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日々の聖句

[10 月]

10月1日 「お言葉ですから」
そこでイエスは、そのうちの1そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
ルカによる福音書 5章3〜6節
朝早く、湖畔に立たれたイエスのまわりを多くの群衆が取り囲んでいました。彼らはイエスの言葉を聞くのに熱心でありました。時も所もわきまえず、ただイエスの近くにおればその言葉が聞ける、そういう熱心だけで集まる人々でありました。その熱心を信仰の高まりだと見るか、それとも人間のありふれた自己本位の熱心だと見るか、判断の分かれるところです。しかし、ここには別の人々、仕事に疲れ、むなしく終わった労働の後の気だるさの中で黙々と後かたづけをしていた漁夫たちがいました。彼らはたまたまイエスがおられた場所付近にいたに過ぎません。けれども幸いなことに彼らもそこでイエスの言葉を聞く機会を得たのでした。イエスの言葉は漁夫たちの失意を乗せた舟の中から群衆に向かって語られました。そして、その失意の人々が「沖へ漕ぎ出て網を打ちなさい」と命じられるのです。彼らは空しく終わった自分たちの漁を振り返ります。同じ事を繰り返しても無駄だと知っています。けれども、彼らは自分たちの経験に従うのではなく、イエスの言葉に従うように召されたのでした。「お言葉ですから」と従った、そこに、神の恵みの不思議が現出したのです。
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10月2日 「主に向かってほめ歌う」
詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
エフェソの信徒への手紙 5章19節
以前、アフリカのエチオピアは内戦による無秩序と干害による食料不足によって多くの人々が飢餓に苦しみました。一人の若い女性歌手が自分にも何かできるのではないかと思ってその地を訪れました。そして、圧倒的な飢餓の進行を前にして自分の無力を悟った彼女は、ひたすら歌うようになります。生きながら腐って行く皮膚病の子供たちに片言のアムハラ語の歌を懸命に聴かせるようになるのです。一人の著名な女性作家は彼女のことを「甘い。若い。」と批判しました。しかしこのことを伝える記者は、「たいていの日本人は一握りの米を与えるのが難民救済だと思った。けれども彼女は、相手の心に分け入ること、死に行く者の顔に微笑を誘い出すことが、はなむけだと思った。彼女が言い続けてきたのはこんな人間同士のコミュニケーションであった。」と書いています。困難な状況を前にして、為す術もなく立ちすくんでしまう無力さに打ちひしがれる時、それにもかかわらず相手の心に分け入って行こうとする思いが歌を歌わせ、真実に心を通わせるコミュニケーションを成り立たせるのではないでしょうか。見方によっては、そのように飢えている者に歌を歌って聞かせて、それで飢えが満たされようかと批判も出てきましょう。しかし、圧倒的な飢餓の現実の前に立ちながら、無力だと言って何もしなかったのではなく、パンに代えて歌で飢えた人々に迫って行ったこの若い歌手の姿の中に、エルサレム神殿の前で物乞いする男に、「金銀はわたしにはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言ったペトロの姿が重なってきます。
10月3日 「神の明日を信じよう」
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
マタイによる福音書 6章34節
「思い悩むな」とは「心配するな」ということです。生活のこと、体のこと、人との関わりのことなどなど、わたしたちには心配することが沢山あります。その心配に押しつぶされそうになっているわたしたちの間の合い言葉は「心配するな」です。互いにそう言い合って何とかこのつらい現実を乗りこえたいという思いがあります。けれども、わたしたちの言葉はかけ声だけに終わって、実際にはその思い悩みは尽きないのです。そのようなわたしたちにイエスは語りかけます。「明日のことまで思い悩むな」と。今日の悩み、今日の苦しみにはまだ何かの手がかりがあり、打つべき手だても考えられます。努力する手応えだってないわけではありません。しかし明日は遠い。待つことの出来ない心がよりいっそう不安を募らせます。それでは今日とどの様に取り組んでいったらよいのでしょうか。「天の父はあなた方に必要なことをご存じである」とイエスは言われます。明日をその天の父に委ねなければ、今日を確かに生きることは出来ないのです。そして、明日がなければ今日という日は存在しないのです。一日一日をしっかり生きる、その拠り所は神が備えていて下さる明日への希望なのです。明日を信じることの出来ない者にとって今日は、過ぎた過去の思い出を甦らすことしかできません。今日のこの苦しみに耐え抜く力は、明日を信じる望みの中から汲み出すしかないのです。明日は思い悩むものではなく、神が備えて下さる確かさへの招きなのです。だから「明日のことまで思い悩むな」とイエスは言うのです。
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10月4日 「霊による生き方を求めて」
御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。
ローマの信徒への手紙 1章3〜4節
人間としてのイエスを追い求め、学んでいても、彼が人間として生きた限界というものにどうしても行き当たってしまいます。それが十字架だとわかるとしても、イエスの生き方だけを学ぶ者は結局は十字架をゴールとし、復活を信じるところまでは行き着き得ないのです。けれども、イエスは十字架の死で終わる生き方だけを示されたのではありませんでした。死に打ち勝たれることを通してわたしたちに新しい命に生きる確かな望みを与えられたのでした。肉によれば肉のことしか見えません。死、十字架の死にいたる道は見えるでしょうが、死を越えた命の道までは見えないのです。聖なる霊によらなければ見えないものがあるのです。ですから、肉に生きる者であっても、神の御霊に導かれて生き得るならば、新しい命の望みを持つことが出来るのです。パウロは、「わたしたちは肉に従って生きる責任はない」と言っています。わたしたちが人間であることに固執して、かえって見失うこともある生き方やわたしたちのあるべき姿を、神の御霊の助けで取り戻したいものです。イエスの十字架を仰ぎ見る目に、復活のキリストの姿を見る目を加えられたいのです。パウロはコリントの信徒たちに「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と書いています。霊による生き方、在り方を身につけて、信仰から信仰へ至る道を歩み、「イエスは主である」と告白できる者でありたいのです。
