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日々の聖句

[12 月]

12月1日 「夜明け」
あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
ローマの信徒への手紙 13章11〜12節
わたしたちの暦もいよいよ今年最後の月に入りました。だれもが終わりへ向けてこの年のまとめに取りかかる事でしょう。しかし、この世でどんな形であれ「終わり」を意識する様になる時、イエス・キリストへ向けられた者は新しい時の始まり、生きる事の確かさへ目を開かれて行くということを忘れてはなりません。
「今がどんな時であるか」をあなたがたは知っているとパウロは言います。けれども、わたしたち自身が今どのような時に出会っているかを知るのは決して易しいことではありません。何処で、何が、どのように行なわれているのか、何も知らないまま事態が進行している現実があります。結果だけが見えて来た時の戸惑いや悩み、苦しみが現実となるのです。パウロが言う「今」とはそのような暗く深い闇を指しているかも知れません。しかし、その暗さの中に、既に光は射し初めて来ていると言うのです。ですからその光へ向けて生きようとしなければなりません。
教会の暦は待降節第一週から新しく始まります。年によって前後はしますけれども、先ず、わたしたちの救い主イエス・キリストの誕生へ向けて、暗闇から光へ向けての新しい出発なのです。そこにわたしたち自身の新しい旅立ちがあるということを覚えておきたいものです。
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12月2日 「神の愛」
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
フィリピの信徒への手紙 2章6〜7節
待降節(アドベント)はイエス・キリストの降誕を迎える心弾む季節です。クリスマスは神が人となった出来事です。スペイン語で新しく現代訳の聖書が発行されたとき、新約聖書の普及版の表題に「神は人となられた」と記されてありました。直訳すれば「神は人に到着された」ということになるのですが、手の届かない彼方におられるとしか思えない神が、この人間、わたしたちのところまで来られたという喜ばしい訪れを語る表現でありました。パウロは、神が神であることをやめてキリストにおいて人になられたと言います。何故でしょうか。それは神が人を愛して下さったからなのです。評論家の小林秀雄が、「人間のためになるから神を信じるのだ。ためにならないならどうして神なんか信じるものか。」と言いましたが、パウロも「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」とローマの信徒への手紙の中で言っていますから、人間の側で考えたらこのような捉え方も一理あるなと思わされます。しかし、それなら神にとって人になることはどんな益があるというのでしょうか。けれども、パウロは言います。神は「自分を無にして」人となられたのだと。神はこのようにして人を愛して下さったのでした。そして、神が人となられたことによって、神に愛され、また互いに愛し合う者として生きることが出来る新しい命がわたしたちにもたらされたのでありました。
12月3日 「主の光の中を歩もう」
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
イザヤ書 2章4〜5節
イザヤはまず「終わりの日に主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ちどの峰よりも高くそびえる。」と言います。「終わりの日」というのは「後の日」ということを表しています。つまり、それは未来を指しているのです。わたしたちは「後」というと過去をイメージするのですが、ユダヤ人にとっては、やがて来る日、未来を意味しているのでありました。そして、「日」には光がある間というとらえ方があります。今は戦によって町は荒廃し、人の心も荒れ果てているかもしれない。力と力とがせめぎあって何処にも平安がなく、暗い闇の力が支配している希望のない時代であるかもしれない。けれども、そのような時代を覆す明るい光の時代、平安の時の訪れを待ち望む、その望みを神に託す幻を若きイザヤは見たのでありました。イザヤが見た後の日の幻、剣が鋤に、槍が鎌となり、国々が戦うことを学ばなくなる時代の訪れはまだ来ていません。光はいまだ闇と交錯し、憎しみと争いは絶えませません。けれども、「わたしは世の光である」と言われるイエス・キリストの誕生の日を待ち、迎える待降節・アドベントに今、巡り会っていることをしっかり心に留めましょう。イエスは「暗闇に追い着かれないように、光のあるうちに歩きなさい。」と言われました。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」とイザヤが呼びかけているように、わたしたちも「主の光の中を歩む」者にふさわしく望みに生きようではありませんか。
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12月4日 「驚くべき指導者」
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
イザヤ書 9章5節
イザヤはこの預言に先立って、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と、語っています。生きる望みを失っている者たちに望みが与えられ、光が射してくると語っているのです。クリスマスを前にしてこのような言葉を聞かされるとは何と幸いなことでしょう。まわりには何も光はない。希望もない。あるのは偽りとむさぼりだけだ、ならば、立派なことを言うよりも、己の欲望にしたがって欲しいままに生きればよいではないか、暗い世の中ならそれにふさわしい暗い生き方だってあるんだというような、そんな声が羽振りをきかしているような世の中へ、一人の男の子の誕生による光がさしてきたことを語るイザヤの言葉に、わたしたちは大きな励ましを受けるのです。生まれてくる子は「驚くべき指導者」と唱えられると言われます。イザヤは神の方を向いて語っています。彼の周りには生きて行く最小限の望みすら摘みとられそうになっている人々のうめきがあります。けれどもそのような暗さの中で神の方を向いているイザヤの顔にはすでに光が射しています。それは人間的な常識をはるかに越えた事柄であり、驚くべき事でありました。イザヤはまだ見ていないのにあたかもすでに見ているかのごとくに、幼子の誕生を語るのです。彼のその姿はわたしたちに信仰者のあるべき姿を示しているかのようです。
