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日々の聖句

[9 月]

9月1日 「家族」
そして、いつも、あらゆる事について、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。
エフェソの信徒への手紙 5章20〜21節
今日のテキストは結婚式の時、「夫婦の努めに関する聖書の教え」として読まれる個所の前におかれています。最近は「妻は夫に仕えなさい」とある言葉が、女性に対する差別ではないかという意見が強くなってきたせいもあるでしょうが、時代の変化がこのようなところにも現れてきていて、「夫婦の努めに関する聖書の教え」を読まないですます事が多くなりました。「新しい式文(試案)」では既にはぶかれています。けれども、結婚式で読むかどうかは別として、この個所はキリストに結ばれている者として家族の人間関係をどのように捉えるか、その事を知る大切な個所である事は間違いありません。使徒パウロは夫婦の関係の中にキリストと教会の関係を映して教えるのです。互いの信頼と愛において結ばれている関係をキリストに結び合わせて確かとする、そういう関わりをキリストと教会の関係に二重映しにして見せているのです。パウロは「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。」とまず言うのです。キリストの前では互いに小さな者になり、低い者になれという事が前提です。キリスト者の家庭はキリストに結ばれている者として、キリストの体である教会を映し出す所でもあるのです。仕え合う心が家庭をしあわせにします。仕え合うとは「仕合わせ」「幸せ」「倖せ」なのです。「主に仕えるように」という言葉から幸せを学びたいものです。
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9月2日 「影薄き者なれど」
十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
マタイによる福音書 10章2〜4節
イエスの弟子たちの中に3組の兄弟がいます。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、そしてアルファイの子ヤコブとタダイです。そして、マルコによる福音書2章14節には「アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて」イエスは彼を弟子にしたとありますから、徴税人マタイ(レビ)はアルファイの子ヤコブとタダイとも兄弟であったのではないかと見られるのです。もしそうであったとするならば、ローマのために働く徴税人、そして罪人扱いされていたマタイとほかの兄弟たちとの関係はおそらくあまり良いものではなかっただろうと思われます。けれども彼らがそれぞれにイエスに召され、イエスとの関わりの中で新しい生き方を与えられたとき、破れていた兄弟の絆が修復されて、主にあって一つとされたのでした。そして、兄弟の間にあった隔ての中垣を壊して和解を実現して下さったのはイエスであったという事が、この十二使徒の名簿の中に示されていると言う事が出来るのではないでしょうか。アルファイの子らはペトロや他の使徒に比べればまったく影の薄い存在です。使徒の中でこれと言った働きをしたようには見えません。けれども彼らがイエスに招かれて主に仕えるようになり、神との正しいかかわりの中で和解を実現した事実こそ、福音そのものを物語る出来事でありました。十二使徒の名簿は小さな福音書なのです。
9月3日 「愛はいつまでも残る」
信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大なるものは、愛である。
コリントの信徒への手紙(一) 13章13節
「愛」とは何か、繰り返し問われ、繰り返し答えられてきた言葉です。いまさら事新しく取り上げて語るまでもなく、その言葉が意味するものが何なのかキリスト者にとっては良くわかっていることに違いありません。しかしまた、いくら学んでも容易にその理解が身に付かない言葉でもあると思います。「わかっている」と言う時にはさっぱりわかっていなくて、何も問われないでいるときには、十分わかっているつもりになっている、そういう言葉が「愛」なのだと、少々皮肉をこめて言いたくもなります。カール・メニンガーが「君が愛することが出来れば、君は生きられる」と言いましたように、「愛すること」と「生きること」とは密接に結びついています。イエスが十字架につけられて死に、ガリラヤへ逃げ戻った傷心のペトロが、そこで復活のイエスに再び巡り会ったとき、復活のイエスはペトロに生きる力を呼び覚ますために三度も「わたしを愛するか」と問われたのでした。失意と落胆の中でもう何も残っていないペトロに、なお最後まで残っているものを主は呼び覚まされたのでした。「わたしを愛しているか」と問われた言葉は、キリストに結ばれた新しいいのちへとペトロを向かい合わせたのでした。すべての望みが潰えてしまっても、愛さえあればその悲しく厳しい現実を越えることが出来、人は生きられるのです。ペトロにこの愛を甦らせたのはイエスの愛でした。愛が愛を生み出すのです。「愛は決して滅びない」のです。そして、その愛の中にイエスはわたしたちも呼び覚まして下さるのです。
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9月4日 「神の愛と真実」
彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。「その子を、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず、彼らを決して赦さないからだ。だが、ユダの家には憐れみをかけ、彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い、馬、騎兵によって、救うのではない。」
ホセア書 1章6〜7節
