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日々の聖句

[2 月]

2月1日  「まことの礼拝」
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
ヨハネによる福音書 4章24節
サマリヤのスカルの井戸の傍らで、水を汲みに来た女にイエスが一杯の水を求めたことから、彼女は人として生きること、そして神を信じることの深みへと導かれて行き、思いもかけず魂の本質にかかわる問答を交わすことになりました。井戸の水は一時の渇きを癒すことが出来ますけれども、また再び渇きに苦しむことになります。イエスは言われました。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわきでる。」生ける命の水を下さいとイエスに求めた女は、そこで、礼拝するのはどこが本当なのかと考え出します。ある注解者は、彼女の五人の夫とは五つの異なった宗教のことであり、今一緒にいる男もまたそうである、しかし、それらは彼女の神ではないと言っています。彼女の心をいろいろなものが支配しています。欲望や虚栄、あるいは肉的な支配の中に生み出された退廃、そのような状況にある者が霊と真理をもってする礼拝へと招かれるのです。カール・バルトは、「水を汲むということは、ここではもはやあの井戸から水を汲む事を意味しない。生ける命の水を与えて下さるイエス・キリストによって神を礼拝することなのである。」と言います。罪深い生活の中で、心にかげりを持ち、渇きを持っている人間が、イエスによって霊と真理へと召されているのです。命の水を汲むためにイエスへと招かれているのです。そして、「父は、このように礼拝する者を求めておられる」と、イエスは言われるのです。
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2月2日  「わたしたちは見た」
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1章14節
ヨハネは18節で「いまだかって、神を見たものはいない。」と書いています。その時代でも具体的に、現実性のある神を語ったり、示したりすることは出来なかったということだろうと思います。人間の能力では神を捉えきれないということでしょう。それは現代でも同じことです。しかし、別な側面から考えると、神の側もその超越的な存在をそのまま人間に理解させることの難しさを知っておられたのではないか、と思います。ヘブライ人への手紙の冒頭には大変興味深い言葉が連ねられています。「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」
神もいろいろ苦労なさっておられたということだろうと思います。さっぱりわかってくれない人間のために神が心を砕かれた、そのことが聖書では神の義とか真実、誠実、そして愛という言葉で現されているのだと思います。しかし、3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますように、神は神であることから踏み出して人間となってその真実をお示しになったのでした。ヨハネはそのことを「見た」と言っているのです。見えないものを見たなどと言えばまるで「講釈師見てきたような嘘を言い」のようになってしまいます。けれども、ヨハネの証しは、自分たちの体験として味わったこと、自分たちの経験となった事実を語っているのです。
2月3日  「愛にとどまる人」
わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。
ヨハネの手紙 一 4章16節
「誰からも愛されないのは、大きな苦痛だ。誰をも愛することが出来ないのは、生の中の死だ。」と言った人がいます。しかしわたしたちには、「愛されている事を知る」喜びがあります。それは、「愛されていない事を知る」悲しみと絶望、自己破壊にはるかに優って生きる勇気と希望をもたらすものです。ヨハネは繰り返し、繰り返し、神の愛、神への愛、そして互いに愛し合う愛について語ります。その繰り返しの中で読者は段々と螺旋階段を上がって行く様に魂の高みへと導かれて行くのです。前の節でヨハネは「イエスが神の子である事を公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまって下さり、その人も神の内にとどまります。」と言っています。つまり、信仰に生きる人にこそ神が共にいたもうということであり、それはまた、神がイエスと共におられたのと同じように確かなのだとヨハネは証しするのです。愛の確かさというものは能動的にも、受動的にもイエスを信じる信仰において与えられるのです。それはイエスこそわたしたちの生の中心、基であることを表しています。彼に結ばれて生きる時、わたしたちは生きる真実な根拠を得るのです。そして、初めて愛されること、愛すること、の力強さを知るようになります。それは生きる力強さです。愛されている事を知らず、愛する事も知らない生は虚無の暗黒の中に自己崩壊して行く道をたどらざるをえません。「愛の悲劇というものはない。愛がない所に悲劇が生まれるのだ」と言われているとおりなのです。
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2月4日  「幸いは主を待ち望む者に」
それゆえ、主は恵みを与えようとしてあなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
イザヤ書 30章18節