12月5日 「主に帰れ」
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。
神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。
主に立ち帰るならば主は憐れんでくださる。
わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦してくださる。
イザヤ書 55章6〜7節
暗い闇の中で、見通しの利かない不確かさの中で、どうやって確かさを求め、神を求め、光を求めることが出来るでしょうか。わたしはイエスが語られた、失われた一匹の羊を探し求める羊飼いの話を思い起こします。失われた羊がどうして自力であの荒野の中で羊飼いを尋ね求めることが出来ましょうか。助かる当ても何もない孤立無援の荒野の中でどこにその道を見いだすことが出来るというのでしょうか。その羊とは誰のことなのだったかを考えればよくわかります。自分自身の内に何一つ確かさを持っていない者が、その不安の直中へと近づいてきてくれた羊飼いに身を委ねることによって、一切の思い悩みから解放され、確かな平安を与えられるのです。「見いだし得るときに。近くにいますうちに。」とはまさに神がそこに来て下さっているということを示しています。ですから、神の訪れの時こそわたしたちが神に立ち帰る願ってもないチャンスなのです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんで下さる。わたしたちの神に立ち帰るならば豊かに赦して下さる。」その恵みの時の訪れ、それこそ主イエス・キリストの誕生の時に他なりません。人生の荒野に於いて途方に暮れている者に主は今近づいてきて下さっている、それがこのアドベントなのだと、そして、この方を迎える心に喜びが満ち溢れてくるのです。
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12月6日 「わたしたちの救いの訪れ」
喜んで正しいことを行い、あなたの道に従って、あなたを心に留める者を、あなたは迎えてくださいます。あなたは憤られました、わたしたちが罪を犯したからです。しかし、あなたの御業によって、わたしたちはとこしえに救われます。
イザヤ書 64章4節
「あなたは憤られました。わたしたちが罪を犯したからです。」イスラエルの民は何回繰り返しこのつらい告白をしてきたことでしょうか。彼らが苦しみに会う度に、その痛みのさなかにおいて繰り返さなければならなかった言葉がここにあります。短い言葉ですけれども、それを繰り返さなければならなかった状況は深刻です。彼らは何度もそういう状況に身を晒し、呻き、悲しみながら神の前にこの言葉を語らざるを得ませんでした。時の流れに全てを委ねて忘れ去ることを得意とする日本人には考え難いことです。しかし、いつも繰り返し自分の罪を見つめ、見きわめて行くことは容易ではありません。性懲りもなくその罪を重ねていく自分であると知りながら、そのような心の暗部にどうしたら目を向けて行くことが出来るのでしょうか。広島の原爆慰霊碑には「過ちを繰り返しません」という誓いが刻み込まれています。新しい時代に常にどのように生きて行くべきかは歴史の事実をしっかり見据えて行くことによって決まってきます。「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩編119編)「わたしたちが罪を犯したからです」と言わざるをえない、魂のもっとも暗い部分に光が当てられるときの到来が告げられる言葉を聞きます。神の子イエスの到来の日は近づいています。このお方によって「わたしたちはとこしえに救われる」のです。
12月7日 「赦されて生きる者」
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
マタイによる福音書 1章1節
マタイによる福音書は先ず系図から始まります。わたしたちの間でも先祖はこうであったと、自分の血筋を誇りたい気持ちを持つ人も多いに違いありません。しかし、マタイはこの系図で何を語ろうとしたのでしょうか。滝沢克己という学者は、「マタイはイエスを通して、イエスがどこから、何のために来た人なのかということがマタイ自身にわかった時がある。それを顧みてこの系図を書いている。」と言っています。ですから、イエスを権威づけるためにではなく、神がどのようにわたしたちの救いを完成なさったかを、この系図を通して語ろうとした、と言えるのではないでしょうか。この系図は、確かにイスラエルの人々が誇りとする人々の名から始まっています。しかし、本来こういう系図には決して出て来るはずもない女性の名が幾つも出てきます。子が生まれない内に夫に死なれ、遊女に身をやつして舅と関係を持ち、子を生んだタマル、エリコの遊女ラハブ、異邦人の女ルツ、ダビデが横恋慕し、激戦地へ追いやって死なせたウリヤの妻バテシバ、こうした女性の名を連ねた系図のどこにも誇るべきものは見えません。むしろそこには、忌まわしい罪との戦いに敗れた人間の惨憺たる姿が露呈しています。系図に現れる一人一人がみな神の憐れみと慈しみ、罪の赦しの中に生かされて来たのです。そのように罪と赦しが重く絡み合った長い歴史の流れを通して神はイエス・キリストによる救いへとわたしたちを導いて下さったと、マタイはこの系図を通して先ず言いたかったのだろうと思います。そして、イエス・キリストの誕生において救いが完成したことを語り始めるのです。
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12月8日 「神の子と呼ばれるほど」
御父がどれほどわたしたちを愛して下さるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
ヨハネの手紙(一) 3章1節
