルコによる福音書 1章16〜18節
ヨハネによる福音書15:16によりますと、イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われています。イエスに従うということは、まず先にイエスの招きがあるということが前提になっています。多分、初代の教会においては、弟子たちがイエスに招かれ従った出来事が繰り返し語られてきたことでしょう。イエスとの出会い、そして、招きに応えて始まった「信」に生きる生活、それらが人々の生に活写されるところに、一人一人の信仰の生活が実現して行ったのだと思います。しかし、この頃思いますことは、わたしたちの信仰は出会いからわたしたち自身の選択、つまり、わたしたちがイエスの生き方や思想、言葉などを選びとって自分の生としようとする、そのように変わってきているのではないかという事です。「召された」という意識が希薄になるにつれて、「信」ではなく、むしろ、自らの「行動」「実践」にウエイトがかかっていくようになります。信仰に生きるということは、自分の確かさではなく、召して下さる方の確かさのもとに立つということですから、「信」の生活へ戻るためには、改めて「召される」原点に戻って出直さなくてはなりません。わたしが選んだのではなく、イエスがわたしを選んで下さったという、その原点です。
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1月24日  「聖霊の助けなくば」
「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる」
ゼカリア書 4章6節
新約聖書の中にはゼカリア書からの引用と、ゼカリア書への言及が70以上もあります。そのうちの約3分の1が福音書に、残りのほとんどがヨハネの黙示録に見いだされます。ゼカリヤ書はわかりやすい預言書ではありませんが、新約聖書との関係でわたしたちに深い関わりを持っています。ゼカリアはユダヤの民がバビロンの捕囚から解放され、帰国したあと、神殿再建に関わった人物の一人です。ダリヨス王の治世2年目、紀元前520年ごろに活動を始めた預言者とされています。ゼルバベルは帰国した人々の中心となり、神殿再建の指導的役割をはたした人物で、ダビデの裔とも言われ、人々に大きな期待をかけられていました。その目的達成のカギはひたすらなる神への信頼にあって、決して地上的な力の行使にあるのではないことを、ゼカリアの見た幻は物語っています。神の仕事は神ご自身の力で遂行されます。人間的な能力や権力や武力によって神の業が成就するのではないということを預言者ゼカリアは幻で示されるのですが、それは現代においてもわたしたちが正しく聞かなければならない事ではないでしょうか。使徒パウロも「霊の導きに従って歩みなさい。」と教えています。神の霊の助けがなければ無力でしかない人間なのに、その人間が自分の力を誇り、その力においてすべてが可能となると思い込む、その思い上がりから、すべての破滅が始まるのではないでしょうか。わたしたちが拠るべきものを正しく見いだす事、その重要性を認識し直さねばなりません。
1月25日  「偽りの霊と真実の霊」
愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。
ヨハネの手紙 一 4章1節
わたしたちが霊について語るとき、みな一様に同じ霊の働きとして考えています。ところがヨハネの手紙は、霊には偽りの霊と真実の霊とがある、神からでた霊かどうかよく確かめなさいと言っています。リビングバイブルは「だれかが『これこそ神様のおしえです』とふれ回っても、それを鵜呑みにして何もかも信じてはなりません。」と訳しています。この手紙が書かれた時代にも真実を装って偽りの真理が語られていたのでした。どうしてそれを見分けることがわたしたちに出来るのでしょうか。その見分けのポイントは「イエスのことを公に言い表す」かどうかという点にあるとヨハネは申します。この事は現代でもあてはまります。福音を証しするとか、福音に生きるという事は、イエスをキリスト、救い主として言い表す生き方です。どんなに美しい言葉で愛を語り、共に生きる事の素晴らしさを語っても、そこでイエス・キリストが告白される、その内実がなかったら、それは人間自体を語ることになり、ヒューマンな主義主張にしかならないのです。どこかですり替えが行われています。教会の中でイエスではなく人間の事が比重を重くして語られるようにならないように、わたしたちの目、耳、口をイエスへと正しく向けたいものです。ヨハネは六節で「わたしたちは神に属する者です。」と言っていますが、それは、キリストに結ばれているという事に他なりません。ということは、神との間にキリストという結び目を持っているという事です。そして、真実の霊はそのことを証ししてくれるのです。
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1月26日  「変貌」
ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
マタイによる福音書 17章5節