生まれた子に「悪魔」と名付けた親がいます。命名権の乱用だと家裁の判決があり、しばらくして、似てはいましたが別の名前で届け出があり、受理されました。親は強い子になれと願ってこの名をつけようと考えたらしいのですが、神に対立する者としての「悪魔」を自分の名前とする者が、どのように自らの平和と幸せを見いだして行く事が出来るのでしょうか。おそらく、悪魔がそうであるように、この子は誰からも助けられることなく、自分のみの力であらゆる困難に立ち向かい、克服して行く事を余儀なくされたことでしょう。悪魔を助ける者は何処にもいないからです。実に厳しい人生のスタートを切る事になったであろうと思わざるをえません。それは別として、今日わたしたちは「なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」というイザヤの言葉を与えられています。神を頼みとせずに、他の力を頼みとする民の不信にもかかわらず、神はその選ばれた民を助けようとして立ち上がられた、その神を頼みとし、望みを繋ぐ者は幸いだと言われているのです。この「幸い」はイエスの山上の教えの中に現れてきます。その幸いを噛みしめ味わえる者は、神を頼りとし、神に望みを繋ぐ者なのだという事を忘れてはなりません。幸いは決して一様ではありません。しかし、その多様な姿におけるどの幸いもすべて神に望みをおく者に実現するからです。悪魔の誘いに屈せず、主にのみ望みをつなぐ者こそ幸いなのです。
2月5日  「朝を待つ心」
夜は夜もすがら泣き悲しんでも、朝とともに喜びが来る。(口語訳)
詩編 30編5節
泣き悲しみつつ、眠られぬ夜を過ごす、そんなつらく悲しい時が人生に訪れることがあります。パウロは、「泣く者と共に泣きなさい。」と教えましたが、わたしたちの人生において、自分のために共に泣いてくれる者を見いだすということほど難しいことはありません。黒人霊歌にも、「だれも知らないわたしの悩み」という歌がありますが、悩み、悲しみ、人知れず涙を流す時、人間の孤独はより深くなります。そのような時ほど、自分の心の奥深い闇の中において光を求め、明るい希望の朝を慕い求めるのではないでしょうか。悲しみが深ければ深いほど、救いと慰めへの希求は強まって行くのです。しかし、詩編の作者はその暗い夜、悲しみに満ちた不安な夜にも終わりがあることを知っています。彼は自分が絶望の闇の内に打ち捨てられてはいなかったのだということを、夜の闇の中でもまどろむことなく自分を見守り、支えて、新しい朝の到来の中へと生かして下さる方がいることを経験しています。たとえ、夜もすがら嘆き悲しむようなことがあっても、その不安な夜の闇を通して生命の光に溢れた朝が到来することを知っています。「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。」と言われた神の子の声を聞く者の幸いを知っているのです。それは、彼が自分の生涯を通して知り得た、尊い何ものにも代え難い知識なのです。自分を見失った時に主に助けられて、新しく生き得ることが出来たその貴重な体験から生まれた信頼でもあります。その信頼が彼の魂の呻きを讃美へと変えたのです。「泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」(新共同訳)
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2月6日  「なぜそんなにこわがるのか」
イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
マルコによる福音書 4章40節
イエスの弟子と言えば、いたって信仰深い人々のように思えます。疑いの多い、心に安定さを欠いたわたしたちとは違った立派な信仰の持ち主のように思えるのです。わたしたちははなからそのように思いこんでいます。ところが、福音書を読んでいると、しばしば弟子たちの不信仰を物語る出来事に行き当たります。そして、ああ、あの人たちもわたしたちと同じような人間だったんだなと、彼らの情けない姿に触れて、かえって親近感を覚えたりすることがあります。しかし同時に、そういう彼らを通して、イエスとのやりとりの中に、わたしたち自身の心の深みに透ってくるものを感じさせられたりもするのです。
「向こう岸にわたろう」と言われたイエスの言葉に従って、湖上に船を漕ぎだした弟子たちでした。ガリラヤ湖育ちの漁師であるペトロやアンデレたちにとって、舟で対岸に渡ることは陸を行くよりも容易なことであったでしょう。しかしその容易さが、予期しなかった嵐に出会ったとき、とんでもない取り乱し方を彼らが演じるもとになりました。自分の経験や知識に安易に頼って生きていて、イエスへの信頼をどこかに置き忘れていると、当然予想されるような嵐に出会ったとき、落ちつきを失って慌てふためき、あげくの果ては、イエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」などとわめき出す始末です。イエスが嵐を静めてくださって、「ああ、よかった」と思う、何とも身勝手な人間の姿を通して、改めてわたしたちの信仰生活の在り方を考えさせられるのです。
2月7日  「あわれみの器」
神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけではなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
ローマの信徒への手紙 9章24節