わたしたちは愛されているという事を、どれほど自分の事として理解出来ているのでしょうか。ヨハネはこの手紙のなかで「神は光である」と言っていますが、それは神が愛していて下さっているという事を表現する言葉です。愛とはその対象を自分の関心の中に捉える事ですから、光の中に捉えられ、光を浴びている姿の中に愛されている確かさを見る事ができると言えましょう。ヨハネはその事を考えなさいと言います。光の中に捉えられている自分の姿を見なさい、という事に他なりません。自分を照らす光が作る陰影もまた見えるでしょう。自分の醜さも、美しさも全て光のもとに捉えられています。しかし、わたしたちはそのあるがままの姿で神の愛の中にあることを考えなければなりません。ときには自分でも目を背けたくなる様な自らの姿そのまま、神の子と呼ばれるほど、それほど愛されている、という事実に目をとめ、心を向けなさいという事でしょう。わが子であると認知される、それは人間としてその存在を認められる始まりであり、愛の関わりに結ばれる確かな印でもあります。その様に、わたしたちは神の子と呼ばれる程愛されているのです。不思議なことにヨハネはパウロと違ってわたしたちがどれほど罪深いかを語りません。むしろ、神の子としてもう既に光の中に生かされている者なのだと語るのです。ならば、わたしたちは光の子としてしっかり光の中に生きなければなりません。
12月9日 「互いに愛し合いなさい」
イエスはわたしたちのために、命を捨てて下さいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。
ヨハネの手紙(一) 3章16節
「愛を知る」とはどういうことでしょうか。椎名麟三はその作品の中で「愛が思想で得られるとしたら、この世の中は暗闇だ。」と言っています。愛というのは頭で描きだせる様なものではない、ということに違いありません。「愛とは存在を知ること、或いは、存在を知らしむることそのことである」と言った人もいます。イエスはわたしたちに「生きている」ことを、御自分の死によって示して下さったのです。わたしが愛されている存在であるということ、生かされているということを彼の命と引き替えに示して下さいました。そこで初めて「愛するということはこういうことだったのか」とわかったのだとヨハネは言うのです。イエスによって、愛されている、生かされているということが本当にわかったと言うのです。ですから、そのことが本当にわかった者同士こそ、イエスが愛して下さった様に愛し合わねばならないのです。わたしたちは互いに愛し合うことによって、イエスの愛、神の愛を実現するように求められているのです。「兄弟」という言葉には定冠詞がついています。新英訳聖書ではこの言葉を「仲間のキリスト者」というように訳しています。ですから、「互いに愛し合う」ということは教会の交わりの中から始めなければならないということなのです。そのことを棚に上げて、ただ耳触りの良い美しい言葉で愛し合うことを強調しても、それは銅鑼やシンバルの虚しい響きの如きものになるでしょう。先ずわたしたちの間にその愛が実現出来なくてどうして広く人を愛するなんて事が出来るのでしょうか。
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12月10日 「自分を見い出すとき」
群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
マタイによる福音書14章23節
クリスマスを間近にして、街はどこもクリスマスの飾りで溢れ、このキリスト教国ではない日本でも、至る所でキリストの降誕を祝う、どことなく浮き浮きとした心弾む気分が満ちています。若者たちも愛する者への贈り物をどうしようかと、ショーウインドをのぞく顔にひたむきな想いを滲ませています。神の子キリストを迎える喜びにわたしたちの胸もふくらんできます。けれども、この期待に満ちたうれしい季節にもう一度自分を振り返り、新しい始まりへ向けていささかの自己吟味も必要なのではないでしょうか。豊かさの中でいつしか見失っている「自分」を取り戻し、そこに、神によって生かされる「新しい自分」を見出す必要がありはしないかと考えるからです。何故なら、クリスマスはわたしたちを新たに生まれさせて生きる望みをいだかせて下さったキリストの誕生を祝う日であるからなのです。 今日の聖句はわたしたちに、群衆から離れ、山に登られて一人静かに祈っておられるイエスの姿を見させてくれます。何故彼は一人なのか、祈りの中で彼はどのような時を過ごそうとしているのか、わたしたちを取り囲むクリスマスの賑わいの中で、ふと、イエスの孤独に想いを馳せるのです。孤独とは自分一人きりになることでしょう。でも、一人きりになるということは、また自分自身と向き合うチャンスでもあるのです。一人静かに自分と向き合うところで神と語り合うイエスの姿を想いながら、わたしたちも巷の喧噪の中で、一人神の前に立つ自分を祈りの中に見出したいものです。
12月11日 「人はみな神の救いを見る」
これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
ルカによる福音書 3章4〜6節
自然の世界だけでなく、人の世にも谷があり、山も丘もあって、道行く者に難儀を強いるのです。ある者は権力を頼み、力を振るい、卑劣な策を弄して貧しい者、弱い者を虐げ、自分の利益のためには手段を選ばない、そのような現実があります。日毎のニュースの中に繰り返し目に触れ、耳に聞こえてくるこうしたよこしまな人間の業がもたらす悲しみや嘆きが今も絶えません。神の子の降誕を待ち望み、喜びを分かち合おうとしているこのアドベント・待降節に、人の心が目先の利のみを追うことに汲々として、互いの痛みを分かち合おうともしない世相を嘆く声に悲しみも深まります。平和な時の訪れは遠いのか、いまだに戦火の絶えない地域もあると聞きます。幼子イエス誕生の時、自分の地位を奪われるかと恐れたヘロデ王が、ベツレヘム周辺の幼児を殺戮したと福音書は伝えています。神が人となり、神と人との間の隔てを取り去り、平和をもたらそうとされるとき、自分の身を守ろうとする人間は逆に互いの間に谷をつくり、山と丘を築こうとするのです。しかし、幼子イエスの誕生は隔ての中垣をこぼち、神と人、そして人と人との間の谷を埋め、山と丘をならし、平らな道を実現してくれるのです。わたしたちには乗りこえられない差別の谷も、主イエス・キリストにおいて乗りこえられ、人は皆神の救いを見ると、預言者の叫ぶ声は近づいています。
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12月12日 「主は近い」
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。
マラキ書 3章1節