ホセアという名は「ヤーウェ(主なる神)は救う」という意味を持っています。彼は紀元前721年に北イスラエルが滅亡する直前まで預言者として活動していたようです。当時、北イスラエルは北の大国アッシリヤの脅威に直面していて、社会的、政治的危機に曝されていました。そして、宗教は形骸化し、道徳的退廃が起こっていました。そのような状況はイスラエル自身が神の御心に反し、犯した罪の故であること、そして、愛をもって待っておられる神へ悔い改めて帰ることをホセアは訴えたのでした。ホセアの預言には彼自身のつらく厳しい人生体験が伴っていました。彼は自分の不幸な結婚生活の現実を通して、如何に神がイスラエルに愛と真実とを注がれているのかを知り、そのことを語り告げたのでありました。産まれる子に「憐れまれぬ者」という名をつけざるを得ない望みのない状況において、なお神は憐れみをもって救って下さるという望みを語らずにはおれなかったのです。背反する者に愛と真実をもって向き合って下さる神の言葉を伝えようとするホセアなのです。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。(2章16〜17節)」と、神は語りかけて下さると告げるのです。
9月5日 「わたしに倣う者になりなさい」
そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。
コリントの信徒への手紙(一) 4章16節
信仰者の危機は外からの圧力によって信仰の放棄を迫られるよりも、むしろ自らの信仰の変質によってもたらされるものです。謙遜が高慢にとって変わられ、誇るべきものが主より自己へと転移してくる、そこに癒しがたい病巣が巣くうようになるのです。パウロは幾たびも自ら高ぶることがないようにと、「誇る者は主を誇れ」と、警告してきました。この高ぶりは自分が生かされている者ではなく、いつしか自分自身で生き得ているかのように錯覚させるからです。そして神の確かさではなく、自分の確かさに依り頼むようになるのです。そこに信仰者の危機があります。パウロがコリントの教会に見た危機とはこのことでありました。それ故パウロは、自身をキリストの故にむなしくされ、惨めとされ、卑しめられ、人間の屑のように無価値とされているのだと強調するのです。それは、自分の知恵にも力にも頼れず、ただキリストによってのみ生きることの他、為す術を知らない者として自分を語るのです。キリスト・イエスに結ばれて生きる者の生活の仕方をもう一度コリントの人々に思い起こしてもらいたいためなのです。無力な者を生かして下さるお方の力を味わう為なのです。そこでパウロは「わたしに倣う者となりなさい」と言うのです。わたしの真似をしなさいと求めるのです。けれども、パウロは自分を誇ってそう言うのではありません。彼自身がキリストに倣う者であり、キリストに結ばれて生きる者としての思いを生かそうとするからなのです。ですからパウロは11章1節でも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなた方もこのわたしに倣う者となりなさい」と言うのです。
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9月6日 「覚悟」
そして今、わたしは、霊≠ノ促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。
使徒言行録 20章22〜24節
使徒パウロがエルサレムへの最後の旅の途中、エフェソの教会の長老たちを呼んで別れを告げた時の言葉です。並々ならぬ覚悟が述べられています。前途に何が起きるのか、皆目見当もつきかねる中で、確かなこととして聖霊が告げているのは投獄と苦難だと言うのです。聖書をよく読んでいくと、バラ色の幸せに満ちた世界など何処にも語られていないことに気がつきます。主イエスが弟子たちとの最後の別れのときに、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と語られたことは、むしろ、苦難に立ち向かう者たちへの励ましの言葉なのでありました。わたしたちもキリストに結ばれて信仰の道に歩む者として、決してそれらの苦難と無縁ではないことをよく承知しています。しかし同時に、苦難に向かうわたしたちの傍らに、共に歩んでいて下さる主イエスの支えと励ましがあることも確かに承知している筈なのです。ですから、福音を語る者を待ちかまえている苦難が、わたしたちの人間的状況に重なってくる時には、その苦難がむしろわたしたちの「覚悟」を支えるものとなることを知らなくてはなりません。
9月7日 「忍耐は明日を開く」
わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。(口語訳)
ヤコブの手紙 1章2〜4節
人は無意味な人生に耐えて生きることは出来ません。アウシュビッツの強制収容所において極度の苦難に耐えて生き延びることが出来たのは、生きる意味を見失わなかった人たちだけであったとフランクル博士は言っています。耐えるということは、生きることに意味を見い出す者にとってのみ意味のあることなのです。無意味に苦しむ者は生きては行けないのです。わたしたちは苦しみにただ耐えるだけでなく、それを克服して生きて行かねばなりません。その忍耐を生み出すのは信仰が試されることなのだとヤコブは言うのです。苦しみに耐えて生きることに意味を与えるのは信仰なのです。パウロは、信仰によって患難を喜んで受け入れる生のあることを語っています。何故なら、患難が忍耐を、忍耐が錬達を、そして錬達が希望を生み出すことを知るからなのです。信仰において忍耐はキリスト者の人生に明日を開く力となるのです。忍耐は希望を生み出すのです。忍耐力を十分に働かせないではわたしたちの明日は開かれないのです。ヤコブは「あなた方の知っているとおり」と言っています。キリスト信じる者にとってこのことは、お互いの経験として知っていることなのだと言っているのです。それ故、キリスト者は身にふりかかる苦難を、思いがけないことのように思わず、忍耐力を十分に発揮して生きなければなりません。
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9月8日 「権威の中にある者」
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
ローマの信徒への手紙 13章1節
