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日々の聖句

[5 月]

5月1日  「キリストの福音にふさわしく」
ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次の事を聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんな事があっても、反対者たちに脅されてたじろぐ事はないのだと。
フィリピの信徒への手紙 1章27〜28節
「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と言われていますが、ふさわしく生きるとはどういう事でしょうか。辞書では「に値するように」とか「を辱めないように」と説明されています。「らしく」ともあります。パウロはいくたびかこの言葉を使っていますが、コロサイ1章10節では「主に従って歩み」、テサロニケI 2章12節でも「神のみこころにそって歩む」と訳されています。こうした点からすると、単にそれらしく生きるということではないように思われるのです。それは丁度割符のように、切り口がぴったり合うような生き方だと言わねばなりません。となると、「キリストの福音」の理解の仕方、受け止め方によってその切り口も変わってくるということにもなるのではないでしょうか。ですからパウロがフィリピの信徒への手紙の人々に期待しているのは、彼らの生き方が同じ切り口で「キリストの福音」に合うようになる事であり、つまり、「一つの霊」「一つ心」で、彼らを悩ましている者たちにしっかり立ち向かっているという証でした。ですから、「福音にふさわしく」ということは「に値するように」とか「を辱めないように」ということよりも、信仰の切り口をそろえるということだと言えましょう。
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5月2日  「主に支えられている」
主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。
詩編 37編23〜24節
アメリカの作家ヘミングウエイが書いた短編小説に「老人と海」というのがあります。よく読まれている小説です。その中で主人公の老人は、沖に出て悪戦苦闘の末に大きな魚を釣り上げるのに成功します。しかし、意気揚々と引き上げる途中、その獲物が鮫にねらわれるのです。再び、今度は鮫との闘いが始まります。そして、せっかく釣り上げた獲物を殆ど鮫に食われてしまうのです。そのすさまじい鮫との闘いの中で老人はこう叫びます。「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ。そりゃあ、人間は殺されるかも知れない。けれど負けはしないんだぞ。」
この言葉にはヘミングウエイの不屈の魂が反映しているのかも知れません。けれども、誰でも皆このように不運にもめげず、逆境を乗り切って行く強い意志の力を持ち合わせているわけではありません。わたしたちにその強さはありません。わたしたちには支えが必要なのです。たとえ倒されるようなことがあっても決して滅びることはないという確信をもたらしてくれる支えを必要としています。そして、わたしたちはその支えを持っているということを今日の詩編の言葉がおしえてくれています。「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。」もしわたしたちが自分の弱さの中でも、「人間は負けるように造られてはいないんだ」と叫ぶことが出来るとしたら、それは、神の手にとらえられ、支えられている確信の中でこそ、ではないでしょうか。
5月3日  「良い羊飼い」
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。
ヨハネによる福音書 10章11,14〜15節
今日の聖句の中では「わたしは良い羊飼いである。」が二回繰り返されています。この「わたしは・・・である。」の形は、この福音書の中ではイエスがご自分を顕わす言葉として多く使われています。ここでは「わたしは良い羊飼いである。」と言われていることについて二点、特徴的な表現があることを学んでみたいと思います。  一つは「命を捨てる」という事です。この「命」はギリシャ語ではプシュケーで、生命原理、命の座としての霊魂、内的生活の座としての魂、心などを表しています。地上的、肉体的生命をあらわすゾーエーとは区別されています。そして「捨てる」は「与える、委託する」という意味でもある事に注目しなければなりません。
二つ目は「知っている」という事です。これは単に知っているという事ではありません。内側に入って体験的に知る、具体的に体で知る、霊的、人格的交わりにおいて知るなどの意味があります。イエスはこのように羊と羊飼いとの立体的な関係においてご自分を捉えておられ、救いに与かる者たちに対して「わたしは良い羊飼いである。」と言われたのです。それは父である神とイエスとの関係を映し出す形で語られているのですから、「良い」という形容詞が上述のような「命を捨てる」と「知っている」事に深く関わっていることを心にとめて読まなければならない言葉だと思います。
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5月4日  「復活と生命」
さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
コロサイの信徒への手紙 3章1節
わたしたちは使徒信条において「からだの甦り、永遠の生命を信ず。」と告白します。ある神学者はそのことを「永遠の中に人間生活を発見する事である。」と言っています。時の限りない積み重ねの彼方に、永遠を見ようとするわたしたちなのです。けれども、わたしたちが積み重ね得ると思うこの時は、永遠あればこその今なのです。時間の矢は遠い未来にその方向を持っていますが、時の実態はその遠さから逆に今に向かっているのです。「キリストと共に復活させられた」のは、再び前と同じように今から未来へと向かう命、死で括られた生の繰り返しに戻って来たのではありません。そうではなくて、永遠からこの今に生かされるようになったのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって」(コリントII 5章17〜18節)とパウロが言っているのは、そのことをあらわしています。新しいものが生じる命こそ神から出る命です。永遠が絶えず新しい今となって姿を現す命こそがキリストと共に復活する命に他なりません。「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」とパウロは語ります。泉から鮮烈な水がほとばしり出るように、復活のキリストから溢れる命を受け継ぐ事が出来るようにされたわたしたちこそ、「キリストに結ばれた」者に他なりません。そして、「キリストに結ばれた者」がキリストと共に新しい命をこの世に実現する者となるのです。