パウロは8章に至るまで、神の恵みの中に生かされている罪深いわが身、人間的、あまりにも人間的な姿をしっかりと見据えながら、その身に溢れてくる神の愛の確かさと力強さ、救いの恵みの豊かさを語りつつ、心の高ぶりを抑えることが出来ませんでした。しかし、しばらくの中断の後、興奮から冷め鎮静した心に同胞を思う憂いと悲しみがが満ちてきます。現実を冷静に見つめるゆとりを持った心は、同時に兄弟や同族のために悲しむ心ともなるのでした。自分だけの喜びに浸りきれない現実が見えるからなのです。たとえ自分の身を犠牲にしても彼らが救われるなら、それもいとわない。しかしこのような切ない悲しみの中でも、彼は御霊が言葉に表し得ない祈りをも執り成してくださることを疑いません。パウロの心には、やがて滅び行くエルサレムと散らされて行くユダヤ人の過酷な運命への予感があったのかも知れません。それにもかかわらず、彼にとってイスラエルの民は神の選びの民であり、約束の民であることには変わりがありません。もし彼らが律法ではなく、信仰によって義を求めていたならばと、彼の心は嘆くのです。けれども、その嘆きの中で彼はキリストを信じようとしないイスラエルの代わりに、召されてキリストを信じる異邦人にもたらされる神のあわれみと恵みがあることを見るのです。頑なに心を開かない同胞、ユダヤ人のために悲しみつつも、キリスト信じて神のあわれみと恵みの器とされる異邦人に、新しいイスラエル、新しい兄弟姉妹、同胞の姿を見、救いの希望を見い出すのです。
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2月8日  「ワキ役を演ずる」
ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
ヨハネによる福音書 1章26〜27節
バプテスマのヨハネの活動が世の注目を集めだした頃、ヨハネは期待されている「預言者」ではないかと考える人々がいて、それを確かめにヨハネのもとへやって来た人たちがいました。しかし、「預言者」ではないと言うヨハネの答えに満足せず、「何故洗礼を授けるのか?」と問い返しました。ヨハネは直接それに答えようとはしないで、後から来られる方を指して言います、「わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と。
ヨハネは自分が主役ではない事を知っています。人々が期待し、又期待しなければならないお方は後からやって来られる。わたしはその前触れにすぎないのだと、そのようにヨハネは知っているのです。自分の役割を本当に知っているということはひとつの優れた才能なのです。わたしたちは自分を他者に印象づけたいためにしばしば過剰な演技をする事が多くあります。それが本当の自己主張だと勘違いしているのです。しかし、優れた役者は自分にあたえられた役割をしっかり、その分に応じて演じる事を知っています。そのことで芝居全体が生きて来るからです。主役が誰であるかを弁えない役者は芝居をこわしてしまいます。ヨハネは主役は後から来る方、わたしはそのわき役にしかすぎないと、罪人が救われる大事な舞台で主役を引立て、自分が演ずべき役割を弁えていたのです。
2月9日  「信仰は恵みである」
さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
マルコによる福音書 5章25〜27節
「悪いことは重なる」とよく申します。しかし、不可抗的に悪いことだけが続くというよりも、むしろ、悪循環とでも申しましょうか、悪いことが悪い状況を呼び込んでしまうというようなことがあろうかと思います。12年も患って少しも好転する気配がなかった女の宿命的な悪しき日々というものは、もがけばもがくほど身動きできなくなる蟻地獄にも似た呪わしいものであったに違いありません。12年も出血が止まらない病というものは、肉体的に苦痛に満ちたものであったに違いありませんが、同じように心にも重い負担と痛み悲しみを強いるものであったことでしょう。その悩み、苦しみ、悲しみが一時のことではなく、少なくともある時の経過の中におかれている限り、耐えることにもそれに応じた時が求められるのです。しかし、この女には耐え忍んでその病を癒される望みは殆どありませんでした。彼女がイエスのことを聞き、群衆に紛れ込んで近づき、その衣の裾にさわったのは、たまさかの僥倖を望んだからに過ぎなかったのでしょう。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからなのです。イエスに触れ得たこの一瞬が彼女を変えました。彼女は救いの事実の中に自分を発見するのです。苦しく長い病との血みどろの闘いに耐え得た結果としてではなく、イエスと出会うことが出来た、その出会いが彼女に信仰をもたらし、救いをもたらしたのでした。主の憐れみの中に自分を見いだす事が出来たのです。
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2月10日  「誰が世に打ち勝つか」
世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
ヨハネの手紙 一 5章4〜5節
「世」とは何でしょうか。国語辞典では、「人間が集まり生活の場としているところ」と説明されています。「世間」とも言います。また、「世」を「人が生きている世界」と受け止める事も出来ます。そこには喜びも悲しみも、また様々な生きるための苦しみもあります。夏目漱石は「草枕」の冒頭で、「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」と書いています。また、永井荷風に言わせれば、「この世は世界の何処へ行こうとも皆同じ苦役の場所だ。」ということになります。このような「世」理解は日本人に共通したものと言えるでしょう。このような見方に立てば、そこに積極的な人生観を期待するのは無理かも知れません。しかし、そういう世に生きるために必要な知恵を求めている者にとって、聖書の言葉は貴重な人生の道標となるに違いありません。けれども、今日の聖句は単なる処生訓として聞くには重すぎる言葉です。なぜなら、イエスを神の子として信じる、つまり、わたしたちの生き方の根拠を自分自身からイエスへと転換させなければならないからです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」その確信が「誰が世に打ち勝つか。」との問いに答えを与えます。上手な世渡りではなく、克服し、勝利するのは「イエスが神の子であると信じる者」だとヨハネは告げています。住みにくい、苦役の場所とされる世に、生き生きとして生き得る秘訣こそ、イエスを神の子と信じる信仰なのだと教えられるのです。