このテキストを取りあげるためには「権威」とは何かを理解しておかねばなりません。国語辞典によれば「他を支配し従わせる力/誰もが認める優れた価値を持っている事」とされています。文字の意味を取れば「権」は力で、「威」は精神的な尊敬を表しています。ですから、力だけではなく尊敬をも受け得てはじめて「権威」でありえるという事です。パウロはその様な権威はすべて神に由来するのだと言い切ります。そして、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。」と言うのです。そのためでしょうか、日本のキリスト教会はこの世の権力としての[天皇制]に安易に追従するという過ちを犯して来ました。そして、敗戦を契機として悔い改めを迫られたわたしたちは、あらためて真の権威のもとに生きるべきことを教えられたのでした。では、パウロは間違った事を教えたのでしょうか。この点に関してさまざまな批判があります。しかし、パウロが当時のローマ帝国の支配を認めていたにせよ、その強大で絶対的な権力でさえ神の権威、その支配の外にあるのではないことを語っているのは確かな事です。その理解がなければ、この世の権威に従う事によって、かえって真の神の権威に従順であることを見失ってしまう事になりましょう。そして、現実に彼らの上に暴威をふるっている力も、それすらも神の支配のもとにあるという信仰のもとに生きるのでなければ、決して不条理な現実にキリスト者として生き得ることは出来ないということをパウロは教えているのではないでしょうか。
9月9日 「救われる名は他にない」
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
使徒言行録 4章12節
「救われる名は他にない」ということは、命を受け継ぐべき名は他にはないのだという事を意味しています。「救い」とは滅びの危機に臨んで、その絶望から解放され、生きる望みに繋がれるという事です。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助ける」と詩編に歌われています。神は苦難のときにわたしたちの呼びかけを待っておられます。そして「神は救い」ということを「イエス」という名において成就して下さったのでした。イエスに出会い、彼によって救いに与かる事が出来るようにわたしたちを信仰によって彼に結び合わせて下さったのでした。ガリラヤ湖上で嵐に出会い、荒波にもまれる小舟の中で弟子たちが「主よ、われらは滅びる」と絶望の叫びをあげたような危機は、わたしたちの生活の全ての側面にも現れてきています。肉体的にも精神的にもわたしたちには救いが必要です。そのとき、わたしたちは何に頼ろうとするのでしょうか。金銀、能力、名誉その他、この世のもろもろの力に頼ろうとします。しかし、それらでは得られない救いを実現できるのはイエス・キリストのみだとペトロは証言するのです。神殿の「美しい門」の前にうずくまる生まれつき足の不自由な男、施しを乞う者にペトロは告げます。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。この言葉こそわたしたちを全ての絶望から解放する力なのです。この名の他にわたしたちを救う名は他にはないのです。
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9月10日 「信じて耐える」
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。
ローマの信徒への手紙 4章20〜21節
パウロはアブラハムについて、「彼は希望するすべもなかったきに、なおも望みを抱いて、信じ」たと語っています。信仰と希望とはパウロにとって決して切り離すことの出来ないものでありました。信じない者にとって明日、未来は決して開けてこないということを、彼は誰よりもよく知っていたのです。ですから、パウロはアブラハムの人生を振り返り考えるとき、アブラハムが見えない明日に向かって前に進む拠り所を信仰に置いていたこと、そして、彼の希望は「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だ」という確信に基づいていたことを知るのです。また他方、「希望は丈夫な杖である。忍耐は旅装束である。」という言葉があるように、その希望を実現するために必要な忍耐ということもある、そして、忍耐を支えるのは信仰であることをパウロは知っていたのです。わたしたちが、今自分が生きているということを知る一番手軽な方法が痛みを味わうことであるように、忍耐は信仰と希望の確かな手応えをわたしたちに与えてくれます。旧約の詩人が「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことが出来ました。(口語訳)」と歌っていますように、忍耐の味わいの中から望んで信じる真の甘味へと目覚めさせられるのです。耐えることを知る信仰の中に希望の光が射してくるのです。苦難から忍耐へ、そして希望へと続く信仰の道がそこにあるのです。
9月11日 「神の現存」
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、湧き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。
詩編 46編2〜4節
「神の現存」という言葉はカトリック教会の用語です。それは神が確かに存在するということだけではなく、神がわたしたちと共におられ、生き、働いておられるという具体性を語っている言葉なのです。「臨在」とわたしたちが表現するのとそれほど大きな意味の違いはないと思いますが、わたしにはもう少しダイナミックな感じがします。望みが失われるような危機の時、苦難の最中にあっても、そこに必ずいて助けて下さる神。神はいないのではないかとわたしたちが絶望の叫びをあげたくなるようなとき、そのような時、ところにも必ずそこにいて助けて下さる神のことをこの詩編作者は語り、神を「わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」と呼んでいます。「現存」というのは、そのような確かさを内に持った言葉であると理解して良いのだと思います。そのような神に支えられておればこそ、「地が姿を変え山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、湧き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」わたしたちは決して恐れない、と言うことが出来るのだと思います。かってロンドンに大きな震災が起きたとき、ジョン・ウエスレーはハイドパーク公園に立って、集まった人々に繰り返しこの詩編を語り、力づけたと伝えられています。望みが尽き果てたかと思われるところにも神はいて、助けて下さると励ましたのでした。
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9月12日 「主よ、憐れみたまえ」
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