5月5日  「神に対して生きる」
わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
ガラテヤの信徒への手紙 2章19〜20節
「神に対して」と言われています。「生き方」にも二通りある事に気づかされます。そして、わたしたちは神に対して生きることよりも人間に対しての生き方のほうに心を多く用いています。ですから、「神に対して」生きるためには「人に対して」生きる生き方を180度転換させなければならないのです。律法に死ぬということは、もはや人間的な拠り所を律法に求めないということであり、人間的に生きることを放棄することでもあるのです。つまり、人間らしく生きようなどとは思わないということなのです。けれども、別な言い方をすれば、人間的には生きられなくなってしまった人間、この世的には生きる望みを失ってしまった人間、ときには望みを失わせられた人間に、全く次元の異なった新しい生き方が備えられているというメッセージがここに在るということが出来るでありましょう。人に捨てられて、人に対して生きる望みを失っても、神に生き、神に生かされる命があることを教えられるからです。そこでは、生きているのはわたしではなく、キリストがわたしの内に生きておられるという、その確かさと、生き生きとした命の溢れ出る喜びを知ることが出来るのです。そこにキリストによって「神に対して生きる」者となる恵みがあるのです。
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5月6日  「信仰に踏みとどまりなさい」
あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
コロサイの信徒への手紙 1章21〜23節
「信仰に踏みとどまり」とコロサイの人々に呼びかけているパウロの言葉は、彼らの間に信仰の不確かさがさまざまな影を落としていたであろう事を思い浮かべさせます。そこでパウロは彼らに「以前は」と「しかし今や」の間の大きな違いに目を向けさせようとします。以前は闇の力の中にあり、「悪い行いによって心の中で神に敵対していた」人々です。希望もなく、救いとは全く縁のない生き方に身を委ねていたのでした。しかし今は違います。今は神の愛する御子の支配の中に生かされています。あなた方は以前のように神を恐れなくても良い、もはや神なき者、希望のない者ではなく、神に愛されている者としてキリストによって今は神との間に平和を与えられ、恐れなく神の前に生きることが出来るようにされているのです。だから、キリストによる救いに自信を持ちなさい、とパウロはコロサイの人々に語りかけます。過去と現在を対比させるパウロの語りかけは、キリストにあって新しく生かされる人間、信仰者の存在を浮かび上がらせます。信仰に踏みとどまるというのは、闇の支配から御子の支配へと移して下さった神の愛に応え、悪の支配の中に生きる者ではなく、キリストの愛の中にしっかり踏ん張って立つ者となるという事に他なりません。
5月7日  「愛の基点」
イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
マタイによる福音書 22章37〜40節
イエスがサドカイ人たちをやりこめられたと聞いて、パリサイ人たちが最後の矢を射かけてきました。律法の専門家が、イエスを試そうとして「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」と尋ねてきたのです。彼らの問いは人々の宗教的生活の核心部分にふれてきたのです。それに対して、イエスは申命記の言葉を引用しながら答えます。一番大切なことは人間存在のすべてをあげて神を愛すること、そして、自分を愛するようにその隣人を愛することだと答えられたのでした。隣人を愛するその基点は神を愛することにあります。わたしたちは神を愛することにおいて、初めてお互い人間がそれぞれ隣人になることが出来、兄弟姉妹となることが出来るのです。パウロが「愛はすべてを完成させる絆です。」とコロサイの人々に語ったとき、彼が隣人を神を愛する愛において捉えていたことは明らかです。またイエスは「隣人を自分のように愛しなさい。」と教えられましたが、「神を自分を愛するように愛しなさい。」とは教えられませんでした。自分を基点にして神を愛するということは出来ないのです。愛とは神を基点にするものです。神に愛されて初めて愛を知るのが人間です。ですから、神を愛するということは、神に帰ることに他ならず、神に帰ることによって、わたしたちの愛が本物になるということなのです。
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5月8日  「信仰をもって願い求めなさい」
あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
ヤコブの手紙 1章5〜6節
「知恵に欠けている人は、信仰をもって願い求めなさい」とヤコブは言います。知恵に欠けるということは、今自分が置かれている状況に正しく適応できないでいるということを意味している言葉です。パウロは「今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」と、エフェソの人々に語り、また、「時をよく用い、外部の人に対して賢く振る舞いなさい。」と、コロサイの信徒たちに語っています。「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と語りかけたヤコブは、その喜びの源に「信仰」があることを強調します。イエスが教えられたように、「信じる者にはすべてのことが可能となる」ことを彼は疑いません。なぜなら、知恵は主が与えて下さると知っているからです。どの様に生きるか、あれかこれかの選択に迷うとき、主に向かって生きることを最良とする、その判断を良しとして下さるお方への信頼が、苦難を乗り越え、克服する力となるからなのです。
「今までは、あなた方はわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる。」とイエスが教えられた、その知恵を働かせなさいとヤコブは語るのです。信じて願い求めることが出来る、わたしたちは今、そういう恵みの中に生かされているのです。