2月11日  「イエスにつまずく」
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
マルコによる福音書 6章2〜3節
インドのことわざに、「ランプの下にはいつも影がある」という言葉があります。明るく輝いているランプは周囲からは光そのものと見えます。けれども、それに最も近い場に影がさすのです。近いがゆえにかえって見えないものがある、ということなのです。伝道も、自分の家族に対する伝道ほど難しいものはないとも言われます。あまりにも身近であるがために、かえって見えにくくしている面があるからだと思います。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉をわたしたちはよく知っています。人間同士、あまり親しみすぎて全く隔たりを失ってしまうと、見るべきものが見えなくなり、自と他の区別がつきにくくなって、真の交わりが損なわれるということに他なりません。どんな場合にも、お互いを正しく見いだすために距離というものが必要なのです。ナザレの人々がイエスに示した不信も、イエスを身近に引きつけ過ぎた理解から生まれました。彼らにとってイエスは同じ村の人間、一緒に育ってきた仲間、同じ階層、よく知られた存在でありました。特別な人間ではありませんでした。自分たちと同じだと思っています。その心が逆にイエスを遠ざけ、不信を生んだのでした。
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2月12日  「シャーローム」
あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。
民数記 6章24〜26節
イスラエルの人々は昔も今も、「シャーローム」と言い合って、互いに安否を問い、日常の挨拶としています。「シャーローム」とは平安、平和ということです。国語辞典によりますと、平安とは安穏、無事な様を表し、平和とは穏やかで変わりのないこと、平穏無事で戦争がなくて世が安穏であることと説明されています。その意味で言えば、わたしたちは平穏で、豊かで、恵まれた生活の中で平和を味わっていると言えましょう。「シャーローム」と挨拶を日常的に交わしながら、しかし、常に国の内と外に緊張と戦いを交差させているイスラエルの人々に比べるならば、わたしたちははるかに祝福されているようにも思えるのです。けれども、わたしたちはそれが見かけだけの平和である事を知っています。本当は、平和とはほど遠い、不安と恐れ、たたかいがわたしたちの日常を絶えず脅かしていることを知っているのです。だから、シャーロームはわたしたち自身の魂が求める願いでもあります。このようなわたしたちにイエス・キリストは、「わたしは、平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。怯えるな。」と語りかけてくださるのです。またパウロが、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」と教えている言葉を忘れてはならないと思います。
2月13日  「信仰のユーモア」
イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
マルコによる福音書 7章27〜28節
信仰についてわたしたちが語る時、ひたむきな願いや求め、信頼、希望や忍耐などがある緊張感をもって語られ、思い詰めた真剣さがないと信仰的ではないと思われがちです。しかし、張りつめた弓の弦のような緊張だけが信仰のあるべき姿なのでしょうか。信仰には、もっとゆったりとしたくつろいだものがあっても良いのではありませんか。信じるということには、全く委ねきった心の平安とゆとりが生み出すのどかな感じがある筈なのです。そのゆとりの中に、ほのぼのとした温かさが感じられるのが本当だろうと思います。つきつめた生真面目さと熱心からは、こうしたゆとりや温かさは伝わって参りません。信仰について語る時にわたしたちが見落としているものを、このシリア・フェニキアの女が教えてくれます。彼女にはユーモアがあるのです。ユダヤ人ではない異邦人だというのでイエスの拒否に出会いながら、彼女は逆にイエスの言葉を自分のものにしてしまいます。しかも、実にユーモラスな言葉のやりとりを通して、見事に信ずる心をイエスに伝えてしまうのです。ここには、激しい求め方と異なって、ひたむきな思いや熱心さが、互いの言葉をかみしめ味わうゆとりの中で、相手に伝えられて行く絶妙な間合いが生まれています。そして、イエスは彼女のユーモアを理解するのです。多分、「それほど言うなら、よろしい。」と受け入れられたイエスの頬には、笑みが浮かんでいたことでありましょう。
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2月14日  「パウロの祈り」
兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
ローマの信徒への手紙 10章1〜3節