豊かで全てに恵まれていて、未来に何も不安がないようでいて、本当は未来に何も確かさを持たない不安がわたしたちの生活の深層に巣くっています。マラキの時代、「イスラエルは、方向感覚を持たないまま、また精神的厳しさに欠けた状態で、国際的に平安な時代の、静かなな水の上に漂っていた」とある聖書学者は語っています。そのような時代へ向けてマラキ書は語りかける。「見よ、わたしは使者を送る」と。それはバプテスマのヨハネの出現を予告するメッセージでありました。そこでは未来が語られています。その未来はより決定的な未来の告知でもありました。荒野に道を備える使者の出現、そこから新しい未来が開けて来るんだと言うのです。わたしたちはこのまま終わってしまうのではなく、キリストに結ばれて開かれる未来があることを教えられます。マラキ書は旧約聖書の最後に位置する預言書です。旧約聖書はそのまま終わってしまわない。マラキ書において新しい未来、イスラエルがその立つべき場を備えた未来が語られて終わっているのです。その預言は新約聖書につながっています。今日マラキ書においてわたしたちが聞かされている言葉は、未来喪失の不安の中にいるわたしたちにもたらされる確かな未来の告知なのです。「主は近い」もうすぐその角まで来ておられる主への期待の中に自分の未来を見いだし、生きることの不安から解放される確かな命への招きの言葉を聞くのです。
12月13日 「前触れする者」
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
ルカによる福音書 7章27節
かってソマリアに軍事的、政治的、無秩序によって生み出された社会的混乱を静めようとしてアメリカ軍が介入し、上陸した地点に多くの報道陣がライトをつけて待ち受けていたそうです。あらかじめ上陸の場所と時間が知らされていたからです。それはとても一つの軍事行動とは思えない、まるでテレビドラマの一場面を撮影するかのような雰囲気であったと伝えられています。飢餓に苦しむ人々を救済するための行動で「希望回復作戦」と呼ばれていたのですから、この新しい行動の始まりに多くの関心が集まったのは当然のことでしょう。どんな小さなことでも見逃すまいとジャーナリストたちは右往左往します。しかし、人間の救いのために神が行動を起こされようとする時、何故か人間は無関心なのです。神が人間の関心の中に入ってこられようとするのに、その小さなしるしさえ関心の外へ追いやってしまう人間の心の狭さをイエスは「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。」と子供の歌に託して嘆いておられるのです。笛を吹いても、歌を歌っても応えないで、むしろ小さな自分の領域を得ることに奔走している人間。わたしたちに対する「希望回復作戦」が始まるというのに、その前触れさえも関心の外において、自分だけ、自分たちだけの領域拡大を狙うことに奔命になっている浅ましい人間の姿が露呈しています。しかし嘆くのはやめましょう。わたしたちはすでに主のご降誕の前触れに接しているのですから。その前触れの声はもう既にわたしたちの耳に届いているのです。
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12月14日 「闇から光へ」
こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
ローマの信徒への手紙 5章21節
ヨハネによる福音書を口語訳で読みますと、「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と告げられています。そして、「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」と語るのです。ローマの信徒への手紙五章後半ではこの光と闇の関係が、アダムとキリスト、死と命との関わりの中に展開されているように思えるのです。アダムは肉に生きる人間の祖型であり、神に反逆する罪の原型をアダムに見るわたしたちは、自らの不安な悔い多き人生に、救いのない闇の深淵をのぞき込む恐れを感じとっています。律法に生きるということは、赦されることのない人生を自らの償いによって生き得ようと試みることでありますし、闇の中を手探りで生きなければならない不安から解放されることはありません。けれども、この罪の世界に逆転が生じたのです。闇を照らす真の光が到来したからです。ヨハネは「光は人の命であった」と言っています。人間の闇を打ち破って光をもたらし、命を与えて下さるイエス・キリストの到来が、新しい人間の誕生を告げるのです。アダムの不従順によって罪と死がもたらされたのであるならば、キリストの従順によって、彼の十字架によって死は命へと、闇は光へ、審きは赦しに、そして、永遠の命がもたらされるのです。パウロはそのことを「恵みの支配」と呼んでいます。そして、わたしたちが罪深ければ深いほどに、神の恵みは一層満ち溢れるのであると告げるのです。闇は光に勝つことは出来ません。そして罪は恵みに勝てないのです。
12月15日 「愛・ヨセフの場合」
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
マタイによる福音書 1章18〜19節
ヨセフという名をわたしたちが聞くのはおそらくクリスマスの時だけでしょう。後は忘れられたような存在です。ルカによる福音書では殆ど顧みられない名前です。しかし、マタイによる福音書に現れるヨセフはイエス誕生の背後にあって、なくてはならぬ存在です。そして「正しい人」として語られています。それは父親としての役割を果たす者の特質として語られているのです。真実であり、誠実である人柄が言い表されていると言えましょう。彼がマリアのことを表沙汰にしないで処理しようと決心する、その思いの中にマリアへの誠実で深い愛を見ることが出来るのです。椎名麟三の「小説マタイ伝」に、ヨセフがまんじりともせずに一夜を過ごし、垣間みた夢の中で天使のお告げを聞き、朝早くマリアを訪れると、彼女の部屋の窓からまだ灯がついているのを見ます。そして、ああ、彼女も眠れずに夜を過ごすほど苦しんでいたのだなあと考える場面があります。心で相手を感じとっているヨセフの姿が描かれているのです。自分の苦しみの中に相手の苦悩を重ね合わせて行く、そのような人間としてヨセフを描いているのです。自分の痛みの中に愛する者を抱え込んで行く、そこにはイエスの父となる人の愛の姿が浮き彫りになっています。愛とはあるがままに相手を受け入れることだ、と教えられるヨセフの姿がそこにあります。
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12月16日 「神共にいます」
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
マタイによる福音書 1章23節