5月9日  「発端・サタンの疑い」
サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
ヨブ記 1章9節
「苦しんだことのない人々というものが、どんなに我慢のならないものかは、人生があらゆる仕方で教えてくれる。挫折と悲哀こそ、人間がその兄弟たちと共感し、交わるためのパスポートである。」(ゴルディス)
わたしたちは、十字架の上に苦しみ、死に、そして復活されたイエス・キリストを信じる信仰によって、人間としての悲しみと苦悩の中で、互いに分かち合える真実に目を開かれ、新しく生かされる望みにつながれています。その望みの中で、ヨブの苦難を通して「信」の在り方を学んでみたいと思います。
発端。ヨブの苦難は彼の過ちや罪、失敗から始まったのではありませんでした。ヨブの信仰深さ、神に対する敬虔な生活態度に対してサタンが疑いを持ったからなのです。その疑いは、ヨブの「信」の本質を鋭くえぐり出し、明らかにしようとします。ヨブは恵まれ、幸せであるからこそ神を信じるのだ、もし、彼が恵まれず、不幸であるならば神を敬い畏れたりはしないだろう、とサタンは言うのです。サタンの疑いのもう一つの側面は、もしヨブが神を敬い畏れる人間でなかったなら、果たして神はこの幸せを彼に恵んだであろうかということでありました。サタンはヨブと神の両方に疑問を発するのです。「お前たちはきれい事を言って、お互いにもたれ掛かっているではないか。もし、その状況をこわしたら、どうだろうか。お互いの信頼も幸せもどこかへ吹っ飛んで、むなしくなってしまうことだろうよ。」
ヨブの苦難はこのような恐ろしいサタンの疑いから始まったのです。
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5月10日  「神の御心の深さ」
あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか。
ヨブ記 11章7節
ヨブ記はその序章において、与えられた苦難の過酷さにもかかわらず、信仰深いヨブの姿を物語っています。けれども、主人公ヨブは、彼の信仰において自分の受けつつある苦難について答えを見い出していた訳ではありません。なぜなら、ヨブは自分の正しさを疑うことは出来なかったからです。もし悪しき者、罪ある者を神が罰するのであるならば、正しい者が苦しめられ、滅ぼされるわけがない、神はなぜわたしをこのように苦しめられるのか。ヨブは神に対して、信頼するからこそ、疑わざるを得なくなって行きます。そして、信じることが深ければ深いほど、苦悩も深くなるのです。神はわたしを罪ある者とされている。この思いはヨブを絶望の淵へと突き落とすのです。けれども、この苦悩の背後には、「神は罪ある者を顧みたもうのか」というサタンの問いが潜んでいることを読者は悟らねばなりません。
自分の正しさをあくまでも主張するヨブに対して、ナアマ人ツォファルは「あなたは神を究めることができるか」と問います。しかし、サタンでさえ測り知ることの出来ない神の御心の深さをヨブがどうして理解し得ましょうか。問われれば問われるほどヨブは自分の正しさを神に訴えざるを得ません。そして、答えの得られないことにいらだちながら、どこかで、望みが絶たれるのではないかと心は不安に揺らぐのです。他方、わたしたちは今、主イエス・キリストの苦難において罪人をも顧みて下さる神の愛に生かされている者です。罪ある者をご自身の痛みにおいて救って下さる神の御心の深みへと、ヨブはどの様にして近づいて行くのでありましょうか。
5月11日  「信に頼る人」
そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。
ヨブ記 13章15節
文語訳では「彼われを殺すとも、われは彼により頼まん」となっています。この言葉はヨブの信仰の深さを語る言葉として、過去多くの殉教者がこの言葉を口に唱えながら死んで行ったと言われています。しかし今日では、それは誤訳だとされています。口語訳の「わたしは絶望だ」は、逆にヨブの信仰がどこかへ消えて行ってしまったような印象を受けます。新共同訳の「だが、ただ待ってはいられない」も、ヨブの信仰を語るものとは受け取れません。ヨブが神の前で守り抜こうとしているのは何なのだろうか、そのことを考えるのに、リビングバイブル訳は良い示唆を与えてくれます。 「こうなったら命を賭けても良い。思っていることを洗いざらいしゃべろう。そのために神様に殺されるならそれでも良い。たとい殺されてもやめるものか。わしが信者なので、神様の前から即刻立ち退きを命ぜられないことが、せめてもの頼みの綱だ。」
ヨブは友人たちに理解と同情を期待していたと思われます。しかし、彼らから与えられたのはヨブの断罪と、仰々しい教訓ばかりでありました。ヨブは友人たちの言葉のあまりの虚しさに怒りを感じます。そして、神と直接議論を交わそうと思い始めます。勝ち目はないかも知れません。けれども、ヨブは自分と神との関わりの正しさを主張せずにはおれないのです。神を信じておればこそ、ヨブは神に訴えることが出来ると信じています。だから「殺されても」と思い詰めるのです。彼は神に頼るよりも、自分の「信」に頼っています。彼が神に頼るのはまだまだ先の話なのです。
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5月12日  「わたしは知る」
わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。
ヨブ記 19章25節
友人たちとヨブの間に論争が再開されて行きます。友人たちがヨブを何とか説得しようと試みますが、ヨブは頑なに、自分の論争の相手は君たちではない、神なのだと言い張ります。そして、わたしを責めるのは君たちではなく、神なのだと言います。わたしの問いに答えず、わたしを親族、友人たちの間で全く孤立させるのは神なのだ、だから、君たちはわたしを責めないで、むしろ憐れんで欲しいと言うのです。ヨブは筆舌に尽くしがたいその苦しみを、鉄の筆と鉛とで岩に刻みつけたいとまで思うのです。ヨブが苦しみの中で問うていることは、彼だけの特別なことがらであったり、その時だけのことではなく、時代を超えて人間すべてに共通する苦しみであるからなのです。ですから、この苦しみは時の流れの中で消し去られてはならないのです。おそらく、ヨブの胸中にある思いはそういうものであったに違いありません。しかし、そのヨブも、かろうじて生きている自分の厳しい現実を見つめて行く中で、徐々に、自分だけの「信」で神の前に立つことは出来ないのだということを知るようになって行きます。そして、この苦しみの中で自分を生かし支えてくれる者への願いが生まれてくるのです。今、彼は難儀の底に着いて神の光の輝きを見始めたのかも知れません。「わたしを贖う方は生きておられる」、ヨブは自分を生かす者は神であって、決して自分の「信」ではないことを悟るようになります。これが、ヨブが「わたしは知っている」と言っていることなのでした。ヨブは神に頼ることを知り始めたのです。 「頼むかたなき人こそ幸あらめ、ただ神をのみ頼みくらせば」 (奥野昌綱)