ある聖書学者は10章が「祈りのため息」で始まっていると言っています。頑ななユダヤ人同胞の救いのために、切ない思いで祈るパウロの心を見る思いがいたします。パウロはユダヤ人同胞が陥っている過ちを厳しく見つめ、問いただしながらも、彼らを審く者ではなく、むしろ彼らの救いを心から願い、祈り求める者でありました。ユダヤ人の誤った熱心が、神が彼らとの間に結ぼうと欲しておられる道から外れ、彼らの独善的な正しさを作りだそうとする危険を深く憂い、心を痛めるのです。「熱心は、人を最善か最悪かの極端に走らせる。」と言った人があります。たとえどんなに神をよく知っているようであっても、神との正しい関係を結ぶ道を誤れば、行き着く先は滅びなのです。しかし、神はその道の終わりにキリストによって十字架をお立てになりました。「キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた。(口語訳)」のです。キリストを知るとは、行いではなく信仰によってのみ神との正しい関わりを得ることを知るということなのです。自分自身で正しさをつくり出そうとして苦しむことはなくなり、もはや自分で自分にあれこれ教えることもなくなるのです。そして、ただ彼を信じることだけが神との正しい関わりに生きる生き方だと知るようになる、それがユダヤ人同胞へのパウロの祈りでありました。
2月15日  「怒る主イエス」
イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」
ヨハネによる福音書 2章15〜16節
福音書の中ではイエスの感情表現についての叙述は極めて少ししかありません。ヨハネによる福音書は11章35節で「イエスは涙を流された。」と短く記述しているだけですし、悲しみについては、マタイによる福音書26章38節に「わたしは死ぬばかりに悲しい」とあるほか、マルコによる福音書3章5節にも「イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」とある程度です。マルコによる福音書では、主イエスの悲しみは怒りと結びついています。「笑う」という記述は全くありませんから、イエスの容貌を思い浮かべると、どうしても憂いをふくんだ優しさに行き着いてしまうのです。ですから、怒りに結びついた悲しみに満ちたイエスの顔というものを思い浮かべる事が出来ません。しかし、今日の聖句を読むと、日頃わたしたちが考えていたようなイエス像は何処かへ消し飛んで、神殿の境内で商売をしている人々の前に立ちはだかる厳しい眼差しのイエスの姿に、いささか肝を冷やさずには済まない、そんな恐れを感じさせられてしまうのです。わたしたちの、どちらかと言えば甘えた信仰は、怒るイエス像をどのように自分の中に取り込む事が出来るのでしょうか。パウロは「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」と言っています。イエスの怒り、神の怒りを知ることは、わたしたちの信仰にとって大切な事柄なのだと教えられるのです。
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2月16日  「癒して下さるイエス(一)」
さて、らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまちらい病は去り、その人は清くなった。
マルコによる福音書 1章40〜42節
列王紀下5章には、重い皮膚病を病むナアマン将軍のことが物語られています。癒されることを期待して預言者エリシャの家の戸口に立ったナアマンに、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」という言葉を伝えられて、ナアマンは預言者自身が来て癒してくれるものと思っていた期待が外れ、ひどく不満でありました。しかし、家来の助言に従い素直にその言葉に従うことができ、癒されました。癒されるために必要なことは素直な信頼でありました。イエスの前にひざまずいたらい病人は言います。「み心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と。その言葉から、何もかも主イエスに委ねて待つ心をうかがい知ることが出来ます。彼は病む事によって多くの悩み苦しみを味わったことでしょうが、また病む事によってその事を学んだのでありましょう。自分の力ではどうにもならない事を知って、初めて本当に委ねる事、信頼することを学んだのだろうと思います。そこから彼は「み心」が何なのかを教えられるのです。イエスが言われた「よろしい。清くなれ」という言葉は、新改訳聖書では「わたしの心だ。清くなれ。」と訳されています。イエスの心がそこにあります。病む事によって神のみ心に触れる事が出来たのだとしたら、病む事もまた「恵み」となるのではないでしょうか。
2月17日  「癒して下さるイエス(二)」
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されれているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。
マルコによる福音書 3章1〜5節
作家の遠藤周作は、「聖書の中には、あまたイエスと見捨てられた人間との物語が出てくる。形式は二つあって、一つはイエスが彼らの病気を奇跡によって治されたという、いわゆる『奇跡物語』であり、もう一つは、奇跡を行うというよりは、彼らのみじめな苦しみを分かち合われた『慰めの物語』である。」と書いています。そして彼は、「奇跡物語」よりも「慰めの物語」の方がずっとリアリティーを持っている、そして、「慰めの物語」の中で人々がイエスの姿の中に、言い様のない「やさしさ」を見ていたのだ、と言っているのです。「やさしさ」というのは思いやる心です。それはまた愛する心に他なりません。イエスのやさしさは、病む者、障害を持つ者、差別される者、弱い者に注がれ、そこから奇跡が生まれてきたのでした。安息日、片手萎えた人が会堂の中にいました。もしイエスがこの人を癒すようなことがあったら訴えてやろうと待ちかまえる人々の前で、彼らに利用される人を思いやり、この人を癒して下さったイエス。彼は人間の弱さと悲しみを共に分かち合って下さったのでした。
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2月18日  「永遠の命」