マタイによる福音書におけるイエス誕生の物語の中で、わたしたちがヨセフとマリアの言葉を聞くことは全くありません。そして、ここではヨセフを中心に話がすすめられて行きますが、なぜかマリアはその背後におかれています。ヨセフの苦悩と彼がどのようにマリアに対応したかは語られていますがマリアの影は薄いのです。婚約中に既に身ごもってしまったマリアの身の証しを立てることの難しさが背景にあるからかもしれません。ヨセフの理解と受容、彼の誠実な愛だけがマリアの支えになっていたということでありましょう。福音書は「神は我々と共におられる」というしるしとしてイエス誕生の喜びを伝えてくれていますが、そこにはヨセフとマリアの苦悩に包まれた揺篭があったということも伝えてくれているのです。特に母マリアの苦悩は言葉では表現し得ないものとして扱われていることに留意したいと思います。苦しい思いを言葉に表して訴えることが出来るのは、まだその苦しみがいくらか軽いうちでありましょう。マリアの苦しみはただ黙って精一杯それに耐えて受け止めるしかない、そのような極限的なものであったのだろうと思われます。「神が共にいてくださる」ということは、このような痛みにおいて支えられている事実だと思います。そして、マリアはその痛みの中で、それに耐えられる力と勇気とをヨセフの愛の味わいの中から汲み出していたに違いありません。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というあのイエスの声を彼女はもうすでに聞いていたのかもしれません。
12月17日 「信・マリアの場合」
マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
ルカによる福音書 1章38節
小説家遠藤周作は、「イエスが説いた神というのは、われわれの理想のような母親のイメージなのです。」と言っています。彼は神の愛を母性的なものとしてイエスの姿にダブらせて行きます。しかし、カトリック教徒である遠藤周作の作品の中で、マリアの影はきわめて薄く、彼が書いた「イエスの生涯」の中では、イエスの誕生物語と共に全く取り上げられていないということは、マリアに母なる者の至高の姿を見ているカトリック教徒としては、いささか不思議な感じがします。しかし、たとえマリアの姿の中に彼が言うような母性的な神の愛の姿を見出そうとしても、それは必ず期待はずれに終わるに違いありません。何故なら、マリアにおいて語られているのは決して「母の愛」ではないからです。ルカが物語るマリアの姿は母としてではなく、信仰深く、敬虔な一人の女性として描かれているからなのです。そして、マリアはそのような女性として神の子イエス・キリストの母となったとルカは伝えているのです。信じがたいことがその身に起きたとき、さまざまな思い煩い、苦悩、心の痛みを超えて神のみ言葉にひたすら信頼を寄せるマリアの中に神の子の母の姿を見ているのです。「お言葉どおり、この身になりますように」とは、あるがままにわが身を神に委ね、生きて行こうとするマリアの信仰と決心を言い表しています。ヨセフがマリアへの愛においてイエスの父となったように、マリアは神への信頼と従順においてイエスの母となったのです。イエスは愛を父とし、信仰を母として生まれたのです。
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12月18日 「マリアの賛歌」
マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」
ルカによる福音書 1章46〜50節
マリアは言います、「わたしの魂は主をあがめます」と。「あがめる」ということは、言葉の意味からすれば、主を大きなものとし、自分は小さくなるということです。ここに「マリアの謙遜」と言われる意味があるのです。彼女は自分を身分の低い者だと言いますが、しかし、これは決して彼女の卑屈な自己卑下の言葉ではありません。むしろ、自分で自分を評価し得ない者にまで心をかけてくださる神の憐れみに生かされ、その神によって高められて、なお思い上がることのない謙遜から出てきた言葉なのです。マリアは自分を小さくすることによって神の恵みの偉大さを語ろうとしているのです。わたしたちの謙遜、自分を小さくすることで、逆に大きく見られることを期待する、そのような装った謙遜さを見せびらかすのとは異なって、神をあがめ、神を偉大とする故に自分は小さくなる、それがマリアの謙遜なのです。クリスマスの出来事は自分をいと小さな者の一人と数えることが出来た者に注がれた神の愛と憐れみによって始まったのでした。そのように自分を小さな者とすることを知っていた者は、また、あの食卓からこぼれ落ちるパンくずにあずかり、生かされることを知っている子犬にも似て、ひたすら主の言葉により頼み、生きようとするのです。
12月19日 「イエスと名づける」
ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
マタイによる福音書 1章24〜25節
生まれてくる子には「イエス」と名づけよとヨセフは命じられています。名をつけるのは父親の特権です。ヨセフはここで父である神に代わって父となるのです。彼がマリヤと共に生きようと決心した時、実は、神が彼と共に生きていたもうという事を知るのです。だからマタイはイザヤの予言をここに持ってくるのです。神の子イエスはヨセフの子として生まれました。それは、人間が罪の現実の前で、解きがたい謎に包まれて明日への展望がひらけないで苦悩しているとき、「愛」という一文字に託して神がわたしたちと共にいたもうことを示すしるしなのです。「イエス」という名は、ヘブル語で「神は救い」という意味です。マタイはマリヤに子が生まれた時、ヨセフが彼に「イエス」と名づけたと書いています。普通、親が子に名をつけるときは親の理想とか、期待とかが名となって現れるものではないでしょうか。しかし、ヨセフは父親として名をつけたのですが、自分の願望を生まれてきた子に託して「イエス」と名づけたのではありませんでした。彼は主の使いから託された名前をその子につけたのです。「神は救い」ということは、人間の願望ではなく、神ご自身が、「わたしがあなたを救う」と言われる、ということであったのです。神が共にいたもうということは、わたしたちの願いや祈りによって実現することではなくて、わたしたちの困難な現実に、既に神はわたしたちと共にいて下さるという事実を語っている言葉なのです。その確かさをイエスという名によって与えられているのです。
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12月20日 「三つの恵み」