10月5日 「旅立ち」
主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。
出エジプト記 4章19〜20節
モーセが神に召されたとき、彼は自分がそれにふさわしい能力を持つ者ではないと、繰り返し自分の無力を訴えて神の召しに逆らおうとしました。しかし、神は人間の目に不可能としか見えず、悲観的観測しかあり得ない状況でも、「否」を「然り」に変えることの出来るお方です。神は「わたしはある者」とその名をモーセに告げ、不確かさと不安の中にいるモーセを力づけます。その励ましのもとモーセはエジプトへ旅立ちます。杖一本を手にして。モーセの手にある一本の杖、それはありふれた羊飼いの杖に過ぎません。この杖で彼はエジプトの巨大な支配者ファラオに立ち向かうのです。まるで竜車に刃向かう蟐螂の斧のようなものです。けれども、それは神が共にいて働いて下さるしるしであり、神ご自身がその杖で働きたもうのです。人の知恵で量り知る事の出来ない力を発揮する神の杖でありました。モーセの旅立ちはその神の確かさに促され、支えられていたのです。モーセが杖一本に身を託して旅立ったように、わたしたちも「み言葉」にすべてを託して旅立ちましょう。詩編23編に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」とあります。「み言葉」の杖はわたしたちの道の光となり、足の灯火となり、慰めともなってわたしたちを支え、渇いた荒野に泉を開いて下さるに違いありません。神が共にいて下さるからです。
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10月6日 「天に国籍を持つ者」
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
フィリピの信徒への手紙 3章20節
「本国」とある言葉は口語訳では「国籍」と訳されています。ある注解書に「天に国籍をもつということは、今既に神の民であるということである。キリスト者は未来の幸福を夢見て生きるのではなく、今既に神のみ手の中にある者として、現実の試練を忍び、克服していくのである。」と書いてありました。
この地上の生活は寄留の生活であり、もともとわたしたちは本来の落ち着くべきところを持っている、そここそ天にある神のみもとなのだと知っていてこそ、この世の苦難にも耐えられるというものではありませんか。
現代はいわゆる国際社会で、海外に出て働き、生活する人々が多くなりました。けれども、何処へ行っても日本人はやはり日本人であり、またそのように見られます。海外に出て日本を振り返って見て、そこが慕わしい国でも愛する国でもなかったら、もし二度と戻りたくもない国であったら、何処に、どのように自分の国を見いだしたらよいのでしょうか。どの様に自分のアイデンティティを持てるのか、それは人間として生きて行く、存在の根幹に関わる大きな問題です。そして現代わたしたちが日本人として世界を旅するように、パウロはキリスト者であるわたしたちが天国の市民としてこの世にあることを教えています。国を失ったユダヤ人の厳しい体験の中で、本国を持つことの意味を、苦難の現実の中でキリストへの信仰において確かめることが出来たパウロの説得力ある言葉なのです。
10月7日 「荒野の食卓」
心の内に神を試み欲望のままに食べ物を得ようとし、神に対してつぶやいて言った。「荒れ野で食卓を整える事が神に出来るのだろうか。神が岩を打てば水がほとばしり出て川となり、溢れ流れるが、民にパンを与える事が出来るだろうか肉を用意する事が出来るだろうか。」
詩編 78編18〜20節
イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出し、紅海を越えてシナイの荒野へ進んで行ったとき、飢えと渇きに苦しむつらい旅に耐えきれず、エジプトの肉鍋を恋い慕ったと伝えられています。この詩編の作者は、荒野で岩を開き、渇いた舌に豊かな水を溢れさせて下さった神のみ業を想起しながら、しかし、それでもなお罪を重ね、神に逆らう人間の邪な心を詩に託して明らかにします。「この荒れ野で食卓を整える事が神に出来るのだろうか」と。飢えに苦しむ者たちが、荒野で神に何が出来るのだろうかと問うのです。水だけでは生きられない。何か食べるものが欲しい。パンがなければ人間は生きられないのだと。この問いは、遠い昔の人々だけではなく、現代のわたしたちの問いでもあります。誰がパンを与え、肉を用意してくれるのだ。どうしたら人間は生きられるのか、と問うているのです。人生の荒野にさまよい、砂漠のような渇いた人の世を嘆かずにはおれない人が、いつも繰り返し問う問いがここにあります。けれども、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、イエスがサタンの試みに打ち勝たれた言葉がわたしたちに備えられており、良き羊飼いである主はわたしたちに、そのような荒野にても豊かな食卓を整えて下さり、わたしたちの杯を溢れさせて下さる事を忘れてはなりません。
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10月8日  「わたしの助けは来る」
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
    わたしの助けはどこから来るのか。
 わたしの助けは来る
    天地を造られた主のもとから。
詩編 121編1〜2節
「わたしの助けはどこから来るのか」と、山に向かってこう問いかける詩人の心の中に、苦しみや悲しみが満ちています。その問いは、難しい、困難な問題に翻弄され、重く厚い壁に行く手を阻まれて、明日を望んで生きる勇気すら失われてしまいそうな、不安に満ちた魂の叫びにも似ています。けれども、はるか遠くの、まるで絶望の巨大な塊のように思える、山々に向かって叫ぶこの詩人の目には、その絶望の壁の彼方にある見えない者への望みが託されているのです。苦悩にさいなまれたうつろな目で見ているのではありません。世界の創造者であるお方への確かな信頼に溢れて、山々を仰ぐ目がここにあるのです。さまざまな不安が彼の脳裏をかすめます。けれども、それらの不安に打ち勝って、「わたしの助けは来る」と、彼は確信するのです。天と地を造られたお方のもとにその望みがあるからなのです。望みのない時にも望んで信じる事の出来るお方への確信が彼を支えています。どの様なときにも神は彼を見守っていて下さり、神の愛顧は決して変わることがない、そういう確信が彼を支えているのです。主はわたしを守って下さる。その思いが彼を支えています。たとえわたしが神を見失うようなことがあっても、神の視野からわたしが失せ去ることはない、あの山の彼方から、絶望の彼方から、神の助けは来るのだと詩人は歌うのです。