5月13日  「神と和らげ」
神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。
ヨブ記 22章21節
ヨブと友人たちの間で三度目の論争が始まります。そして、両者の間の考え方の決定的な違いが明らかになるにつれて、初めは激しい口調で神に訴えていたヨブが、ようやく落ち着きを取り戻してくるのに反して、友人たちはヨブに対する反感を強め、かえって激しく責めたてるようになりました。エリファズは言います。「ヨブが正しいからと言って、それが神の何の益となるのだろうか。正しいから神に責められるのではない。お前自身の悪がその苦しみを招いているのだ」と。そして、お前の罪はこうこうではないかと一方的に罪を数えあげるのです。議論は蒸し返され、ヨブにその罪を認めさせることのみに言葉が費やされます。しかし、ここで注目しなければならないのは、もしヨブが悔い改めて神と和解するなら、彼は平安を取り戻し、そして、彼のみならず罪人全体のために執り成して人々を救うことさえ出来るようになる、とエリファズが言っていることです。エリファズの言葉はなかなかの説得力を持って迫ってきます。しかし、どの様に敬虔を装っていてもエリファズの背後にサタンの影が射していることを見逃してはなりません。荒野でイエスを試み、誘惑したように、甘い言葉でささやくサタンがいるのです。「神と和解しなさい。そうすれば幸せになる。」それだけではありません。「清くない者すらあなたの手の潔白によって救われる。」とまでそそのかすのです。お前は、自分の心がけ次第で人を救うことさえ出来るようになるんだぞ、と。サタンはいよいよ奥の手を出し始めて来ました。脅してもダメなら、すかしてやろうと言うわけです。
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5月14日  「夜の歌」
しかし、だれも言わない、「どこにいますのか、わたしの造り主なる神、夜、歌を与える方、地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は」と。
ヨブ記 35章10〜11節
ヨブを激しく責めたてていた三人の友人たちがとうとう言葉尽きて沈黙してしまったとき、ヨブを説得出来なかった友人たちの不甲斐なさに怒りを覚え、どこまでも自分の正しさを主張してやまないヨブの頑なな心に業を煮やしたラム族のバラクエルの子エリフがここに登場してきます。これまでエリフは辛抱してヨブと友人たちの間の論争を聞いてきました。岡目八目とでも言うのでしょうか、エリフには双方の言い分の中の誤りがよくわかります。何とかそれを訂正させたい、そして自分の言い分も述べてみたいと、若い情熱をたぎらせます。エリフが言いたいことは、苦難は単に罪の報いとして与えられているのではない、正しい人にも苦難が訪れることだってある、けれども、これは懲らしめであり、彼らが罪に落ち込まないための警告でもあるのだ、苦難は自分の生き方の教訓として受けとめ理解すべきことなのだ、ということでありました。エリフは、神は苦しみによって苦しむ者を救い、逆境によって耳を開いて下さると言います。それなのに、苦しいときにかえって神に対して耳をふさぎ、神が明るい昼に楽しみを与えるだけでなく、暗い夜でさえ歌を与えて下さることを知らないのは何故かと問うのです。神は人生の暗夜においてさえ、嘆きに代えて歌を与えて下さるではないかと言うのです。エリフの雄弁は続きます。そしてヨブは沈黙します。彼はもはやエリフに答えようとはしません。ヨブの心から論じ合う気持ちは失せて行きます。しかし、その沈黙の中でヨブは神の語りかけに耳を傾けるようになるのです。
5月15日  「嵐の中から」
主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。」
ヨブ記 38章1〜2節
ヨブが神の声を聞く時がついに訪れました。しかし、それはヨブ自身が考え、期待していたものとは大いに異なっていました。神は嵐の中からヨブに呼びかけます。嵐の中から神の声が聞こえてくるのです。今、神の声を聞く者は嵐の中に立たされています。旋風の真ん中で、激しい風に巻かれながら神の声を聞くのです。平安と幸せな思いの中で甘美な神の声を聞くことは許されていません。苦しみの中で、痛みに耐えながら、存在の危機に立たされつつ、はじめて神の語りかけを本当に聞くことが出来るのです。そして、ヨブはまさにそのような危機において確かに神の語りかけを聞いたのでした。神はヨブに答えたのではありません。ヨブに問いかけたのです。神に問われなければならない人間の姿がそこにありました。「あなたはどこにいるか。」 罪を犯した者が見失ったものを神は問われるのです。神に問われなければ取り戻すことの出来ない自己の存在というものがあります。わたしたちの罪、原罪とはそういうものなのです。ヨブが見失っていたものが神の問いかけによって明らかにされていきます。神は世界の創造者です。わたしたちは神の創造の業の中にいるのです。神が創造し、支配なさっている世界に生きているのです。否、生かされているのです。神に生かされているものだということをヨブの信仰も、彼の敬虔も、そのことを知っていませんでした。けれども、今ヨブは自分の苦しみの現実においてそれを知るのです。そのような苦しみの嵐の中においてさえ、わたしは神に生かされているのだと。
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5月16日  「懺悔するヨブ」
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
ヨブ記 42章5〜6節