また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
コロサイの信徒への手紙 3章15〜16節
神の子イエス・キリスト降誕の日はもうすぐそこまで来ています。クリスマスを迎える心には喜びが溢れています。何故か心楽しく、顔も笑みを湛え和んでくるのです。ベツレヘムの野にキリスト誕生を羊飼いたちに伝えた天の軍勢も、讃美の歌声を夜空に響かせたと伝えられています、「天には栄光、地には平和」と。わたしたちもこの歌声をしっかりと心に聞き留めておきましょう。クリスマスの訪れはわたしたちにとって、この世界にとっても平和の訪れでなければならないのです。ですから、クリスマスは先ず、喜びを分かち合う時でもあるのです。そして、その喜びは感謝と変わってきます。感謝は讃美を生み出すのです。クリスマスイブに、寒さにかじかんだ手をこすりながら、みんなでカロルを歌って家々を訪れた経験を持つ人々も多いことでしょう。凍てついた夜空に歌声を響かせ、心からの喜びを届けて歩いたものでした。平和と感謝と讃美、これらはクリスマスにわたしたちに与えられる三つの恵みなのです。そして、この恵みをわたしたちにもたらしてくれるのはイエス・キリストなのです。神の子の誕生の時、平和を喜び、感謝に溢れ、讃美の歌声を世界中に響かせましょう。クリスマスは、もうすぐそこの角まで来ているのです。
12月21日 「星に導かれて」
彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
マタイによる福音書 2章9〜10節
マタイによる福音書はイエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東の国から占星術の学者たちが訪ねて来て、幼子イエスに会い、三つの宝物を捧げたと伝えています。現代の天文学によっても、当時魚座において木星と土星の大接近があったことが明らかにされています。星の運行について注意を怠らなかった人々が、それらの星や星座にさまざまな意味を見出していた時代です。何か新しい出来事の出現を感じとったとしても不思議ではありません。彼らはその事柄を確かめたいと願って、遠い困難な旅に出たのでした。彼らは星を求め、星を目当てにして長い旅を続け、エルサレムに到着したのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので拝みに来たのです。」しかし、彼らが期待していたことは起きてはいませんでした。彼らを迎えたのは律法学者と王家の人々の困惑だけでした。では、彼らの苦難に富んだ長い旅は虚しかったのでしょうか。いいえ、そこから新しい不思議が始まるのです。希望の星は彼らの失望と落胆の暗い闇の中に輝き出すのです。王は用心深くベツレヘムを一つの可能性として示します。背後にどのような黒い意志が働いているか彼らは知る由もありません。けれども、再び旅路に出た彼らの向かうベツレヘムの夜空に、あの星が輝いていたのです。彼らはひたすらその星を目指し、その星に導かれて歩み始めます。その星の下、そこに幼子イエスがおられたのです。
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12月22日 「幼子イエスとの出会い」
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
マタイによる福音書 2章11節
東の国の占星術の学者たちの旅は、王として生まれた方を求めてエルサレムの王宮へと向かって来ましたが、そこに目指すお方はいませんでした。そして今は、小さな星に導かれ、小さな村に、そしていと小さな存在、幼子イエスへと導かれて来たのでした。夜、空を見上げるとき、宇宙の広大さに心をうたれます。しかし、その時わたしたちはそこで限りなく小さなものに目を向ける事を教えられるのです。星はなぜ小さく見えるのですか。それは限りなく遠いからです。実際は太陽の何十倍もある大きな星や、何十万光年という幅をもった大きな銀河がわたしたちの目には点としか映りません。それと同じように、わたしたちのまわりで実際は大きいのに小さく見えるのは、わたしたちの心が遠いからです。大きなもの、価値あるもの、確かなものだけを心にとどめようとするわたしたちに、東の国の学者たちの姿は、クリスマスはいと小さなものへと近づいて行く心の旅の始まりなのだと教えてくれます。そして幼子イエスへと向かうわたしたちは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしたのである。」という言葉を聞かされるようになります。このいと小さき者への到着は、より大きな者への到着とされるのです。そしてイエスとの出会いにおいてわたしたちは遠い者から近い者へと、いと小さきものに、より大きなものを発見する者へと変えられて行くのです。東の国の学者たちが幼子イエスに宝物を捧げたのは、その喜びを表すためではなかったでしょうか。
12月23日 「初めての子」
ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
ルカによる福音書 2章4〜7節
マリヤとヨセフにとっては初めての子です。宿には彼らが泊まる場所がなかったというのですから、きっと思い悩んだ末、やむをえずこの家畜小屋で夜露をしのごうと思ったのでしょう。まさかこのような所でお産をするなど思いもよらぬことであったに違いありません。彼らがこのような場所でのお産を心から喜び迎えたとはとても思えません。どうしようもない現実におかれて、たとえ不本位であったとしても、しかし、そこへ生まれてくる新しい命を拒むことは出来なかったのです。けれども、新しい命が生まれるところには大きな喜びもあるのです。家畜小屋の中で、夜、イエスが生まれてきたとき、彼らはそのような所に生まれてきた子の不幸を嘆いたりはしなかったでしょう。生まれてきた子は、この若い夫婦にとってかけがえのない大きな贈り物であり、喜びであったに違いないからです。インドの詩人タゴールは「この世に赤ん坊が生まれてくるということは、神がまだまだ人間に期待し希望をもっておられるというしるしなのだ」と言っていますが、イエスの誕生はもっとそれ以上の意味を持っていました。それは、このお方によって「わたしたちを新た生まれさせて生ける望みをいだかせ」て下さる、神の大きな贈り物であるからなのです。
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12月24日 「喜びの告知」