10月9日 「あなたの現状を考えよ」
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。(新改訳)
ハガイ書 1章5〜7節
ハガイは「現状をよく考えよ。」と言います。新共同訳では「自分の歩む道に心を留めよ。」と訳されています。これは、自分たちの現状をしっかりと見つめ、胸に手を当ててよく考えてみなさい、ということなのです。ここで言われている「現状」とは、自分のことばかり考えて神のことをないがしろにしている、しかも、していることはまるで笊で水を汲むようなことではないか、そんな無駄な生き方をしている自分たちの現状、神に心を向けていない現実をよく考えてみなさいと言っているのです。「考える」ということは、「考える、故に我あり。」と定義した哲学者がいますように、人間にとって自己の存在を確証する固有の機能です。考えることをしないで生きることが出来ないのが人間です。ハガイは、その機能を自分の為だけにではなく神に向かって生きる生き方として用いなさいと言っているのではないでしょうか。何をやっても実らない。どんなに豊かになっても満足というものには縁遠い。富を蓄えても決して本当の豊かさにならず、むしろ知らずして失われて行く恐れの中で決して平安ではない。そのような生き方の中にある自分の現状をしっかり見つめ、よく考えなさい。「神殿を、廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか。」心を正しく神へ向け、自分の現状を考えなさいとハガイは言うのです。
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10月10日 「愚かな者ではなく」
そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
ルカによる福音書 12章15節
福音書の中に、イエスが「愚か者」と呼ばれた人物が二人います。一人は「山上の教え」の締めくくりに出てきます。砂の上に自分の家を建てた人です。安易さに依存した人の生活は、砂の上に建てられた家のように嵐や洪水に耐えられない、まことにもろいものだと、そしてこのような人とは、イエスの言葉を聞いても、ただ聞くだけで行わない人のことだと教えられています。イエスの言葉に基礎づけられた生き方をしない人のことなのです。二人目が貪欲な金持ちと呼ばれている人のことです。彼は自分の生活の基礎を富とか豊かさにおいている人なのです。よく「貧すれば鈍す」などと言われ、貧しさが人間の心を鈍らせ、愚かにすると言われるのですが、貧しさだけが人間の心を持ち物、富や金銭に執着させるのではなく、富むこともまたかえって強く持ち物への執着を強めるものなのです。欲が欲をはらむのも富の味を知るからなのです。そして人の命が持ち物によらないということを知らず、物の豊かさの上にあぐらをかこうとする者をイエスは「愚か者」と呼ぶのです。ありあまるほどの物を持っていても、人の命の保証にはなりません。
「神の前に豊かになる」ことをイエスは教えられます。生きる真の喜びを汲み出す命の泉をみ言葉に見出す者に与えられる確かな拠り所がそこにあるからなのです。砂の上ではなく、岩の上に家を建てる人のように、イエスのみ言葉に自分の命の拠り所を見出す賢さを身につけたいものです。
10月11日 「賜物の分かち合い」
あなたがたにぜひ会いたいのは、霊≠フ賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
ローマの信徒への手紙 1章11〜12節
パウロは自分がローマへ行きたいと願っている理由をここで率直に述べています。霊≠フ賜物をいくらかでも分かち、力になりたいと思うからです。そしてもう一つの重要な理由は、共に「励まし合いたい」ということです。この言葉は「共に慰め合う」とも訳すことが出来る言葉です。パウロが福音を宣べ伝えるということを、具体的にはこのように理解していた事がわかります。何故なら、霊の賜物を分かち合わないところでは、神の救いの力も働かないからなのです。パウロにとって福音を宣べ伝えるということは、単に情報を伝えるということではなくて、福音に従って生きること、その生き方を具体的に伝えることでありました。そこに福音を受ける人々と共に励まし合う機会と場が与えられのです。そのことの実現のためにパウロはローマの人々に会いたいと熱望しているのです。
霊の賜物とは霊の恵みを意味しています。それはまた、困難な状況において与えられる神の救いを指し示している言葉でもあります。福音を伝えるということは、この恵みを分かち合うということに他なりません。それは、すべて信じる者にもたらされる救いの力なのです。そこでは、人間的な終わりが霊的な命の新しい始まりとなります。パウロがお互いの信仰によって励まし合いたいと願うのは、そのように一緒に、新しい命の始まりに立ちたいという思いに促されてのことでありました。
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10月12日 「失意の訪れの時に」
「わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません。」
主はモーセに言われた。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」
出エジプト記 5章23節〜6章1節
モーセが神の召しに従って行動を起こした時、最初の体験が挫折であり失望でありました。エジプトの王はモーセの求めに対して、「主とは一体何者なのか」と反発します。そしてモーセへの回答はイスラエルの民の労役の強化であり、民の苦しみは増します。人々はその負担の軽減を願いますが受け入れられません。そして、モーセへの非難が強まります。持って行き場のないモーセの悲しみは、彼を召した神へと転じて行くのです。「主よ、あなたが命じられたのではありませんか。あなたのせいです」モーセは神に訴えます。アダムとイヴが罪を互いに着せ合ったように、不幸に出会い、失意の訪れの時、人間はその責任を安易に他に転嫁するものです。神をのろい、神のせいにしてその苦しみから逃れようと思う人間の弱さ、身勝手さがここにも現れます。生まれながら目の見えない不幸な人を見ても、「これは誰の罪ですか」と弟子たちがイエスに問うたようにです。しかし、そのように訴える者に、神は言われます、「今や、あなたは、わたしがすることを見るであろう。」と。失意の時、神がどの様に、何をして下さるかを見ることが出来るという望みを持つ事が出来る者は幸いです。