古くから教会の伝承の中で「変貌」の山とされてきたのはタボル山です。しかし、この山はイエスの時代には要塞化されていましたから、地理的に見て、この山というのはヘルモン山のことだろうとも言われています。この山にペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて登られたイエスが、彼らの前でその姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったと記されています。昔、神と対面したモーセの顔が光り輝いたように、神の栄光がそこに映し出されたと言うことが出来ましょう。感動した弟子たちは、栄光に包まれたイエスと共にそこに留まりたいとさえ思います。けれども、この不思議な出来事は十字架への道を歩むイエスの新たなる出発の時を示していたのです。弟子たちが心に描いたのは栄光の道であって苦難の道ではありませんでした。そして、真の栄光の道は十字架の道であることを彼らは悟らなかったのでした。雲がたちまち彼らを覆い、雲の中から声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。これに聞け」と。
 わたしたちは自分の内なる声に耳傾け、それに従って行動しようとすることが多いと思います。しかし、聞かなければならないのは十字架への道を歩まれた方、イエス・キリストでなければなりません。イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と、たとえを語る時に言われました。聞くことによって彼に結ばれる者に、真の栄光の輝きが、見えてくるに違いないからです。
1月27日  「神に遣わされる者」
主は彼の方を向いて言われた。「あなたのその力をもって行くがよい。あなたはイスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことができる。わたしがあなたを遣わすのではないか。」
士師記 6章14節
「天高く、馬肥ゆる秋」という言葉があります。秋の収穫の時が来るころ、十分草を食べて馬も肥え、そして北の方から騎馬民族の襲来があることを語る中国の言葉です。イスラエルの人々も同じように収穫の時期、ラクダを操り、機動力に富んだミディアン人の襲来にひどく悩まされていました。カナンに定着したばかり、国作りもまだこれからという時代でした。そして、ミディアン人の横暴に人々は神からも見放されたたかのような絶望的な思いにとらわれていました。ギデオンに神の召しが下ったのはそういう時でした。「わたしの一族はマナセの中でも最も貧弱なものです。それにわたしは家族の中でいちばん年下の者です。」と、懸命に言い訳する、こっそり隠れて麦うちをしていた弱虫ギデオンです。しかし、そのようなギデオンに神は呼びかけられます。神は彼のその弱さをも用いて下さるのです。「あなたのその力をもって行くがよい。イスラエルを、ミディアン人の手から救い出すことが出来る。」と言われるのです。イスラエルを救うのは彼の強さではなく、彼の弱さを用いて下さる神なのです。「わたしがあなたを遣わすのではないか。」と神は言われます。神はわたしたちの弱さの中にも、用いていただける力を見いだして下さるのです。「わたしが共にいるから」とも言われます。神が共にいて下さればどんな強敵にも打ち勝つことが出来る、その信頼が、弱虫ギデオンを真の勇者としたのでした。
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1月28日  「挑戦」
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
マタイによる福音書 4章17節
荒野において悪魔の試みを受けられたイエス、しばらくは平穏な時を過ごしたかも知れませんが、領主ヘロデの不倫な行為を非難したバプテスマのヨハネが捕らえられると間もなく、ガリラヤへ移動します。あたかも、予想される危機を回避するためにガリラヤへ移ったかのように見えます。しかし、ガリラヤはヘロデの領地なのです。誰が自分に危険を及ぼすであろう権力者の領土へ安全を求めて逃れ行くでしょうか。むしろ、「そのときから」と言われていますように、救いの実現へ向けて神が行動を起こされたそのときが語られていると言えましょう。イエスの最初の宣教の言葉は「悔い改めよ。天の国は近づいた」でありました。それは、バプテスマのヨハネも告げた言葉でありました。「悔い改め」とは心を入れ換え、生き方を全面的に神に向けて転換することです。ヘロデにとってこのように告げるイエスは、当然、ヨハネ同様好ましくない存在です。彼はヨハネを殺した後、イエスをヨハネの生まれ変わりだと信じたほどでありました。ガリラヤから始められたイエスの宣教は、その身にとって安全な場所からではなく、まさに罪が生きている、その領域からの、罪に対する一大挑戦であったのです。「天の国は近づいた」と言われていますように、最も罪深い者の領域にこそ神は近づきたまい、罪深き者の身近に神は来られ、悔い改めを迫りたもうのです。イエスはガリラヤに逃れたのではなく、むしろ、罪の深奥に迫り、悔い改めを求めて罪に挑戦なさったのでありました。
1月29日  「罪の赦し」
4人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