その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
ルカによる福音書 2章8〜10節
クリスマスの一番最初の知らせは、夜野宿して羊の番をしていた羊飼いたちにもたらされました。神殿で厳かに儀式を行っている祭司でも、王宮で豪華な衣装をまとい君臨している王でもなく、薄汚れた衣服を身にまとい、暗い夜も寒い野原で冷たい石の上に身を横たえ、あるいは目覚めて羊の番をしている羊飼いに、救い主誕生の知らせがもたらされたのです。スペインに伝わる伝説です。幸せを実感できないことを悲しむ一人の王がいました。占い師は王に「俺は幸せだ」と本当に言える者の下着を身につけたら、幸福を実感できると告げました。王は四方に使いを派遣して「幸せだ」と言える者を探し出そうとしましたが、どこにもいませんでした。たまたま野で羊の番をしていた若者を見つけました。「俺は幸せだ」と彼は問いに答えました。王の使いは彼に下着を脱がせようとしたが、身につけた毛皮の衣の下には何も着けていませんでした。本当の幸せは王の手にはなく、貧しい羊飼いの身についていたという話です。わたしたちが招かれているのはそのような羊飼いになれるということです。キリストに結ばれてこそ、肩書きも何もいらない、一個の人間としての自由を味わうことが出来る、その恵みにわたしたちは招かれているのです。美しい装いをしなくても、祭司のように威厳をつけなくても、王様のように権力を持たなくても、単なる一介の羊飼いであって良いのです。そのような羊飼いに喜びの訪れが告げられたのです。
12月25日 「今日あなたがたのために救い主が生まれた」
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
ルカによる福音書 2章11〜12節
天使は「今日ダビデの町で」と言っています。パウロがコリントの信徒の人々に、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」と書きましたように、喜びの訪れを告げられているその「今日」なのです。羊飼いたちはそのことを理解しました。恵みに出会い、喜びを味わう、その時を「今日」という日に見出したのでした。彼らがすぐにベツレヘムへ向かったのも、その故です。
天使は初め「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」と言いました。しかし、次には「あなたがたのため」と言っています。今ここにいる羊飼いたちがその喜びに与る対象として語られているのです。定住する場を持たない漂泊の人々、よりどころのない人々のために救い主がお生まれになったのです。そのお方は、美しく飾られた部屋のゆりかごの中で柔らかな産着に包まれてではなく、重い荷を背負わせられ、長い旅をしてきたであろうロバなどが繋がれている小屋の、臭いにおいのする暗い土間におかれた飼い葉桶の中に布にくるまって寝かされています。「これがあなたがたへのしるしである。」と天使は告げます。すべての民に与えられる大きな喜びは、誰の目にも隠された汚辱と貧しさと、そして暗さの中に備えられていたのです。救い主を見出す大きな喜び、それは、力あり富める者にではなく、夜、野で羊の群れの番をする羊飼いに先ずもたらされたのでした。後なる者が先に恵みに与るのです。
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12月26日 「別の道を通って」
ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
マタイによる福音書 2章12節
東の国の占星術の学者たちのひたすらな思いは、腹黒い王の思惑とは全く関係なく、星に導かれ、無事に幼子のいるところを見いだしました。そして、携えてきた黄金、乳香、没薬を捧げることが出来ました。王様のおかげで無事思いを達することが出来たと彼らは感謝したに違いありません。彼らは何も知らないのです。真っ直ぐに王のもとに戻り、報告をしようと考えたことでしょう。人の善意というものが黒い意志によって踏みにじられる、その危うい局面に立たされていることを彼らは知らないのです。しかし、彼らは、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行きました。もと来た道へ戻る、それは彼らの誠実な生き方なのです。けれども、何故か彼らはその道を辿ることを止められました。おそらく彼らの思いに反したことでありましょう。一番確かで、最良だと思われる道を辿ろうとして、なし得なかった、そんな悔いが残ったかも知れません。この道が一番だと思っていても、そこを通って行けないことがあるのです。わたしたちが選ぼうとする道を閉ざされることがあるのです。けれども、そこで「別の道」を示されたら、その道に歩もうではありませんか。「これしかない」と言うのではなく、別の道があることをキリストの誕生は教えてくれています。なぜなら、クリスマスは「わたしは道である」と言われた方の誕生の時なのです。そして、その道を辿るとき、不思議にわたしたちは守られているのです。あの東の国の占星術の学者たちのように。
12月27日 「救いの始まり」
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
マタイによる福音書 2章13〜15節
イエス誕生の喜びは束の間で、マタイによる福音書は幼な子イエスに襲いかかる恐ろしい危機について語り始めます。ヨセフは夢でヘロデが幼な子の命を狙っていることを示され、エジプトへ逃げるように告げられるのです。 ヨセフは夢でマリヤに宿った子が聖霊によるのだということを示されましたが、今また夢でわが子に迫る危険を教えられます。かってイスラエルの人々がエジプトへ逃れて飢饉から救われた時、彼らを迎えたのは不思議な運命に導かれて先にエジプトに移っていたヤコブの子ヨセフでありました。そして、そのヨセフも夢を見る人でありました。ヨセフと夢、この取り合わせには救いの出来事が絡んでいるのです。そして、イエスはヨセフによってエジプトに難を逃れることが出来、そして再び、エジプトからの脱出が語られるのです。歴史は繰り返すと言われますが、マタイによる福音書はイスラエルの民の歴史を、この短い叙述の中で繰り返しているように思えます。それは、ただ一人の幼な子の運命を語ろうとするのではなく、その幼な子において神が何を為し給うかを語ろうとしているからだと思われるのです。
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12月28日 「たとえ陰さすときも」