ヨブは神の厳しい問いかけを聞きました。そして今、問われてみてはじめてわかったことがあります。神は全能者であるということ、神はどんなことも出来るお方であるということ、その神のみ心の中にヨブは生かされているということがわかってきたのです。彼を苦しめたすべてのことが、みんな神の支配の中にあるのであれば、また、ヨブのために恵みもそこに備えられている、神は苦しみだけでなく恵みへも召して下さるお方だということを、ヨブは確かに知ることが出来たのでした。そして、今までは自分の知っていることが一番確かだと思っていたが、本当は全く見当はずれのことをしていたのだった、わたしは神を知っていると思っていたが、本当は何も知ってはいなかったのだ、自分は何も知ってはいないということを知った、とヨブはそのことを本当に理解したのでした。彼は苦難のどん底で神に生かされている事実を確認すると共に、自分を生かす神の力を体験し、その確かさを知ったのです。それが、彼が神を見たということに他なりません。この体験がヨブの生き方に根本的な転換をもたらします。彼はもはや神に向かって問うことをしません。そして自分自身に向かっても、何かを教えたり、評価したり、語りかけたりする事を断念するのです。そして自分の立場に固執しないでひたすら神に聞くようになります。それがヨブの悔い改めです。ヨブは受けた苦難の理由を知ることは出来ませんでしたが、しかし、それ故に自分を知り、神を知って新しい生き方を得たのです。サタンはもはや姿を現しません。
5月17日  「わたしのもとに来なさい」
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
マタイによる福音書 11章28〜30節
イエスの言葉は暗夜に光を見い出したような安堵の思いと希望をもたらします。この言葉に、苦しみの中で悶え悩んでいる多くの魂がどれほど勇気づけられ、励まされて来たことでしょう。かってある若い牧師が「教会はお寺参りするような所ではない。」と、いささか気負って年輩の信徒たちに語っていた言葉を耳にしたことがありました。聖日礼拝を厳守することを強調しながら、しかし、ただ礼拝を守ればそれでよいということではないと、あたかも礼拝に参加するだけでは足りないと言わんばかりの口調でした。教会が活動的であろうとすれば、ついこういうことも言いたくなるのだろうと思いながらも、わたし自身は何故か不愉快な感じを味わっていました。礼拝に参加し、神の前に戻ってくることが出来た喜びと、そして、キリストによって与えられる罪の赦しと平安に与ることなしに、どの様なキリスト者としての生活が生まれてくると言うのでしょうか。たとえキリスト者らしいことが何もできないでも、日曜日ごとに教会へ来て礼拝に参加し、心に安らぎを与えられ、力づけられるならば、それでも十分ではないのでしょうか。恵みに生かされる、その基点を見失ってはなりません。み言葉によって活力を与えられ、再び自分の生活の場、働きの場へ戻ることが出来る、その確かさをイエスの言葉はわたしたちに与えてくれるのです。
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5月18日  「天国で一番偉い者」
そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
マタイによる福音書 18章1〜4節
弟子たちの間で、ペトロがトップの座を占めていることはやむを得ないとしても、天国では、果たして誰がトップの座を占めるのだろうか、そのような問いが生まれていました。彼らの期待がそろそろこの地上から天に移されはじめていたのかも知れません。それとも、天の威光を地上に映し出そうということであったのでしょうか。ここでの問題は、彼らの地上的価値判断が天にまで拡張されていたということだろうと思います。ともあれ、クリュソストモスの言葉によれば、「わたしたちは、『天国で誰が一番偉いか』などと問うことすらしない。わたしたちが問うことはせいぜい『この世で誰が一番偉いか』ということぐらいのものである」。その点では、わたしたちはまだ、弟子たちの過ちにすら及んでいないと言えましょう。ですから天国に関心を寄せるということは大事なことだと思います。しかし、自分たちは天国に入れるのは自明のことだと思いこんでいる弟子たちに、イエスがその天国に入れる条件を示されたことに留意しなければなりません。「心を入れ替えて子供のようになる」のでなければ天国に入れないのです。そこではじめて天国で一番偉いと言われるのは何かがわかってくるのです。天国に入れない者が天国での偉さを量っても益無いことでしょう。
5月19日  「キリスト者の幸せを妨げるもの」
人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。(新共同訳)
なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。 (新改訳)
ヤコブの手紙 4章17節
わたしたち家族の幸せな生活を望むならキリスト者として留意しなければならないことは何でしょうか。それは何よりも自分たちの生活の基盤が何処にあるのかをしっかり弁えるということから始まります。ヤコブは目先の事にとらわれて儲ける事にばかり熱中する魂にむかって、「人はパンだけで生きるのではない」こと、むしろ、主のみ心に従って生きることに目を向けるよう諭しています。使徒パウロはローマの信徒への手紙で「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」と教えていますが、ヤコブは善を知っていながら行なわなければ罪になるのだと教えているのです。勿論、パウロも善を行なおうとするのに行なえず、かえって悪を行なう自分の罪の深さに苦悩する心を率直に披瀝するのですが、 しかし、キリストに結ばれて、その罪から解放される喜びを証しています。ですから、生活の基盤をキリストにおく生き方の中に本当の幸せがあるということをしっかり心得ておかなければなりません。救いの喜びが幸せの証しとなっていますように、わたしたちの生活の調和を乱し、不幸せをもたらすのは罪であるからなのです。
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5月20日  「神のミステリー」
それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。
コロサイの信徒への手紙 2章2〜3節