10月13日 「忍耐は希望を抱く術」
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙 12章1〜2節
わたしたちは天に国籍を持つ者として、この世の苦悩と悲しみを越えて、豊かな慰めと励ましを受けるという特権を持っています。このヘブライ人への手紙11章には想像を絶する苦難の中を、なお信仰において生きぬいた姿が物語られています。しかもその人々の最後は決してハッピーエンドではありませんでした。そして、「ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったのでわたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。」と語られています。それは、わたしたちにおいて、わたしたちの信仰の歩みにおいて完成される筈の苦難について語られているのです。今のわたしたちの苦難は、過ぎた日々、苦難の中を歩み続けた人々の望みを受け継いでいるしるしなのです。そして、その人々の苦難に耐えて生きた姿が、イエスを目指し、イエスに於いて完成される信仰の真のゴールへ向かうわたしたちの励ましとなっているのです。ですから、ただ忍耐強く生きるのではありません。わたしたちの忍耐には、過ぎた日々信仰に生きた人々の希望がつながれていることを忘れてはなりません。であればこそ、忍耐は彼らと共に望みに生きる真の術となるのです。
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10月14日 「喜びが満ち溢れるために」
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目でみたもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。
ヨハネの手紙(一) 1章1節
この手紙には挨拶も宛名もありません。書いた本人の自己紹介すらありません。けれども冒頭の部分からヨハネによる福音書とよく似ていることなどから福音書記者ヨハネと同一人物ではないかと思われています。ヨハネがここで伝えようとしていることは、不確さの中にあって疑惑という壁で仕切られていたものが、人間の相に確かにされ、信仰によって具体的な命として生きて来るものに他なりません。ヨハネはここで自分の経験となったものを、つまり、人間の側の具体性となったものを証言しようとしています。「初めからあったもの」それはおそらく人間の目で見、手で触れることの出来ないものでしょう。それは現代宇宙物理学の最先端の学者の証言でも明らかです。しかしヨハネはその「初めからあるもの」が人間の体験の中に入って来た、それは命だったのだ、わたしたちはそれを経験したのだと、そしてそれはわたしたちの交わりの中にあると伝えるのです。「わたしたちが聞いたもの、目でみたもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。」と言うのはそのことです。ウエストコットはそのことを「最も抽象的なものから最も物質的なもの」への前進なのだと言っています。ヨハネは、こうして伝えるのはあなた方もわたしたちと同じように父なる神と、御子イエス・キリストとの交わりを持つようになるためだと言います。キリストに結ばれて、こうして生かされている命を生きる、わたしもあなたも同じように一つの命に結ばれて生きている。その喜びを分かち合いたい、とヨハネは言うのです。
10月15日 「味わってみなさい」
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
詩編 34編9節
イエスが復活されたと聞いた時、トマスはそれを信じることが出来ませんでした。彼はイエスの体の釘あとを自分の目で見、その釘あとに自分の指を差し入れて見なければ信じないと言いました。世間の常識から言えば、皆このように体験的な確証を求めるものです。トマスだけが特に疑り深かったわけではありません。そして、復活されたイエスがそのようなトマスにどんな反応を示されたか、大変興味深い事柄です。イエスはトマスの言葉を拒否いたしません。トマスの前に現れたイエスは自分の手の釘あとを示してトマスに確かめるように促します。イエスとの関係は、トマスが手で触れ、体で確かめようとするように、具体的なものであることをイエス自身は否定していません。ですから、「見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたイエスの言葉から、このように体験的に味わい得る恵みがあることを排除してはなりません。キリスト教は確かに御利益宗教ではありませんが、イエス・キリストによって与えられる恵みの豊かさは、甘味を求めて蝟集する蟻の如き御利益信仰の者たちには計り知る事が出来ないほどのものなのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」とあります。人生の谷間で行き詰まる時新しい道を見出し、魂の砂漠に渇き苦しむ時安らぎのオアシスを見出し、悲しみの雨雲に暗く覆われ冷たい涙に頬を濡らす時、さわやかな晴れ間に主は希望を見出す喜びを備えて下さるのです。主のもとに身を寄せる者はこの恵みの豊かさを味わい知る者なのです。だから、その幸せを味わってみなさい。
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10月16日 「愛を取り戻せ」
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
ペトロの手紙(一) 4章8節
ペトロの手紙は差し迫った終末の緊張感の中で書かれています。春ののどかな雰囲気の中の生き生きとした生命に溢れた新鮮さはありません。むしろ厳しい冬の季節を迎えようとする緊張感が漂っています。わたしたちが冬に備えていろいろな努力を払うように、人生の冬にも備えておかなければならない、そういう緊張感です。そこで何よりも必要であり、有効である事は「心をこめて愛し合う」という事に他なりません。「愛し合う」ということが本当に力を発揮し、共に生きる事を可能にし、支え合う力になるからです。愛する人を持つという事は心に焦点を持つという事だからです。その人は愛する人に心の焦点を結ぶ事によって生きている喜びと確かさを分かち合う事が出来るのです。ですからペトロは言うのです。人生の危機に臨んで何よりも必要であり大切な事は「心をこめて愛し合う」ことだと。