マタイによる福音書 9章35〜36節
ここにはイエスの目に映った群衆の姿が興味深い言葉で描写されています。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」姿です。「途方にくれている」と表現しても良いでしょう。自分の存在を見失いそうになっている人間を見られるイエスの目には深い憐れみが湛えられています。「医者を必要とするのは病人である」と言われたように、イエスの目は憐れみを必要とするたましいに深く注がれるのです。そして「途方にくれている」者を憐れまれるのです。新約聖書には[憐れみ]をあらわす二種類の言葉が用いられています。[憐れみ]は70回ほど出てきますが、ここで使われている言葉には特別な思いがこめられているように思えます。リビングバイブル訳では「イエスの心はズキズキ痛みました。」となっています。イエスがどれほど群衆の哀れな姿に心を痛めたかが分かります。そのお心から溢れてくるものがわたしたちの救いにつながって来るのです。神殿において一人の徴税人が遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら、「神様、罪人のわたしを憐れんで下さい」と言いました。イエスはこのような者に目をとめられるのです。神の前で罪ふかい自責の思いにかられて恐れおののく者に注がれる神の愛、その憐れみがみ子イエスを通して溢れて来るのです。「主よ、憐れみたまえ」と祈り求める者、イエスの胸はこのような者のためにうずき痛まれるのです。
9月13日 「主が与えられる地で」
あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。
申命記 15章7〜8節
「主が与えられる土地で」という言葉をどのように理解し受け止めたら良いでしょうか。イスラエルの人々であれば、それはカナンの地である、自分たちが今住んでいる土地であるとすぐに理解がいくでありましょう。けれども、わたしたちにとってはそれは自明の事ではありません。解釈を広げていけば、この地球上何処でも同じ事になり、ここで求められている隣人愛は普遍的なものになってしまいます。どちらかと言えば、わたしたちはこの言葉を「愛は地球を覆う」的に解釈しているのではないでしょうか。それを逆に理解を狭めて、この戒めはカナンの地におけるイスラエルの民の間という限定を持っている、としたら、それは偏狭な宗教的、民族的独善だと言う事になるのかも知れません。「同胞」という言葉も大切に扱わねばなりません。身近なつながりを大切にするところから、本当の愛の実践が拡がっていくのです。わたしたちがキリストに結ばれた交わりを大切にする心を失ってしまうならば、どんなに社会と人への高貴な愛と実践を説いても、それは生きた血の通わない謳い文句だけに終わってしまうのではないだろうか、と思います。そして「負債免除」の心は「わたしたちの負い目を赦して下さい。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」と祈る「主の祈り」につながってきます。赦す者として神の前に赦される者となる、そこに「与えられた地」に共に生きる者の姿を見る事が出来るのです。
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9月14日 「名」
神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから、コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
コリントの信徒への手紙(一) 1章1節〜2節
コリントの教会の人々へ宛てた手紙の冒頭で、パウロは先ず自分の名前を書きます。彼の元の名はサウロと言いました。その頃彼は激しくキリスト者を脅迫、殺害の息を弾ませる者でありました。しかし、ダマスコへの道で幻の内にキリストに出会い、回心を経験した彼は、一転してキリストに生きる者となりました。彼がパウロと呼ばれるとき、サウロであった時の激しく逆らい立つ姿は消え、「聖なる者たちのすべての中で最もつまらない者であるわたし」と自分を呼ぶ謙遜さに生きる者に変えられているのです。彼は自分の名を冒頭に書きます。決して自分を誇るためではありません。彼の誇りは別なところにあります。彼には自分は罪人の中の罪人、罪人の頭と呼んでもらいたいほどの自負があります。それは神に逆らい立つサウロの姿です。けれどもサウロの名は書かれはしません。名は体を表すと言われます。古代中国の思想家荘子は「名は実の賓なり」と申しました。実が主であって名は従であるという意味です。パウロは自分の名を冒頭に書きます。それはパウロが主ではなく、彼を生かして下さる主を示そうと思うからです。書いているのはパウロです。しかし彼は、神に召され、生かされ、そして使徒として働いている、そのことを彼は言いたいのです。
9月15日 「キリストと共に生きる」
キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。
コリントの信徒への手紙(二) 13章4節
「わたしたちは話すとき、二人である。黙っているときは、一人である。」これは仏典の言葉です。わたしたちが誰かと話しているとき、そこには何かの関わりがあります。何も関わりがなければ黙ってしまうでしょう。孤独というのは誰とも関わりを持たないことなのです。イエスは「あなた方は互いに愛し合いなさい」と教えられました。愛し合うということは互いに関わりを持ち合うということではないでしょうか。ですからある人は、「愛し合う人々は、その愛で、他の人に対する橋をつくるべきである。」と言うのです。パウロは自分のことを、弱い者だが神の力によってキリストと共に生きる者、と呼んでいます。弱さとは自分から他者との関わりをつくっていけないということです。いつでも助けを求めている心でもあります。しかし、そのような弱さに生きる者でも神の力は、わたしたちをキリストと共に生きる者として下さると言うのです。神の力とは、神の愛ということに他なりません。自分からつくり出せない関わりを神はキリストによってわたしたちに実現して下さったのです。ですから、キリストと共にある者はもはや孤独ではありません。弱さに生きる者でもないし、愛されているからこそ本当に愛する者になるのです。「誰かを愛するということは、その人のために、キリストを願望することである。」この言葉のように、キリストと共に生きる恵みを他者にも実現できるように、愛し合う者になりたいものです。