パウロは先に、「今やわたしは、あなた方のために苦しむことを喜びとし、」とコロサイの人々に書いていますが、ここでは、その「苦しむこと」が目指すところを具体的に語っています。それは先ず、彼らの心が励まされることでありました。パウロが励ますというのではありません。神の秘められた計画、神の奥義であるキリストに向き合うことによって慰められ、力づけられるということです。そして、愛によって彼らが互いに結びあわされることです。パウロは「愛はすべてを完成させる絆です。」と三章で書いていますが、口語訳では「愛はすべてを完全に結ぶ帯である。」となっています。この愛の連帯においてキリストを知る知識の富のすばらしさに目を開かれることが目指されているのです。パウロはキリストを知ることの絶大な価値ゆえに、一切のものを損と思うほどでありました。なぜなら、キリストによって新しく生かされることのすばらしさを知ったからです。そこに「神の秘められた計画」、つまり、神のミステリー、隠された真実があるのです。ですから、パウロはコロサイの人々、ラオデキヤの人々、まだ会っていない人々がキリストに生きることの確かさ、豊かさ、そのすばらしさを味わい知ることが出来るようにと、そのために働く労苦をいとわないと言っているのです。なぜなら、人間的結びつきでは得ることの出来ない心と心、魂と魂の生きた愛の交わりがキリストによって与えられると知っているからです。
5月21日  「仕える者になりなさい」
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
マタイによる福音書 23章11〜12節
イエスはいつもパリサイ人や律法学者たちの攻撃の矢面に立たされてきました。けれども、21章や22章におけるたとえの話でも、祭司長やパリサイ人たちを暗に批判しているように見えますが、なおそこにはイエスの寛容さというものが感じとられます。ところが、23章へ入るとイエスの言葉は一転して激しさを加え、痛烈に彼らを批判するようになります。あたかも、何かがイエスの心の中ではじけ飛んでしまったかのようです。この23章には単に言葉の激しさだけではなく、ある種の切迫した感情のようなものが感じとられます。物語はこのあとイエスの捕縛と審問、そして十字架へとつながって行きます。この最後の時、イエスはどうしてもこれだけは語っておかなければならないと思われたことがあったに違いありません。やがて神の審きの時が来る、それは避けることが出来ない。その時のために語っておかなければならないことがある、そう思われたに違いないのです。
パリサイ人たちを告発する言葉の激しさの陰に、イエスの悲しみがあるように思えます。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。」会堂では上席に着き、広場では挨拶されることを好む人々に「あなたたちは不幸だ。」と告げ、そして、やがて来る神の審きを迎える者の在るべき姿を、高ぶりを捨てたへりくだりの中に見い出すようにと教えられるのです。それは「わたしは仕えるために来た」とイエス自身が身をもって教えられたへりくだりに他なりません。
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5月22日  「耐え忍ぶ人」
試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。
ヤコブの手紙 1章12節
ヤコブが言うところの「耐え忍ぶ」という言葉には「その下にとどまる」という意味があります。重荷や心配や不安、苦しみの中で、そこに踏みとどまることが出来る人は幸いなのだと言うのは、その試練の中に共に立ち、生かして下さるお方を知っている、そのことが喜びをもたらすからではないでしょうか。ヤコブは続けて言います。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません」と。不思議なことにこの「誘惑」という言葉は「試練」と語源を同じくするのです。ここでは動詞形で、「誘惑する」という意味に使われているのだと聖書学者は説明します。この言葉には人間の外からふりかかってくる試練と言うよりも、内側に働きかけ心を動かす力を感じさせられます。エデンの園でアダムとイブに働きかけた蛇の誘いも、巧妙に彼らの心に向かってささやき、動かしています。人間の心の中へとささやきかけ、神ではなく、自分の心が欲することをさせようとする、その誘いが誘惑です。アダムとイブがそれぞれ責任を他に転嫁して、禁断の木の実を食べた罪を逃れようとしたように、わたしたちも何かの逃げ口上をいつも用意して、試練にも誘惑にもしっかりと立ち向かうことが出来ずにいるのではありませんか。しかし、耐え忍ぶのは外からの試練だけでなく、このような内からの誘惑に対してもしっかりと踏みとどまることを意味しているのです。そして、踏みとどまる者は幸いなのです。なぜなら、「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」
5月23日  「わたしは道である」
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
ヨハネによる福音書 14章6節
イエスの言葉の背景には弟子たちの不安な状況が拡がっていたように思えます。見通しのきかない暗い闇の中に佇んでいるような不安が彼らを包つんでいました。ペトロがイエスに尋ねます。「主よ、どこへ行かれるのですか。」 漠然とはしていたのですが、弟子たちはイエスが何処か遠いところへ去って行ってしまうのではないかという不安を持ち始めていたのでありました。不安とは「人間存在の根底にある虚無からくる危機的気分」だと辞典では説明されています。そんなに難しい事を言わなくても、先の見通しがつかなくなれば、どうしたらよいか言葉にならない不安がつきまとうようになるものです。わたしたちは絶えずそういう不安に悩まされています。弟子たちが持った不安も、もしイエスから離されてしまい、ついて行く事が出来なくなったらどうしたらよいかという、先の見通しのきかかない状況が生み出したものに他なりません。そういう人々に向けてイエスは語られるのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と。
わたしたちの心が不安を克服して安定するために必要なのは信頼であり、確かさを得る事です。イエスと心で結ばれる。そこに、闇の中を歩む足もとに確かさがもたらされるのです。イエスは言われました。「わたしは道である。」
その道を歩む。わたしたちはもはや不確かさの中で不安に脅かされることはありません。わたしたちの前を歩まれるイエスの後ろ姿をすでに視野に捉えているからです。
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5月24日  「すべては益となる」
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
ローマの信徒への手紙 8章28節