堀秀彦という老哲学者がこんな事を書いています。「誰をも愛せず、ただ、自分だけを愛し可愛がる生活、それは一切買い物をせず、買い物をする気にならず、ただ、僅かな預金額の記入された貯金通帳を、明け暮れ眺めているようなものかも知れない。『自ら足るを知る』のはいいことだと、昔の人、いや今だってそのように言う人がいるだろう。だが、凡庸なわたしたちがどうして誰をも愛しない「自足の世界」に心地よくひたっておれるか。自閉症は重たい心の病なのだ」と。
危機に臨んだ者に訪れる自閉的状況に打ち勝つためにもペトロは言うのです。もう先がないと望みを失う前に愛を取り戻せ、心をこめて互いに愛し合え、と。
10月17日 「主は知りたもう」
「わたしは、あなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。
ヨハネの黙示録 2章9節
人間の孤独の深みというのは、自分の思い、心の内も外も何も人に知られないという闇の中にあるのではないでしょうか。その闇は自分自身さえ見えなくしてしまいます。暗い牢獄の石壁に残された爪痕、光を求めてもがいた心の傷跡が残されているのです。隠されていた多くの悲惨が明るみに出された時、わたしたちはその痛ましい傷跡に触れて心がひどく痛むのです。しかし、わたしたちが必死になって逃れようとするその暗い不安な淵に射し込んでくる一条の光があるならば、それは単に希望だけではなく、自分自身を見いださせ、取り戻させるものとなります。以前、ロシア大統領が日本を訪れたとき、かってシベリアに抑留され、苦難の日々を過ごした人々に対しての謝罪を公にされました。長い間、隠されていたあのときの苦しみや絶望が、ようやく公に認められ、知られることによって、それだけでも、取り戻すことの出来る何かがあったと思う人も多くいたと報道は告げていました。スミルナの教会の人々、苦難の中にあって、知られない苦しみにあえいでいる人々に、復活の主はその苦難を知っていたもうと告げられています。かって、エジプトで苦難の日々を送っていたイスラエルの民の痛みを神は知っておられ、その苦悩の桎梏より解放して下さった事を思い起こします。神に知られている、主に知られているということは、この闇の現実の中で、なおその御手の支えの中にある自分を見いださせてくれる希望の光なのです。それ故、わたしたちは苦難の中にあって、なお恵みに豊かとされているのです。
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10月18日 「神を喜び、誇る」
敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
ローマの信徒への手紙 5章10〜11節
「神を誇りとする」などということがこの頃のわたしたちに本当にあるのでしょうか。口語訳では「神を喜ぶ」となっています。言葉ではいろいろな表現が可能ですが、「喜ぶ」のと「誇る」のではだいぶニュアンスが違うと言わなくてはなりません。豊かな生活に慣れてきているわたしたちは、何故かこの頃、救われた喜びを言い表すということが少なくなっているのではないでしょうか。あるいは、自分だけが救われた者というような特別な意識を持つことは、そうでない人々を差別することになると批判されるのではないかと、妙に勘ぐったりして、その喜びを人に伝える事が出来なくなってしまったのかも知れません。ですから、「神を誇る」などと言うことはもっと難しい事になってしまっているのでしょう。けれども、わたしが敵であった時でさえキリストによって和解させて下さった神を「喜び」「誇とする」思いや感情を抑圧してしまう信仰など、果たして本当に「信仰」と言えるのでしょうか。本当に神に出会い、イエス・キリストに出会って救いの恵みに与っているならば、その喜びや誇りが生まれてこない筈もないと思うし、また、その喜びや誇りを外に出す事が出来ない筈もないと思うのです。わたしたちもパウロに倣ってもっとはっきりとこの喜びと誇りを言い表して良い筈ではないでしょうか。
10月19日 「神の杖」
主はモーセとアロンに言われた。「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる。」 モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。
出エジプト記 7章8〜10節
不信の壁を突破することは決して容易なことではありません。イスラエルの民をエジプト王の桎梏のもとから解放しようとするモーセの試みは、先ずその第一歩からこの壁に突き当たらざるを得ませんでした。ファラオの頑迷さ、そしてイスラエルの民自身の不安と恐れがもたらす不信、その壁は並々ならぬものがありました。そして、この壁の前に立たされることは、同時に、神への信頼を揺るがせられる重大事でもあったのです。けれども、人間のそのような頑迷さや不信に対して神はご自身の行動を通して「神の然り」を証されるのです。人間の不確かさに対して神の確かさの優位を示されるのです。人間の不信の壁を突き破るのはこの神の確かさ以外の何ものでもなかったのです。 「ファラオが証拠を示せと言うなら、あなたはアロンに杖を投げろと言いなさい」。 モーセはその言葉の前で、自分自身の頑迷さ、自分の不信が打ち砕かれたときのことを思い起こさせられるのです。あらゆる不思議の秘密はすべて神のみ手の内にあるのです。頑なな心を打ち破る確かな一撃をモーセ自身も味わってきました。今はモーセ自身の神への信頼が新しい不思議を生み出すのです。信じる者には何でも出来る。その不思議を神の杖が生み出すことを彼は知ったのでした。
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10月20日 「心の目を開いて」
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
エフェソの信徒への手紙 1章17〜19節