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9月16日 「主イエスこそ救い」
「先生がた、救われるためにはどうすべきでしょうか。」二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」
使徒言行録 16章30〜31節
「救い」とは滅びの危機から解放される事でありました。しかし、それは単に安全な場所への移動を意味するだけのものではありません。新しい命の始まりを獲得する事でもあるのです。フィリピの牢獄で起きた出来事は牢役人にとっては自分の存在を見失わせるほどの深刻な事態でありました。地震の為に牢が破壊され、囚人が皆いなくなってしまったと思い込んだとき、彼はその事態を収拾出来ない事に絶望するのです。思いがけない出来事は彼の現在も未来もすべて幻の如く消し去ってしまったかの如く思われた事でしょう。けれども絶望するのはまだ早い。彼の思いとは違い、囚人たちはそのまま牢の中に残っていたのです。ここには人の思いをはるかに超えた神の真実の証明があります。たとえ人を偽り者としても神を真実なものとする、その確かな証しがここにあったのです。すべては失われてしまったと思われた事態から救われて、彼が全く新しい状況に生き得る機会に出会ったとき、それが「救われる為にはどうすべきか」という問いになったのです。この牢役人にとって見る事の出来ない暗い闇の中に備えられているものを見いだすにはどうしたらよいか、彼は自分の危機の体験の中から、新しく生きる道を問うようになります。「主イエスを信じなさい。」わたしたちはこの言葉の中に本当の希望を見いだす事が出来ます。わたしたちにとって絶望的な状況の中にも[救いは備えられている]のです。その事を知る道が「主イエスを信じる」という事だとパウロはわたしたちにも語っているのです。
9月17日 「摂理」
神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。
創世記 45章7〜8節
人間にとって極めて不幸と思われる事が、月日を経て振り返ってみる時、それが現在の自分とその状況にとって深い意味をもっていた、と知ることがあります。事実は小説よりも奇なりとか、その不思議に目を見張る思いがすることも多いのです。聖書の中では、まずヨセフ物語にそのことを教えられます。12人の兄弟の中で末から2番目のヨセフ、いつも兄たちから疎まれ、軽く扱われれ、その聡明さがかえって兄弟の憎しみを買います。とうとう兄たちにうまくあしらわれて人買いに売られてしまい、エジプトへ連れて行かれます。そこで舐胆の苦しみをなめるのですが、運命は不思議にヨセフの知恵を用いさせて、やがてエジプトの宰相の地位に迄昇らせるのです。飢饉に苦しみ食料を求めてエジプトへ下って来た兄弟たちと出会った時、ヨセフは自分の運命の不思議を偶然とは思えませんでした。過ぎた日の彼の不幸は今日のためにあったのかと思うのです。摂理とはこういう事であったかと思うのです。その時、恨みは消えて肉親への懐かしさが心をうるおして行きます。彼の心に家族への、兄弟への愛が再び燃えだすのでした。苦難に満ちた彼の生涯に、しかし、神が彼と共にいて下さった確かな証しを、兄弟との再会と、愛の中に見いだしたヨセフの物語が、イスラエルの民族の心の拠り所として、やがていかなる苦難の中にても、神への信頼と従順に生きる民を形作って行く基盤になって行ったのです。
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9月18日 「憩いの水のほとりへ」
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ、憩の水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
詩編 23編1〜3節
詩編23編は、わたしたちの人生のさまざまな節目において、神に支えられて生き、生かされる命の不思議に目をとめ、その度ごとに、溢れる感謝と喜びを心の歌とする思いに満たされれる詩編です。
イスラエルの王となったダビデの心に、懸命に羊の群を追った少年の頃の思い出がよみがえります。目先のものしか見えず、先を見通す事の出来ないため迷いがちな羊の群を追い、野獣から守りながら歩んだ日々のことが思い起こされます。その羊にも似て、人としての道に迷い、過ちを犯すことの多かったわが身のことを思い起こすのです。そのような者を主は見捨てることなく導き支えて下さった。不安に怯え、落ち着きを失うときも、良き羊飼いの如く、わたしを「憩いの水のほとり」平安と落ち着きへと導いて下さったのは主であった、とダビデは自分の人生を振り返りながら思うのです。「わたしは良い羊飼いである。」と言われたのはイエスです。この詩編を読むごとに、この詩編を誦する度に、わたしの心は慰めに満たされます。良い羊飼いイエスが導いて下さる安らかさの中に憩うことが出来るからなのです。「伴い」とありますように、ぐずぐずしているわたしに連れ添って、憩いの水のほとりへと導いて下さり、魂を生き返らせて下さる、その信頼と安心が与えられるのです。
9月19日 「ただ一度だけ…」
キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が正くない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
ペトロの手紙(一) 3章18節
中南米で多くの人に愛され、良く歌われている「ソラメンテ・ウナベス」という歌があります。「ただ一度だけなの、人生を愛してよ、たった一度だけなのよ、人生は。」という歌詞で始まるとても美しい歌です。その「一度だけ」という言葉に心惹かれます。「人間存在は誕生と死によって限定された時間的存在であり、人間の生活は一回だけの機会』である。」と語ったのはカール・バルトでした。彼はその一回性の中で人間は神の前に、自由へと召されているのだと教えています。神の子が人間となられたというのは、この様に限られた人間の生の中に身を置かれたということに他なりません。罪人である人間、神に逆らい背く人間、にもかかわらず神はそのような人間を愛して下さって、御子によって人間の姿をとり、罪人のために苦しみを担って下さったのです。人生に繰り返しはありません。そのただ一度の命を生きるためには、その一度のために苦しまれ、死んでくだっさたイエス・キリストによって神に導かれる尊い機会を逃すようなことがあってはなりません。イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5章24節)そして、このお方に結ばれることによって、わたしたちはただ一度だけの命を豊にされ、常によろこびつつ、確かな命を生きる者とされているのです。