パウロは、「神を愛する者たち」とは、神の救いのプランの中へ呼び出されている者なのだと定義しています。「わたしが、一所懸命に神を愛している」と思っている者に、そうじゃない、神がプランを立てて召して下さったからそうなのだと、教えているのです。ペトロが「わたしを愛しているか」と繰り返し三回もイエスに問われて、「主よ、あなたがご存じです」と答えざるをえなかった、その答が思い起こされます。「神を愛する者たち」と言えば、何か自分の信仰の熱心さがそこで問われているような思いもしますが、本当は、「神を愛するようにされた者」なのです。パウロはそういう者として日常の経験となっている「知」について語っているのです。それは身についた知恵なのです。味わい知った知恵なのです。「万事が益となるように共に働く」事を知っているのです。口語訳では「神は」が主語となっています。原テキストの違いから来ているのですが、新共同訳にはそれがありません。すべての事が相互に働いて益となる、(口語訳では神が「共に働いて、万事を益となるようにして下さることを」となっています。)そういう事実を知っている、という事にポイントがおかれているのです。「神を愛する者たち」というのは、そのような生きた知恵を持っているのだという強調がされていると取るべきではないでしょうか。その知恵が「すべての事において、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。」と、神に愛されている確かさの素晴らしさ、偉大さを証しするのです。
5月25日  「待ちなさい」
そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
使徒言行録 1章4〜5節
イエス・キリストの復活から40日目が教会歴において「昇天日」とされています。宗教改革者のカルバンは、キリストが天に昇られたということによって「我々の罪のために閉ざされていた扉が、今や我々のために開かれていることを保証して下さった。」と説明しています。キリストが天に昇られたということは、キリストを信じるわたしたちもまたキリストと共に天に召されるという確かな保証をいただいたということに他なりません。望みを失って顔を伏せ、地上のことに心を奪われてしまうわたしたちを、神はキリストに結びあわせて天を仰ぐようにして下さった、ということなのです。そして、この時から地上のわたしたちはキリストの再臨への大きな期待の中に置かれるようになったのです。その確かなしるしが聖霊の降臨として現れたのでありました。「待ちなさい」という命令は以来キリスト者の日々を意義あるものに変え、希望をもって生きる喜びと確かさをもたらしたのです。スペイン語では「待つ」は「期待」と「希望」と同義語であるばかりではなく、「信じる」事でもあります。キリストの昇天によってわたしたちは確かに「信じる」次元へと移されたのだということを、「待ちなさい」とのみ言葉によって知らされたのです。希望とは積極的に待つ事であり、信じる事なのだと教えられるのです。そこから祈りが生まれるのではないでしょうか。扉が開かれているからこそ「期待」に心も膨らんでくるのですから。
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5月26日  「あなた方の内に働く神」
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
フィリピの信徒への手紙 2章12〜13節
パウロの手紙の中に示される彼の確信は、神が生きて働いておられるという事でありました。パウロにとって神は、遠いところでわたしたちの働きを観察し、評価してこれに応えてくださるというのではなく、常にわたしたちと共におられ、わたしたちの内にあって働いていてくださるお方でありました。ですから、パウロは自分がフィリピの人々と共にいてもいなくても、神とフィリピの人々との関係には少しも変化はない、同じように神は彼らの内にも働いておられるのだと確信していたのです。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」と、パウロがフィリピの人々に語りかけ、励ましたかったのは、この事実こそ本当に人を困難の中でも堅く信仰に立たせ、信仰に生きる喜びを確かなものとする根拠であったからです。頼るべきはパウロの存在ではなく、いつ、何処でも、最も身近に働いていてくださる神ご自身なのだと、神はあなたをその内側から動かしていてくださるのだと、だからしっかりと神に結び付いた生き方をしなさい、恐れる事はない、と励ましているのです。そして、この神の働きを見ることが出来るのは「従順」を通してなのだとパウロは考えているのです。「不従順」は内に働いて下さる神を、内より閉め出すことになってしまうからに他なりません。
5月27日  「キリストに結ばれて歩みなさい」
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。
コロサイの信徒への手紙 2章6〜7節
パウロは「主キリスト・イエスを受け入れたのですから」と言っています。キリストに結ばれるということは、彼を信じることが生きる根拠となるという生き方に他なりません。ですから、キリストに結ばれて歩むとはキリストに根ざすことへとつながってきます。「根を下ろす」とは土の中へ深く根を下ろすことで、養分をその深みから摂取するということだけでなく、建築の場合に深く基礎を打ち込むのと同じで、揺るがないということです。ボリビアのジャングルの中で見たことですが、密林の木々は高く梢をのばし、互いに枝を張り、支えあって生きています。けれども、そのために深く根を下ろすことを忘れているのか、根が浅いのです。開墾が進んで、周囲が切り開かれて風が通るようになると、様子がすっかり変わってきます。背伸びしている木々は少しの風にも耐えられなくなって倒れ易くなるのです。信仰の生活もそれと同じように、人間的な交わりや活動にのみ頼っていて、御言葉へ深く根ざすことを怠ると、小さなことによっても崩れやすくなるのではないでしょうか。イエスは、彼の言葉を聞いて行う者を岩の上に家を建てる賢い人に例えています。しっかりとした揺るがない土台の上に建てられた家は嵐にも耐えることが出来るからです。同じように、パウロはキリストに結ばれた生き方として、御言葉に深く根ざす生き方をコロサイの信徒たちに求めたのでありました。
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5月28日  「最後まで」
「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」
マタイによる福音書 24章12〜13節