「世の中には知らないでいた方が良いことがあるんだよ」と、あるテレビドラマの中で母親が娘に語る場面がありました。確かに、なまじ本当のことを知ってしまったが故に、心に平静を失い、事を荒立てずには済まなくなってしまい、欲しなかった破局を招くことも、世の中には多くあることです。弱い立場に立つ者にとっては、「見ざる、聞かざる、言わざる」も、懸命に生きて行くための大切な知恵であるに違いありません。けれども、わたしたちが信仰において強く生きて行くために必要な事は、「知らずに済ます」のではなく「本当に知る」ものでなくてはならないのではないでしょうか。パウロは祈ります。心の目が開かれて、わたしたちがどの様な恵みに招かれているのかを悟るようにと。うわべのことではなく、心の目に映して見えるものは何なのか、そのことを悟って欲しいとパウロは願うのです。神を信じる者たちに対して働かれる神の働きがどんなにすばらしく大きいかを、知って欲しいと願うのです。そして、わたしたちの内に働く神の力の素晴らしさを知るとき、神はまたわたしたちの弱さ、苦悩、痛みを知っていて、助けて下さるのだと悟ることが出来るのです。
10月21日 「神には闇は全くない」
わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。
ヨハネの手紙(一) 1章5節
ヨハネは、イエスから聞いていることは「神は光だ」ということと、「神には全く闇というものがない」ということだと伝えています。これは別々のことを言っているようであり、また同じことを言っているようでもあります。わたしたちは「神は光だ」という言葉の方により多くの魅力と関心を示します。光のあるところに闇はないと。けれども、現実世界ではあってはならないところに不平等があり、人権が冒され、不幸がはびこっています。そのことをいくら数えあげ、指摘し、弾劾しても、依然としてこの世の暗部は解消しません。光が闇に飲み込まれている事実は厳然として存在するのです。光さえも飲み尽くす闇(ブラックホール)があるのが現実です。そこでは宇宙天文学の知恵ではなく、むしろその闇はわたしたち人間の罪の現実なのだと知る知恵が必要になります。光とは放射であり、与えることであり、愛でもありますが、闇は吸収であり、自己中心であり、貪欲でもあります。闇の中に死があり、光の中に生があります。神がキリストにおいてわたしたちを招いて下さっているのは光の中へであって、闇の中へではありません。喜びや希望、命へと招かれているのです。ですから、神との交わりの中にあるということは光の中に、命の中に生かされていることになります。「神には闇がまったくない」とヨハネは言います。それは、罪の闇がもたらす死に打ち勝たれたキリストの勝利を飾る言葉でもあり、闇に飲み込まれる恐怖の前に立っているわたしたちに対する力強いメッセージなのです。
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10月22日 「働きかける神」
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
フィリピの信徒への手紙 2章12〜13節
パウロは「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」と勧めていますが、しかし、その願いを起こさせ、達成させるのは神なのだと教えているのです。救われたい、恵みを受けたい、幸せになりたい、そういう願いは人間の自然の求めであり願望であるとわたしたちは考えますけれども、またそれ故に、その願望を強くし、推し進めて行く力を人間は自ら強めて行かなければならない、とわたしたちは考えるのです。パウロは、そのような願望をわたしたちに起こさせるのは、実は神なのだと言うのです。神がわたしたちの内に働きかけて下さるからこそわたしたちの内に向上心も生まれ、努力しようという意欲も生まれてくるのだと言うのです。もしそうであるならば、わたしたちが自分の無力さに打ちひしがれて、望みを失うようなことがあっても、内に働きかけて下さる力に頼って新しく立ち上がることも、また、むなしさに打ち勝って努力を続けることも可能になるのではないでしょうか。わたしたちの弱さも、働きかけて下さる神の絶大な力に覆われて、新しい活力を見出すことが出来るのです。神に信頼し、望みを持つ者は神の働きかけに応える者となるのです。
「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」これは預言者第二イザヤの言葉です。
10月23日 「神の愛と真実」
主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は荒れ野で恵みを受ける、イスラエルが安住の地に向かうときに。遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。
エレミヤ書 31章2〜3節
旧約聖書の中では、神は愛の神としてよりも義と審判の神として語られる事が多く、愛の神は新約聖書において、イエス・キリストにおいて具体性を持って現れてきた、と一般的には考えられています。神学者カール・バルトはこの事について、「自由な神のみ業の実現の秘義があまりにも直接的、印象的だったので、現実の分析である愛という言い方で表現する必要が、まだなかったものと理解すべきである。」と言っています。しかし、預言者の言葉を辿っていきますと、彼らの理解の中で、神の愛は幾つかの特徴的な形を取って現れてきていることを見過ごすわけには参りません。神の愛は、神とイスラエルの民との間の亀裂に面して現れてきているのです。エレミヤが「主はこう言われる」と伝える言葉は、神の愛が単に心情的なものとして語られているのではなく、それは神とイスラエルの民との間の絆を堅く保つ力であり、真実・誠実という確かさの保証でもあるということでありました。神はその遠さを神ご自身の真実において乗り超えて、近いものとして下さるのです。「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」と、はるかな遠さにおられるかと思われた神が、その遠くから現れ、遠い神を近くに感じとらせて下さるのです。今エレミヤは、イスラエルの民の悲劇のまっただ中において、変わることのない神の愛と真実が民を支えて下さるのだということを、強く認識させられているのです。
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10月24日 「わたしは祈る」
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。(新共同訳)
こういうわけで、わたしはひざをかがめて、天上にあり地上にあって「父」と呼ばれているあらゆるものの源なる父に祈る。(口語訳)
エフェソの信徒への手紙 3章14〜15節