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9月20日 「信仰は未来を見る」
ヨセフは兄弟たちに言った。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」それから、ヨセフはイスラエルの息子たちにこう言って誓わせた。「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携えて上ってください。」ヨセフはこうして、110歳で死んだ。
創世記 50章24〜26節
ヘブライ人への手紙11章には信仰によって生きた人々のことが多く語られていますが、ヨセフについても、「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。」と言及しています。出エジプト記12章40節によれば、イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は430年であったとされていますから、ヨセフの願いが実現するまでには随分と長い年月が必要であったことがわかります。聖書の記述は、一代ではなく何代にもわたって時が経過して行く、そのような遠い未来についても信仰はそれを見ていることを示しています。「今泣く者は笑うようになる。」とイエスは教えられました。その実現にはどれほどの時を必要とするのかわかりません。けれども信仰は未来を見ているのです。たとえ今は暗い闇に包まれていようとも、その闇の彼方に光る星の僅かな光すら、信仰の目は既にそれを捕らえているのです。わたしたちは目先のことに追われて、遠くを見ることが出来ないでいます。けれども、わたしたちの目が十字架に付けられたイエス・キリストをしっかり捉えているならば、その十字架の向こう側から射してくる光、希望を確かに見ることが出来るでありましょう。
9月21日 「土の器」
わたしは陶工の家に下って行った。彼はろくろを使って仕事をしていた。陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。そのとき主の言葉がわたしに臨んだ。
「イスラエルの家よ、この陶工がしたように、わたしもお前たちに対してなしえないと言うのか、と主は言われる。見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」
エレミヤ書 18章3〜6節
エレミヤに語りかけられるとき、神は決して抽象的な表現は用いられませんでした。むしろ、神の語りかけの具体性は、エレミヤ自身には一つの体験としてもたらされるものであったのです。陶工の家に行って陶工がどの様に陶器を作っているのかを見る、そこで彼が見たことは、陶器が如何に作られていくかという過程ではなくて、陶工が如何に自由に粘土を扱っているのかという事でありました。エレミヤは陶工が思いのままに粘土を扱っている様子に、神の支配の力強さと、その神のご意志の中に置かれている人間の存在を感じとったのでした。神は作ることも壊すこともできるお方なのだと知ることの中で、その神の手の中にある人間としてどう生きなければならないのかを学びとって行ったのです。そこには審きと共に救いもある、ということを預言者の鋭い感性において捉えていたのです。「見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、イスラエルの家よ、お前たちはわたしの手の中にある。」と神は言われます。神の手の中にあればこそ、新しく作り変えて下さる神の憐れみに望みを託すことが出来る、エレミヤが心に聞きとどめることが出来たのはそういう希望ではなかったでしょうか。
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9月22日 「主イエス・キリストの恵み」
あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。
コリントの信徒への手紙(二) 8章9節
使徒パウロは、主イエス・キリストの恵みとは、主が貧しくなることによってわたしたちが豊かにされた、ということだと教えています。しかもそれをわたしたちは知っていると言うのです。わたしの豊かさは主が貧しくなられた証しだとも言えるのです。誰もが同じように豊かになれると夢見た時代もありました。けれども、それも幻と消えたのでしょうか。一人が豊かになるその裏ではだれかが貧しくなっている、それがこの世の定めかもしれません。もし、その事実を直視するなら、今のわたしたちの豊かさとは決して「恵み」だなどと言えるものではありません。けれども、パウロは主イエス・キリストがわたしたちの貧しさをすべて負って下さったから、わたしたちは豊かになったのだと言います。わたしたちの豊かさはキリストの貧しさに支えられている、と言うのです。「恵み」とはそれなんだと言うのですが、もう一つ、マケドニア州の諸教会のことを例にひいて、「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」ことも「恵み」なのだと教えています。主に支えられている者が、また互いに支え合う者になる、それこそ「恵み」なのだと教えられるのです。パウロがコリントの信徒の人々に自発的な施しを促すのはこのような恵みの分かち合いを実現しようと言う呼びかけでありました。
9月23日 「神によって生きる」
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
ルカによる福音書 20章38節