マルコによる福音書 2章3〜4節
イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われました。確かにイエスは多くの人の病を癒されましたが、しかし、人間の病気だけを見ておられたわけではありません。彼が見ておられたのは、神との正しい関わりを失った人間の心であり、生きるよりどころを失った人間の悲惨さでありました。かつがれてきた中風の人、体の自由を失って他の人の世話にならなければ生きられない身となっているにしても、こうして献身的に世話をしてくれる人たちがいます。彼はそれほどに愛されていた人であったのでしょう。けれども、その体の不自由さの中で、生きるよりどころを持って生きていたとはとても思えません。生きる望みを持たないということは罪なのです。ですから、中風の人に必要であったのは生きることへの望みでありました。むなしく生きるのではなく、よりどころを持った生き方が必要でありました。群衆がもみ合っている戸口からは入れないとわかったとき、彼をかついできた男たちは、常識を超えて、屋根の上にかつぎ上げ、そこに穴をうがってイエスの前にこの中風の人を吊り降ろしました。男たちのひたすらな思いがイエスへと向けられていることがわかります。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。生きる望みが与えられたのです。
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1月30日  「『今日』という日のうちに」
あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。
ヘブライ人への手紙 3章13節
「『今日』という日のうちに」と言われている言葉に強い示唆を受けます。励ましあいは、いつでも「現在」のものでなければなりません。過去であっても未来であっても、それでは本当の励ましにはならないからです。イエスは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われました。イエスの励ましは常にわたしたちの身近にあります。聖霊がわたしたちの内に働いておられるということも、それは常に今の事に他なりません。過ぎ去った事でもないし、これから先のことでもありません。「今」をどのように充実した生として自覚出来るかどうかは、「今」わたしたちの内に働いておられる聖霊の語りかけをどう聞いているかにかかっています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗した時のように、心を頑なにしてはならない。」と、引用されている言葉によって、ここで言われている励まし合いは人間の心理的補強手段ではありません。キリストにしっかりと結びつけられていくために必要な信仰と従順とを支える力なのです。荒野でイスラエルの先祖たちが神に逆らった時のように、今も同じ事を繰り返さないために、心を頑なにしてはいけないと聖霊は語りかけて下さるのです。わたしたちの心の今を空白にしておいてはいけないのです。神はこの「今」をわたしたちと共に持とうとしておられるのですから、そのみ声をしっかりと聞き取ろうではありませんか。いつかまたではなく、「今日」という日のうちに、しっかり心に聞きとどめたいものです。
1月31日  「罪人を招く愛と憐れみ」
イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。誓いの言葉を携え、主に立ち帰って言え。
「すべての悪を取り去り、恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手で造ったものを再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者はあなたにこそ憐れみを見いだします。」
わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。
ホセア書 14章2〜5節
ホセアと言えば、不倫の妻に対する限りない愛と誠実をもって赦しに生きた預言者として知られています。彼は辛く悲しい自らの人生体験に託して、背反の民イスラエルに対する神の限りない愛と赦しを語って行ったのでした。「神に立ち帰れ」と言うホセアの言葉の中に、繰り返し、背反の民を赦し受け入れてくださる神の愛の深さが語られています。そして、「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」と言われる神の言葉を前にして、こんな人間でも神は赦し受け入れて下さるのかと、わたしは、自分の罪深さを知ると共に、神の憐れみの豊かさに涙こぼれる思いを味わうのです。そして今、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)と告げて下さるイエス・キリストの言葉に、新しく神の恵みへと招かれている自分を見いだす事ができて、感謝の思いに満たされるのです。神は今もキリストにおいてわたしたちをその赦しへと招いていて下さるのです。そのように神に愛されている者として、自分を見いだしたいものです。