新約聖書の中には日本語の「祈る」に相当する言葉が幾つかあります。その中には「泣く、叫ぶ」という意味の言葉もあります。それは「祈り」があることの実現に寄せられている切実な期待であり、願望でもあるからでしょう。パウロがここで「ひざまずいて」とか、「ひざをかがめて」祈ると言っていますのも、彼の期待や求め、訴えの切実さの現れであると言えましょう。スペインには「泣かない子は乳が飲めない」ということわざがあります。自分の必要を懸命に訴え、求める切実さがなければ、人間は生きて行けないのだという事を示しています。ですから、わたしたちも自分のために神の助けが必要なとき、激しく泣いて求めましょう。「祈りは神との対話である」とも言われます。しかし、それはいつまでもマイホーム的な父と子の対話であることを意味してはおりません。求めの切実さを欠いた祈りは気の抜けたソーダ水のようなものです。そして、祈りは自分のことだけでなく、愛する者のためにもあることを忘れないようにしましょう。イエスは敵のためにまで祈れと教えられました。自分のために神に助けを祈り求める切実さが、愛する者のために、そして、他者のために神の助けを求めさせるのです。わたしたちは互いに祈りの助けが必要なのです。イエスが「互いに愛し合いなさい」と教えられた意味もそこにあるのではないでしょうか。
10月25日 「あなたは知らなかった」
わたしの僕ヤコブのために、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった。わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたがあなたは知らなかった。
イザヤ書 45章4〜5節
紀元前587年、バビロンによってエルサレムは陥落、イスラエルの民はバビロンに捕囚の身となりました。約60年、苦難の歳月は過ぎて行きます。その末期、新興国ペルシャの王キュロスは虎視耽々とバビロン攻略の機を狙っていました。このキュロスによってイスラエルは解放され、故郷に戻る事が出来るようになるのです。人々はそのことを「第二の出エジプト」と呼びます。そのころ第二イザヤと呼ばれる無名の預言者が、ペルシャの王キュロスを興したのは神がイスラエルを救うためだと、神のみ業の不思議とその力を語っていました。時代が大きく転換しようとしている時、その歴史を動かしているのは神であるということを、その時代の立役者たちは何も知らないのです。「わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが、あなたは知らなかった」と、また「わたしはあなたに力を与えたがあなたは知らなかった」と預言者は神の言葉を告げます。すべての栄光は皆自らの力によってかち得たのだと何も知らずに誇る人間のおごり、すべてむなしいことではありませんか。わたしたちは今時代の大きな転換期に直面しています。この「時」を動かしているのは創造者である神なのだと知る、そこに腐敗と堕落の罪の現実より救いへとわたしたちを導いて下さる神の恵みのある事を教えられるのです。「知らない者」を動かし、世界が知るようになる神の真実と恵みの確かさを変動の歴史から学び取るのは一体誰でありましょうか。
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10月26日 「過越し」
また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答なさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。
出エジプト記 12章26〜27節
イスラエルの人々にとって忘れることの出来ない、また忘れてはならない歴史的な出来事がありました。奴隷的な被支配の地であったエジプトからモーセによって導かれ、脱出、解放された出エジプトの出来事、そのとき、この出来事を民族全体の救いと神の勝利として特徴づけたのが「過越し」でありました。頑なな王の心の厚い壁を最終的に打ち破る、いわば、決め手ととも言うべき手段を神は遂に執られたのでありました。エジプトの国中の初子がその夜神の手によって召されます。愛する者の死によって家々に悲しみが満ちて行きます。しかし、王の頑迷さがこのような悲しみをもたらしたなどとは誰も知りません。ただ悲しみと嘆きだけがエジプト全土を支配します。けれども、子羊の血が鴨居と入り口の二本の柱に塗られた家はこの悲しみから逃れることが出来ました。イスラエルの人々の家々でありました。禍はイスラエルの人々の家々を過ぎ越して行ったのです。そして王は彼らの出国を認めるに至ります。それから、イスラエルの人々は救いの出来事を忘れられないこととして祝うようになります。神がわたしたちに何をして下さったか、ということを忘れないためです。人間は時の経過とともに過去を忘れて行きます。けれども、子供が「この儀式にはどういう意味があるのですか」と問う度に、繰り返し答える救いの事実があったのです。
10月27日 「福音に生かされる者」
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
コリントの信徒への手紙(一) 15章1〜2節
ラテンアメリカでは一般に「プロテスタント」という呼称は用いられていません。もちろん、日本で言うような「新教」という呼び方もありません。「エバンヘリコ」と呼ぶのが普通です。「福音主義者」とでも訳したら良いのかも知れません。「クリスチャン」と言えば(スペイン語ではクリスティアーノ)、一般的には「カトリック信徒(カトリコ)」を指すのですから、「エバンヘリコ」と呼ばれるにはそれなりの特色がある筈なのです。なぜ「エバンヘリコ」なのか、日本から彼の地へ渡って福音宣教の業にたずさわってきたわたしにとって、それは根本的な問いになりました。カトリック信徒が大多数を占める、いわゆるカトリック教国において「何故わたしはエバンヘリコであってカトリコではないのか」を考えなくてはなりませんでした。同じキリスト者であっても、この呼び名の違いには重大な意味が含まれていたのです。キリストとの関わりは、カトリック信徒がそうであるような、教会に依存しているのではなく、むしろ教会こそキリストに依らねばあり得ないことなのです。キリストを信じて、神と人との正しい関係を回復された者としてキリストの体である教会に召され、信仰においてキリストの福音に生かされる者こそ「エバンヘリコ」なのです。
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10月28日 「神と格闘する者」