「ライブ」という言葉が最近よく使われるようになりました。「生きている」という意味だと新しい国語辞典にも記載されています。そして、ラジオやテレビの生放送のことだとか、ステージ演奏をそのまま録音するときなどに「ライブ」という言葉が使われています。生き生きとした雰囲気がそのまま伝わって来ると言う意味で評価されている言葉です。それだけではありません。対照的に「デッド」つまり「死んでいる」という表現があるように、そこには生命の躍動する姿が捉えられているのです。イエスの教えていることは、「神はライブなのだ。だから人間もライブなのだ。」ということなのでしょう。「神」と考えるだけでもそこに生命的な躍動が生きて来るのが人間なのではないでしょうか。パウロは「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ。(ロマ1章16節)」と言っていますが、それは人間に真実に生きる根拠を与えるライブな力、ダイナミズムであると言うことが出来ましょう。わたしたちがほんとうに生きていると言える拠り所を神はイエス・キリストによって与えて下さったのです。「全ての人は、神によって生きている。」と教えるイエスの言葉に、わたしたちがデッドではなく、ライブに生きる秘義が示されているのです。イエスが悪魔の試みに、「人はパンだけで生きる者ではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と答えられた、その現実がこのイエスの言葉によって語られていると言えるのではないでしょうか。
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9月24日 「信仰者の生き方」
信仰によって、モーセは生まれてから3か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。
ヘブライ人への手紙 11章23節
リビングバイブルでは「モーセの両親も信仰者でした。」と訳しています。少し妙な訳し方だとは思いませんか? しかしこの手紙の著者は、モーセが不思議に命をながらえて、やがて成人した後、イスラエルの民をエジプトの地から救い出す偉大な業を成し遂げたその背後に、彼の両親の信仰深い生き方があったのだと語るのです。ですから、彼らが「信仰者であった」と言われるのは当然なことでありました。
使徒言行録7章にも「モーセ・・神の目に適った美しい子で」あったと記されています。当時、「生まれたへブルの子は殺せ」という非道な命令が王から出されていたのでしたが、生きる望みを絶たれていたこの幼子が、ただ愛くるしかったというのではなく、むしろ、神がこの幼子と共にいて下さることを信じることが出来た両親の信仰によって、暴虐な王の目から隠され、最後に、小さなパピルスの篭に乗せられ、神の手に全く委ねられて河に流されたのでした。結果は、不思議なことに幼子の命を奪うはずであった王の娘の手によって拾い上げられ、育てられるということになりました。誰にも予想できるようなことではありません。けれども、信じて未来へ向けて神にすべてを委ねる、これが信仰者の生き方でなくて何でありましょうか。命を脅かす敵の手の中にさえ救いを見い出すなどとは到底人の知恵の及ぶところではありません。しかし、神は敵の手の中にさえ救いを備えられておられたのです。信仰とはまさに「望んでいることを確信し、見えない事実を確認する事」なのです。
9月25日 「命の不思議を思う」
これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき、地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。
創世記 2章4〜5節
火星の大接近が話題となったことがありました。わたしがまだ幼かった頃は、火星にはまるで蛸のような異様な姿をした火星人がいて、地球を侵略しにやってくるというSF小説を、本気になってそのまま信じ込むような時代でした。しかし、科学・技術の進歩は宇宙空間のさまざまな事実を明らかにして、今は火星の実際の姿もわかるようになりました。今では、赤みを帯びた茶褐色の火星の上に、そのような人間もどきみたいな生物はいないということは、もうよく知られていることです。火星も地球もその誕生の頃は似たような星であっただろうと思われます。今、地球には豊かな緑があり、潤いがあり、多くの生物、命に溢れています。けれども、火星にはかって水があり、川が流れていたらしい痕跡が残っていますが、今は乾いた広漠とした死の世界が広がり、わたしたちの想像を超えるすさまじい砂嵐がその表面を吹き荒れているということです。同じ太陽系の惑星でありながら、何故地球だけはこのように水も緑も豊かで命豊かなのでしょうか。神の創造の世界にも人間が生かされる命の世界と、そうでない世界があることを教えられます。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。」と歌った旧約の詩人の思いへわたしの心がつながって行くとき、わたしも自分の命の不思議を思うのです。
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9月26日 「神の力に支えられて」
神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。
テモテへの手紙(二) 1章7〜8節
困難に出会い、気をくじかれて身動きできなくなる、そういうことを繰り返している自分をひどく恥じることがあります。そのような時、「キリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい」と励ますパウロの言葉に、どれほど力づけられ、勇気づけられる思いを味わったことでしょうか。強気だけで生きていけると思えば少しは空元気も出せるでしょうが、弱気になった瞬間、足もとが急に危うくなってしまう、それがごく普通の人間だろうと思います。パウロは愛するテモテが怖じ気づいている状況を見て、励ましの言葉を送るのです。何がテモテを怖じ気づかせたのか、それはわかりません。けれども、テモテが福音を宣べ伝えて行く道で自信を失い、勇気を失いかけている様子がうかがわれるのです。そこでパウロは、宣教者として立つ者が神の力に支えられていることを伝えて励ますのです。自分の力で生きることに不安と恐れを感じている者を支え、強めてくれるのは神の力であるということ、その力に支えられてパウロと共に福音のための苦しみを耐え忍びなさいと励ますのです。ここには若い伝道者を強め励ます言葉があります。しかしまた、その言葉は自信を失い人生に怖じ気づいている者を励まし強めてくれる言葉でもあると言えましょう。神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださるのですから。
9月27日 「心に留める」
だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。
ヘブライ人への手紙 2章1節