その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。
ヨハネの手紙 一 5章11〜13節
新共同訳聖書の巻末に「永遠の命」について簡単な説明がなされています。
「聖書の教えによると、キリスト者は、身体的な命とは区別される『キリスト・イエスにある新しい命』を受ける。これが『永遠の命』と呼ばれるもので、復活されたキリスト自身の命である。キリスト者は、この世に生きている時すでにこの命を持っているが、決定的にそれに生きるのは、肉体の復活が行われる『終わりの日』を迎える時である。」
わたしたちの持っている時間概念からすると、「永遠の命」とは今のわたしたちの命がそのまま未来に直線的に伸びて行くように思えるのですが、わたしたち自身、死によって限られている命を生きているのですから、そこに重なって来る命であるとは思えません。むしろ「永遠の命」とはわたしたちの「今」に常に直角的に交わってくる新しい命であり、永遠との交わり、世界の創造者・支配者である神と結ばれることに他なりません。「わたしたちが神の内にとどまり、神がわたしたちの内にとどまる」のはこの命においてです。そしてキリストを信じる者は、キリストに結ばれて既にこの命を得ていることをヨハネは告げるのです。それは神が共にいます現実にわたしたちを招き入れる言葉なのです。
2月19日  「主において喜べ」
主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
フィリピの信徒への手紙 4章4節
フィリピの信徒へ宛てたこの手紙は、一般に「喜びの手紙」とも呼ばれています。それは、この手紙の中に繰り返し「喜びなさい」という言葉が出てくるからだろうと思われます。しかし、この手紙がローマの獄中で書かれている事を考えますと、そう安直に「喜び」を語っているとは思えないのです。多分、パウロはフィリピを初めて訪れた時のことを思い起こしているに違いありません。反対する人々の手によって捕らえられ、牢獄につながれた時、足枷をはめられ、身の自由を奪われながらも、獄中にてパウロとシラスは祈りをささげ、讃美を歌い、その苦しみの中でもキリストに結ばれて生きる喜びを溢れさせていました。突然起きた大地震の中でも、彼らの讃美は変わらず、それがきっかけで牢番とその家族に救いがもたらされました。今、ローマの牢獄にあってもフィリピの人々を思い起こすとき、パウロの脳裏にはフィリピにおける数々の喜びに満ちた思い出がよみがえってきていたことでしょう。パウロは「わたしの喜びであり、冠である愛する人たち」と呼びかけるのです。その喜びはみなイエス・キリストにつながってきます。再び牢獄に閉じこめられていても、キリストに結ばれて生きる者には、どんな艱難にあっても喜ぶことが出来る、すべてのことを益として下さる神の愛に生かされている身には苦難すら誇りとなるのです。そこから、「主において喜びなさい」という勧めが生まれてきます。「主において」というのは「主の中に自分を見いだせる状態で」ということに他なりません。その身を全く主に委ね得てこそ、本当に喜びを味わうことが出来るのです。その喜びを味わいなさい。
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2月20日  「命を選びなさい」
わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。
申命記 30章19〜20節
わたしたちの前には生と死、祝福とのろいが置かれていると言うのです。聞きようによっては脅しのようにとれるかも知れません。けれども、神はこの言葉の中で、わたしに従わなければお前は滅びる、と脅しているのではなく、わたしはお前が生きることをこそ望んでいるのだ、と訴えているのです。神はわたしたちが滅びるのではなく、生きて祝福に与ることをこそ望んでいるのだと言っているのです。生きよ、祝福に与れ、ということが神の第一の願いなのだ、それこそが神の求め望んでいることなのだと訴えられていることをしっかりと聞きとどめて置かねばなりません。
エゼキエル書にはイスラエルに対する審きの言葉が溢れ、呪いに満ちているようにさえ思われるのですが、しかし、その中で次の言葉に出会うとわたしは身震いが止まらなくなります。なぜなら、ここに神の本心が語られていると思わざるを得ないからです。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。」(エゼキエル書18章30〜32節)
2月21日  「捨てられはしない」
そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
ローマの信徒への手紙 11章1節(口語訳)
ユダヤ人同胞の救いのためにパウロは切ない思いで祈ります。しかし、彼らの不信の姿を見るときに、ふと、絶望の思いが脳裏をかすめるのです。彼らは救われないのではなかろうか、「神はその民を捨てたのであろうか」と。もう望みはないのだと思い詰めてしまうとき、そのような危機において神の恵みは人間を圧倒します。恵みに圧倒されて初めて恵みを受け入れられるようになる、「それが信仰なんだ」と教えてくれた人があります。望みがないときに望んで信じられるようになるのも、無償の愛を注いで下さる神の恵みと憐れみがあればこそ、その恵みに圧倒されればこそなのです。絶望の中でわたしを支えて下さる方こそ神なのだと、パウロの確信と叫びはそこからわき起こってきます。「断じてそうではない」と。神は決してわたしたちを見捨てたりはしない。わたしだってユダヤ人だ、キリストに従う者たちを迫害したほどのものだ、それなのに、罪人の頭とも言うべきわたしですら憐れみを受け、救われたではないか。神は決してわたしたちを、ユダヤ人同胞を見捨てたりはしないのだ。こう言うのは決してパウロの強弁ではありません。恵みに圧倒されて迸り出る彼の信仰の叫びなのです。それはキリストを信じ、キリストに結ばれた者に与えられた神の保証でもあります。行いによらず、ただただ信じる者を義として下さる神の恵みなのです。その恵みに浴している者であればこそ、パウロは声を大にして、「断じて、神は見捨てたまわない。」と叫ぶことが出来たのです。