その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」
創世記 32章29節
父イサクの祝福を兄エサウと争い、うまく出し抜いて自分のものにしたヤコブではありますが、その為に兄の報復を逃れて遠く母の故郷へと旅立たねばなりませんでした。20年の歳月の後、家族を連れて戻るヤコブの前に兄エサウが待っていました。兄との再会はヤコブにとって喜びではなく不安と恐れに満ちていました。家族を先にやってヤボク川のほとりに残ったヤコブはその夜、何者とも知れない人と格闘します。それは彼の心の中に巣くう底知れない不安であったのかも知れません。しかし、暗い闇の中で続けられた格闘の末、遂にヤコブは勝利します。そして、祝福を求めたヤコブにその人は新しい名「イスラエル」を与えます。「神と人と闘って勝ったからだ」と説明されています。この物語は、不安と恐れの中で格闘する人間のありさまをそのまま物語っているようです。彼は自分自身と闘っているようで、その実わたしたちの中にいる神とも闘っていた、と考えられるのです。不安と恐れ、そして闇の中では、神は遠い存在のように思え、はるか彼方、闇の中から果たして神が助けを送ってくれるかと必死に祈るわたしたちですが、神は、実際はわたしたちと共におられ、わたしたちの格闘に加わっていて下さるのです。自分と闘って一人相撲にならないでその闘いに勝ち抜くことが出来るのは、本当は自分と共にいて下さる神との闘いがあるからだ、そう語っているように思えます。ヤコブは「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ってその場所をペヌエル(神の顔)と名づけました。
10月29日 「落とし穴がある」
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
マルコによる福音書 6章2〜3節
イエスの郷里ナザレの人々は、イエスが教え、語り、そして病める人々を癒す姿に触れて驚きを隠そうとはしませんでした。彼らの目には、それは全く別人のように映ったからです。理解できないのです。何故なら、彼らが知っているイエスとは全く別人のように思えたからなのです。しかし、そのような状況のもとでも彼らは自分たちが知っているイエスの姿に固執します。たとえどの様にすばらしい力あるイエスの業を目の当たりに見たとしても、残念なことに、自分たちの固有のイメージに合わない場合、彼らには事実も事実としては受けとめることが出来なかったということなのです。ナザレの人々にとってイエスはどこまでも彼らのイエスでなければなりませんでした。そして彼らの尺度に合わない者は排除されるのです。普通の人間にこのようなことがどうして出来るのかと、疑いの目で見ることしか出来なかったのです。「このように、人々はイエスにつまずいた」のです。現代、わたしたちの間でイエスを普通の人間として見ようとする事が流行っています。特別な神的な存在としてではなく、わたしたちと同じ人間イエスとして。それが本当らしく言われています。しかし、そこに一つの落とし穴がありはしないでしょうか。ナザレの人々がそうであったように、わたしたちも彼を神の子として信じることが出来ないという落とし穴が。
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10月30日 「赦し合いなさい」
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
エフェソの信徒への手紙 4章32節〜5章1節
イエスは、赦すときは7を70倍するまで赦しなさいと教えています。赦しには限りというものはない、ということを教えておられるのですが、同時に、人を赦す者は自分も赦される、赦さない者は天の父も赦して下さらないであろう、と教えておられるのです。「赦す」とはどういうことなのでしょうか。国語辞書によりますと、「罪を免じる・よいとする・認める・自由にさせる」などとなっています。しかし、これらの言葉では表すことの出来ないもっと深い意味があるのではないでしょうか。そこにイエスが赦しの無限定を説かれる動機があるのではないかと思います。赦すということは、相手に限りなく心を開いて行くこと、そして、その開かれた心の中に相手を包み込んで行くこと、そこに言葉では表せない赦しの実の姿があると言わねばなりません。それはパウロが「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」と言っているように、愛の具体的な姿として示されるものだと言えます。わたしたちに大きく、限りなく開かれている神のみ心の中に受け入れられて行く、その平安こそが赦された者にもたらされる真の喜びでしょう。そのように、神に倣ってわたしたちの心が隣り人に向かって開かれるとき、そこに新しいもう一つの平安と喜びが生まれて来はしないでしょうか。箴言に「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす」(口語訳)とあります。愛し合うことと赦し合うことは一つなのです。
10月31日 「恵みが働くとき」
この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。
ローマの信徒への手紙 5章16節
わたしたちはいつも神からの恵みを祈り求めていますが、それはわたしたちのもとに恵みがないからなのでしょうか? 多分、それは「幸せ」を求める一つの形かも知れません。良いことを期待する心が神の恵みを求めさせるのだと思います。けれども、その恵みを求める心には条件や代償が用意されていないでしょうか。わたしたちにとって「恵み」は「良い報い」として理解されていると思われます。英語では「フリーギフト」と訳されています。つまり、「無償の贈り物」というわけです。ですから、それは神の限りない愛のしるしでもあります。新共同訳ではここで「恵みが働くときには」となっています。神の愛が具体的に働くときには、と解して良いでしょう。その時には「如何に多くの罪があっても」赦されるのだとパウロは言うのです。その「時」に巡り会うことが出来る祝福こそキリストにあると言わねばなりません。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。」(ヨハネ1:17)であれば、キリストに結ばれているということこそ、このすばらしい神のフリーギフト、恵みの働きの中に、わたしたちが生かされているということに他なりません。「この賜物は」とあります。それは「赦し」ということなのです。ですから、この賜物には平安と喜びとが伴い、新しい生き方を生み出す力となるのです。