世の終わりにはどんな前兆があるのか、それを知りたいのは弟子ばかりではありません。前もってそれを知ることが出来れば何らかの対応もできる、とわたしたちも考えるのです。けれども、誰にもその時を知る知恵はありません。イエスは言われます。自称キリストが現れる。戦争と戦争の噂も拡がるだろう。人間の心を不安にかき立てて、それに備えて何かをしたら救われるのだという幻想を抱かせるかも知れない。飢饉があったり、地震が起きたり、不安は一層増すだろう。けれども、まだそれは終わりの時ではないのだとイエスは教えます。人の心が冷えて、愛する心も損なわれるかも知れない。不法がはびこって生きる自信を失うようなことがあるかも知れない。けれども、それでも最後まで耐え忍ぶ者は救われるのだとイエスは告げるのです。「主よ。それは何時のことなのですか」と問いたくなります。けれども、終わりとはわたしたちにはわからない時のことなのです。ですから、神に審きを委ねる信仰があって、初めてこの不安な時を懸命に、一日一日を大切に生きることが出来るようになる、そこに最後まで耐え忍ぶ者の生き方というものが現れてくるのではないでしょうか。そして、わたしたちの時がたとえ不安に満ち、むなしさに閉ざされているようでも、そのような状況においてもなお神を信じて生きる者へ、神はまた最後まで耐え忍ぶ力を与えてくださるに違いないのです。
5月29日  「同行者」
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書 28章20節
マタイによる福音書は他のどんな言葉も比べようもない力強い励ましの言葉で終わっています。この言葉によってわたしたちは、繰り返し、苦難の中で力づけられ、乗り越えてくることが出来ました。もし、この言葉がなかったとしたら、きっと苦境に立たされたとき、神にも見放されたかと思い絶望して自滅の道を辿ったかも知れないのです。この励ましの言葉があればこそ、わたしたちは多くの挫折や失敗を繰り返しながらも、必ずキリストへと戻ってくることが出来たのでした。そして、またこれからも、自分の弱さにさいなまれながらも、それでも必ず帰り着くところを持っているという安心に支えられ、前進できるという希望に生きることが可能なのです。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」とのイエスの言葉は、決して一時の気休めの甘い言葉ではありません。彼のこの言葉は彼が命じられた使命と共にあるのです。イエス・キリストに押し出され、福音を伝え、信仰の証人となるとき、そこにわたしたちは共に歩みたもう主の姿を見出すことが出来るのです。
イエスに命じられて舟で向こう岸へ渡ろうとした弟子たちが、海の真中で逆風のために漕ぎ悩んでいたとき、夜明けの四時頃、暗い海上を歩いてこられるイエスを見て怖じ恐れました。しかし、その時に彼らは「しっかりするのだ、わたしだ。恐れることはない。」というイエスの声を聞いたのです。それは、わたしたちにとっても、主が命じられた道を歩むときに実現するであろう確かな出来事なのです。
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5月30日  「御言葉を聞く」
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
ヤコブの手紙 1章19節
シラの書5章11節には、「人の言葉には、速やかに耳を傾け、答えるときは、ゆっくり時間をかけよ。」とあります。また古代ギリシャの人ゼノンは、「わたしたちは二つの耳を持っているが、口はたった一つしかない。それはわたしたちがより多く聞き、より少なく語るためである。」と言っています。それは人間の生きる知恵、処世の知恵とも言うべきものでありましょう。リビングバイブル訳などもそのような取り方をして、「人の言葉には耳を傾け」と訳しています。けれども、ヤコブはここではそういう一般的な教訓的捉え方で語っているようには見えません。他の訳は殆どこの「人の言葉」という表現を取っていないのです。ツールナイゼンは、「ヤコブの手紙のこの言葉において教会の礼拝について語られる。」と言っていますから、礼拝において繰り返し新しくされる聞き手、神の御言葉の聞き手になって行く者の心構えとして語られていると理解して良いと思います。神の言葉は素直に、しっかりと、遅れないように聞き取っていかなければなりません。しかし、人間の側の反応はゆっくりで良いということではないでしょうか。語るのはゆっくりで良いのです。性急な証の実践や、妙な正義感を振りかざすことが福音の宣教だなどと思い違いしないようにしましょう。「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」とも言われています。心に蒔かれ、植え付けられた御言葉の種が芽を出し、育ってくるまでしばらくの時を必要とします。その時の経過の中に信仰の育ちがあることを忘れてはなりません。
5月31日  「キリストの昇天」
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
ヨハネによる福音書 14章27節
イエスは弟子たちに別れを告げます。しかし、彼が後に残すものは何でしょうか。この世の者にとって別れは常に悲しみを伴うものです。死から復活されたイエスでさえ見える姿から見えないものへと移って行かれます。弟子たちにとって十字架が悲しみと痛みの極みであったとしたならば、キリストの昇天はまた淋しさの極みとなるのでありましょうか。孤独が身を包む時、心は色彩を失い、灰色になります。そして不安が満ちて来ます。イエスとの別れはそんな虚無に彩られ、冷えびえとした荒涼たる世界をもたらすのでしょうか。イエスは言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」
復活のイエスが弟子たちに語りかけられた最初の言葉も「あなたがたに平和があるように」でありました。この世で平和は「無事」を意味します。しかしイエスが残される平和はそれとは違うと言われているのです。それは来るべき日への希望にともなうものなのです。イエスにとって別れは過去へ遠く過ぎて行く事ではありません。未来に場を移し、再び今となって帰って来る事に他ならないのです。イエスはわたしたちの後ろではなく前に立たれるために去って行かれます。再びわたしたちに来られるために。「天に昇り、全能の神の右に座したまえり」と告白する時、わたしたちは、わたしたちに来られるイエスに向き合うのです。そこにイエスが残される平和があります。ですから、もうわたしたちは騒がず、怯えもしません。