口語訳では「心に留めねばならない」となっています。ある著名な神学者は、「御言葉にしっかりと固着しなさい」と教えています。しっかりしがみつきなさいということでありましょう。この世の激流に逆らって生き抜くためにはしっかりしがみつくことが出来る確かな拠り所が必要なのです。しかし、どんなにしがみついていようとしても、非力な者は流されてしまいます。意あって力足りず、信仰に生きていてすらその嘆きを味わうことも多いのです。「留める」ということは、ある場所に、ある時間継続してとどめ置く、という意味です。だから、聞いた言葉をしっかりと心の中に留めおきなさいということです。耳から耳へ素通りしてしまうような聞き方ではなく、心に留めて聞きなさいということなのです。それが「いっそう注意を払う」ということなのです。そうでないとおし流されてしまいます。聞いた言葉がではなく、その言葉を聞いた者が押し流されてしまうのです。御言葉はその人の内に留まっていてこそ力を発揮します。御言葉は聞かされた者の内に生きる力なのです。御言葉の重みが人間の命の重みに重なり、その重さがわたしたちを人の世の流れに抗してしっかりと立たせてくれるのです。けれどもここで心に留めて置かなければならないもう一つの言葉があります。6節に「あなたが心に留められる人間とは、何者なのですか。」とある言葉です。わたしが心に留めておかなければならないことは、それは、神がわたしを心に留めていて下さるという事なのです。
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9月28日 「羊飼いの心」
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
ルカによる福音書 15章4節
ある人の祈りに、「わたしたちはあなたを捜しません。わたしたちにはあなたが見つかりません。あなたが捜し、わたしたちを見つけるのです。」とあって、最後に、「ただこの良い知らせは本当なのだと、言うだけで精いっぱいでございます。」と結ばれていました。イエスはこのたとえを通して失われた者を捜し求める者の心を語っています。道に迷い、群れから脱落した羊の嘆きを語っているのではありません。広い野原に1匹だけで孤立する悲しみや、孤独のつらさを語ろうとしているのでもありません。そのような失われた羊へ寄せる羊飼いの悲しみを語り、何とかして再びその手に取り戻そうとする執心を語るのです。羊には2メートル先はもう見えないのだと言われています。先の見通しのきかない羊が迷っても、責めを羊に帰することはむごいことかも知れません。しかし、見通しがきかない故に羊は群れとして生きねばなりません。共に生きなければならないのです。それを忘れて群れから離れてしまえば死があるのみです。それ故、羊飼いは失われた羊を見過ごしには出来ないのです。たとえ99匹を野に残して置いても、失われた1匹を捜し求めるそのような羊飼いの心に託して神の心が語られるのです。そのことが本当なのだということは、真の羊飼いであるイエス・キリストの手の内に自分を全く委ねてみて、はじめてわかることなのです。ヨハネはイエスの言葉を次のように伝えています。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と。
9月29日 「不確かさの中の確かさ」
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
ヘブライ人への手紙 11章1〜2節
昔の人たちは現代人が及びもつかないような鋭い洞察力と豊かな想像力に富んでいたように思われます。わたしたちは確かなものだけを信じようとします。不確かなものに望みを繋ぐことはありません。けれども、ノアの場合も、アブラハムの場合も何も確かさのない明日にむけて信頼を繋ぎ、望みをもつことが出来たのです。ヘブライ人への手紙の著者は彼らが「信仰によって」生きたことをわたしたちに伝えるのです。そして、わたしたちが信仰について語る場合も、彼らを引合いにだして語る事が多いにもかかわらず、しかし自分自身は必ずしもその様な冒険は冒そうとしない現実に、あらためて自分の不信仰を思わされるのです。信仰を語りながら確かさだけを求めているために、不確かさの中にあえて進んで行く冒険は冒さないのです。しかし、今日のテキストはわたしたちに不確かさの中にある確かさに気づかせてくれます。3節の「見えるものは、目に見えているものからできたのではない」という言葉は、逆に「目に見えていないものが、目に見えるものを作り出している」ことを物語っているのです。いちばん不確かなものがいちばん確かなものになる、という不思議をこの言葉は語っているのです。見えていないものが見えるようになる、そこにこそ本当に信仰の意味があり、意義があると言えましょう。そして、不確さのなかに確かさをもつことこそ「希望」ということにほかなりません。それが「望みのないところで望んで信じる」ということなのです。
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9月30日 「ジレンマから抜ける道」
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰がわたしを救ってくれるでしょうか。・・・・・わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマの信徒への手紙 7章24〜25節
使徒パウロは自分の意志と実際の行動との違い、その落差の大きさにひどく悩み苦しみます。それはパウロだけの個人的な問題ではありません。人間としてわたしたち全てにもあてはまる大きな悩みなのです。であればこそ「如何に生きるか」ということがわたしたちの人生の最も真剣な課題になるのです。パウロはそういう自分の問題をしっかりと見つめ、悩みながらも自分の本来あるべき姿を追い求めて行きます。自分の欲している善を行わず、欲していない悪を行っているまことに矛盾した自分のありのままの姿から目を離そうとはしません。「なんと惨めな人間なのだろう」と途方にくれる思いの中で、しかし、なんとか正しく生きたいという意欲を失いませんでした。「わたしは自分で自分を裁くことすらしません。」と、コリントの人々に宛てた手紙の中で語るパウロです。唾棄したいほどの醜く惨めな自分ではあっても、そのまま、あるがままに受け止めて、すべてを神に委ねて生きる信仰に彼は活路を見いだしたのでした。「在るべきか?在らざるべきか?」というあの有名なハムレットの悩みは、何処までも自分にこだわり続けようとする人間にとっては永遠の課題であるに違いありません。しかし、わたしたちの人生において変わらずに、生々しく生き続けるこのジレンマからの解放は、そのような自分自身でありながら、なお自らを託すことが出来るお方への「信」によってしかもたらされないでありましょう。