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
マタイによる福音書 2章16〜18節
東の国の占星術の学者たちがヘロデの思惑と違って全く別の道をとって国へ帰って行ってしまったあと、ヘロデは禍根を根から断ち切っておこうと、ベツレヘム周辺の二才以下の男の子を一人残らず殺させてしまいました。無謀で無慈悲なヘロデの行為を非難する声はこの二千年の歴史を通じて響きわたっていて、ラケルの嘆きは今も続いているのです。マタイによる福音書はイエス誕生の喜びの陰にさす痛みと悲しみを敢えてここに記し、このような人間の暴虐によってもたらされる危機をエジプトに避けなければならなかった、弱さを担う者として幼子イエスを物語っています。そして、そこにも神のみ旨が働いているとするのです。光がさすところにはまた陰もあります。しかし、その陰すらも神のみ旨の中におかれているのだという事の中に、痛み悲しみの中ですら望みが与えられている事に気づかされる事を喜びましょう。イエスは「光あるうちに光の中を歩きなさい」と教えられましたが、しかし、陰さすときはまた神の支えの中で守り導かれているという事も、しっかり知っておかなければならない事ではないでしょうか。詩編に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる。」とあるようにです。
12月29日 「今こそ」
シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
ルカによる福音書 2章28〜32節
神が備えられた時があります。その時にどのように対応するのか、そこにその人の生き方がさまざまな内容を含んで展開されてきます。イエスの両親が律法の規定通りにいけにえを献げようとして幼子を連れて神殿に入ってきた時、そこに来あわせたのがシメオンです。彼は信仰厚く、メシアに会うまでは決して死なないと聖霊によって告げられていました。偶然神殿でイエスとその両親に出会ったのではありません。おそらく彼は毎日のように神殿にきて祈りを捧げていたのでしょう。彼の日常の中にこの日が訪れたのです。シメオンの長い生涯において待ち望んでいた「その時」は彼の日常の、いつも見慣れたごくありふれた家族の情景の中に訪れてきました。その日、彼の目にとまった一組の親子、彼はその親子に近づき幼子をだき抱えます。そして祝福します。彼の口から神への讃美の言葉が溢れてきます。「今こそ」、この今はシメオンの変わらない毎日の流れの中にありました。年老いて、もう望みも尽きたかと思われたであろう人生の終わりに、しかし、聖霊にすべてを委ねた厚い信仰の中で繰り返す毎日の営みの中に、この「今」が訪れたのです。イエス(神は救い)を抱き上げたシメオンが「この目であなたの救いを見た」と感動に包まれています。そこには自分の時の終わりを神の時の始まりへと委ねきることが出来た喜びが溢れていたのです。
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12月30日 「落ち着いて静かにせよ」
「彼に言いなさい。落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。アラムを率いるレツィンとレマルヤの子が激しても、この二つの燃え残ってくすぶる切り株のゆえに心を弱くしてはならない。」
イザヤ書 7章4節
ユダの王アハズの時、つまり紀元前733年にエルサレムはシリアと北イスラエルの連合軍によって包囲されました。「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。」とイザヤ書は伝えます。そのようなときに神の言葉がイザヤに臨み、篭城するための準備に水の状況を見に出てきたアハズ王に面会してイザヤは「落ち着いて、静かにしていなさい。」と告げたのです。危機に臨んで右往左往する王に語りかけられた言葉は、その不安の中で予想されるような破局的な結果が、決して実現しないという神の保証に裏付けられていたのです。それは、「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」という9節の言葉によってより強く支えられています。とてもじっとしておれない不安の極みにおいて、しかも、逃げ出したくても逃げ出せないという切羽詰まった状況で、なお落ち着いて静かにしていることが出来る、その唯一の可能性は「信じる」ということ、神の言葉に信頼してすべてを委ねきることによって確かにされるのだと、イザヤは神の言葉を王アハズに告げたのです。ヘブル語で「信じる」と「確かにされる」という言葉は同じ語根を持っています。イザヤはこの事実の上に立って信仰と安全との確かな関連を語ったのです。年の瀬も押し詰まり、後一日を数えるだけです。新しい年の始めに向けて、騒ぎ立つ心を抑えて、改めて神への信頼に身を委ね、静かにすることをイザヤの言葉から学びたいものです。
12月31日 「生涯の日を正しく数える」
人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
御怒りの力を誰が知りえましょうか。あなたを畏れ敬うにつれて、あなたの憤りをも知ることでしょう。
生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。
詩編 90編10〜12節
この詩編はモーセの詩とされています。申命記の最後の章にモーセの生涯の終わりが物語られています。そこには「モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。」と記されています。イスラエルの民を率いて、さまざまな苦難を経てようやく約束の地を目の当たりにする地点にまで到達したのです。指導者として、彼こそ真っ先にその約束の地に入って行きたかったでありましょう。けれどもそこで、モーセは自分の限界を知るのです。この詩編において「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」とうたわれている言葉は、神が彼に託されたことは何であるかを確かめようとする祈りでありました。ピスガの頂に立って、彼はそこに神が示して下さる明日、未来を見たのです。彼の手にはなくとも、しかし、神の手にある確かな、永遠につながる明日を見ていたのでした。今日、わたしたちはこの年の終わりに立っています。わたしたちもモーセに学び、信仰に立ち、神の手にある確かな明日へ目を向けようではありませんか。