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2月22日  「告白」
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
マルコによる福音書 8章29節
自分が人からどう見られているかという事は、わたしたちにとっても大変興味深い関心事です。自分で考えている自分と、他人が見る自分との間にはいつも大きなギャップがあるものです。その食い違いがしばしばわたしたちを不安にいたします。イエスにもそのような不安があったのでしょうか。「あなた方はわたしを何者だと言うのか」と尋ねます。弟子たちの心を確かめようとなさったのかも知れません。けれども不思議なことに、イエスの問いは、彼がどう見られているかではなくて、弟子たちにとってイエスとは何であるかを確かめさせることになりました。人々はイエスを洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、あるいは預言者の一人だなどと、さまざまな見方をしています。弟子たちにもそれぞれの見方があったに違いありません。けれども、イエスに問われて初めて、彼らは自分にとってイエスは何なのかを真剣に考えさせられたのです。「あなたこそメシヤ、救い主です。」この答えの中でペトロはイエスが自分自身の救い主であることを確認するのです。イエスの問いは現代においても生きています。他はどうであれ、わたしたち自身にとって彼は何なのか答えねばなりません。
2月23日  「奇跡(一)」
激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
マルコによる福音書 4章37〜39節
「共観福音書においては奇跡に先立って要求されるのは信仰であり、事実、イエスはこの信仰なしには奇跡を行ない得ないのである。」〔聖書思想事典より〕 しかし、そこ迄言わなくとも、わたしたちは信仰ぬきで奇跡を理解したり、受け入れたりする事ができないとは誰しも考える事なのです。ところがマルコが伝えるこの嵐を静めた奇跡の物語では、その直後にイエスは弟子たちに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言っています。口語訳では「どうして信仰がないのか」と訳されています。ここではイエスの超自然的な業に対する驚きだけが語られていて、弟子たちの心にはまだイエスに対して信仰と言えるものは兆してはいないように思えます。しかし、ある人が「奇跡とは、キリストを通して神が働いておられるという事実を示すものである。」と言っていますように、むしろ、弟子たちの不信仰にもかかわらず、イエスはこのような機会をとらえては彼らの心に信じる思いを育てて行かれたのです。「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言い合ったと記されていることがそのことを示しています。信仰というのはわたしたち自身で作り上げていくことではなく、主イエスによって育てられていくものなのだということをマルコは語ろうとしているわけで、そこに奇跡を語るマルコの心があるのです。
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2月24日  「奇跡(二)」
舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスは・・・ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。
マルコによる福音書 6章49〜50節
フラーという聖書学者は、「奇跡とは神の同情の直接的な行為である」とか、「奇跡は証拠ではなく、信仰への呼びかけである」などと言っています。奇跡というのは神が自分の力を見せびらかすようなものではないのです。むしろ神の奇跡とは、人間の行き詰まりや、挫折、不可能、絶望と言った状況に対する神の深い同情、哀れみ、そして、そのような無力に曝されている人間に対する神の愛の直接的な表現なのだということなのです。滅びに面している人間に対する神の止むに止まれない同情が神を動かすのです。では何故そのような人間には考えられないような事を神はなさるのでしょうか。フラーはそれに答えて、「奇跡というのは神がこんな力を持っているという事を証拠立てるものではない。そうではなくて、人間の危機に自ら介入して、神への信仰へと、信頼へと、人間の心を呼び覚まし、招かれる為なのだ。」と言っているのです。暗夜、逆風に妨げられ難儀している弟子たちの舟に、イエスは海の上を歩いて近づいてきます。恐れと不安の中で何か大切なことを見失っている弟子たち。幽霊かと恐れる弟子たちにイエスは語りかけます。「安心しなさい。わたしだ。」
2月25日  「悪霊追放」
イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
ルカによる福音書 11章14節
主の受難の日が近づいてきて、わたしたちが一番関心を持たなければならないのはイエスの歩みでありましょう。その日常でどの様な困難を主が味わわれたのか、少しでも理解が深まればそれだけ主の苦しみに近づけるからです。悪霊を追いだしていたイエスに対して群衆は驚嘆していたのですが、それを別な見方で見ていた人々がありました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言うのです。強い力もそれを上回る力には勝てないという道理に基づいて、イエスを悪霊の親玉に仕立てあげようとしたのでしょう。当時の人々は悪霊にもいろいろ種類があったり、ランクがあると考えていた様です。この場合は口を利けなくする悪霊がいて、その悪霊を追い出したイエスは悪霊の頭の力を使っているのだと中傷したのです。口が利けなくなるというのは、相当強い抑制が心の中で働くということですから、その人の心を支配している抑圧から解放されなければ口を利くことは出来ません。その抑圧から解放し自由を与えて下さったイエスは、よほどの力を持ったお方だと考えられたのでしょう。しかし本当の力はベルゼブルではなくて神にあるのです。開かれ、解放された命に生きるためにはイエスに結ばれ、神の国に、神の力の中に生きなければなりません。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなた方のところに来ているのだ。」とイエスは言われました。悪霊追放の働きは単に不自由な人間が解放され自由にされただけでなく、神の国到来を指し示す出来事でありました。
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2月26日  「一番後になる者」
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
マルコによる福音書 9章35節
旅の途中、弟子たちの間で話が弾んだのは、だれが一番偉いかと議論しあっていたからでした。イエスに問われてもすぐに返事が出来なかったのは、自分たちの間で何を基準にどのように評価するのか何もコンセンサスが出来ていなかったからだと思われます。「偉い」というのは他に優れているという価値判断に基づいています。けれども、イエスは「偉い」という言葉を使いません。何かに比べて人をはかる、そういうことをイエスはなさらないのです。先に立とうとする者は後になり、人に仕える者になれ、他に優れることではなく、他の者に役に立つ者になれ、とイエスは教えられるのです。新屋徳治牧師は日本聖書神学校の校長をされていたとき、卒業生に、「アンカーマンになれ」と語りました。ミネアポリスの海軍兵学校では、一番ビリになった人をアンカーマンと言うのだそうです。人生のビリになれと言うわけではありません。アンカー、つまり錨は海の底に沈み、姿を見せませんが、しっかり舟を保持し、安全に支えます。錨には重みが必要です。一番後の者にはこの人間的重みが必要です。重みのある生き方が求められるのです。それは十字架を負う重みです。イエスに従う者が学びとらなければならないのはこのことではないでしょうか。
2月27日  「主よ。見えるようにして下さい」
神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。
列王記下 6章15〜17節
思いがけない事態に直面して途方にくれる場合があります。その様な時、平静ではおれない乱れた心を静めるためには、確りした拠り所が必要です。イエスは「心をさわがすな」「恐れるな」と声をかけて下さいます。そのイエスの声は、神がいつも共にいて下さる確かさを伴っています。パウロも「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対出来ますか。」と言っています。信仰の生活は神の確かさに身を委ね得て実現されるものです。
「わたしたちは滅びます」とおののいている者に、天軍の大きな支援のあることを見させたエリシャの故事は、イエスに信頼し、神ともにいます現実に生かされる者にとって、決して絵空事ではなく、日毎の歩みの中で実感しうる確かさを持っています。エリコの町でイエスの前に憐れみを求めて「ダビデの子よ」と叫び続けた盲人は、「何をして欲しいか」とイエスに問われ、「主よ、目が見えるようになりたいのです。」と答えました。見えるようになりたい。これが願いです。恐れを超えて、神のなされるみ業の不思議を見ることが出来るようになりたいのです。
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2月28日  「キリスト者の生き方」
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
ローマの信徒への手紙 12章1節
パウロはここでローマの信徒たちにキリスト者としての生き方を語ろうとします。神の憐れみと恵みの豊かさに生かされる者として、どのように生きるかが大切な課題となるからです。パウロは、何よりも先に一番基本的で大切なことを語ろうとします。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」
キリスト者にとって、どう生きるかの基本は、「献身」ということです。それは、もはや自分のために、自分のこととして、自分のみで生きることをやめ、ひたすら神に信頼し、神の支えの中で神に生かされる命を生きるということに他なりません。しかも、この世の中においてこそ、そのように神に喜ばれる生き方が求められていると言うのです。「いけにえ」とはユダヤ教において、殺され、祭壇に献げられ、焼かれる動物のことです。しかしここでは、「生けるいけにえ」と言われています。それはキリストとともに死に、キリストとともに生きる者としてその身を全く神に委ねて生きよ、ということではないでしょうか。生きた姿でわたしたち自身の体を献げなさいと言うのです。神の前で、キリストに生かされているように生きなさい。それが「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」なのです。そして、「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と言われていますように、このような生き方を通してわたしたちの生涯が、神を礼拝し、神を讃美するものに変えられていくのです。