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日々の聖句

[3 月]

3月1日  「神の憐れみ」
「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、あとで考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
マタイによる福音書 21章28〜31節
口語訳では兄と弟の立場が逆転しています。底本に使っている写本によって違うわけで、ユダヤ人を兄として見、異邦人を弟と見る立場からは口語訳の方が支持されているのですが、しかし、このたとえの中心は何かというと、それは、「後で考え直す」という点にあります。「父親の望み通りにした」のは「後で考え直した」ほうなのです。これは「悔い改めた」ということに他なりません。イエスがこのたとえを持ち出したのは、神が求めておられるのは何かということをはっきりさせたかったからです。たとえ「いやです」と拒否したとしても、「後で考え直し」てくれることこそ父である神のみ心にそうものだとイエスは教えているわけで、ユダヤ人たちが、彼らが軽蔑している徴税人や娼婦たちの方が先に神の国に入るのを見て、考え直して、義の道を示したヨハネの言葉を信じて欲しいという思いがここに語られているのではないでしょうか。そう考えると、イエスに向かって言葉鋭く「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」と迫ってくる祭司長や民の長老らの頑なな態度を責められるイエスの言葉から、にもかかわらず、神はあなたがたの悔い改めを待っておられるのだ、という憐れみ深い心が伝わってくるように思えるのです。
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3月2日  「先取りの心」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」
マルコによる福音書 11章23節
「信とは常に一つの賭である。なぜならば、信とは前もって他者の誠実さを先取りすることだからである。」と、ある心理学者が語っています。イエスが言われる「神を信じなさい。」とは、「神の誠実さ、真実、その確かさを先取りしなさい。」ということに他なりません。人間相互の間でも、信頼は相手の誠実さ、真実というものを先取りしなければ成り立たないではありませんか。自分の思惑で相手を括弧の中にくるみ込んでいる間は、決してお互いの間に信頼関係は生まれて来ません。信とは相手の真実に自分を託すということだからです。「神を信じなさい。」とある言葉は、原意は「神の真実を持て」ということです。ゼカリヤの言葉によれば、「山」は障害を表す比喩として用いられています。山が動くということは、単に不可能が可能になるという事であるよりも、どのような障害も、神の真実において克服されるということなのです。だからイエスは「神の真実を持て」と言われるのです。神の確かさを先取りしなさいということです。ヘブライ人への手紙では、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する事です。」と語られています。不可能だと思われるような現実に逆らって、明日の可能を今へと先取りする心こそ信仰なのです。イエスの言葉は次のように続いています。「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」
3月3日  「十字架の影」
イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。3日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに46年もかかったのに、あなたは3日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。
ヨハネによる福音書 2章19節
ある画家が父ヨセフの仕事場へ木材をかついで運ぶ少年イエスの姿を描いたときに、イエスの影が背に担っている木材と重なって十字架のシルエットを作っている様子を描きました。それはイエスの生涯に常に十字架の死の影が射していたことを象徴的に指し示しています。しかし、だれがその影を予見し得たことでしょう。神殿の庭で商売をしていた人々に対して怒りを表し、縄で鞭を作り、牛や羊を境内から追い出し、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえすイエスの姿に、十字架の影を見る事が出来る者がいたとは考えられません。「どんなしるしを見せるつもりか」とイエスに迫った人々にとって、イエスの答えも、彼らの理解をはるかに超えたものでありました。「この神殿は建てるのに46年もかかった」というのは、何か人間の一生を暗示しているかのようです。人間が一生かけて建てあげたものをこわして、そんなに簡単に建て直せるはずがないとしか彼らには考えられないのです。けれども、イエスが言われていたのはご自分の体のこと、罪の贖いとして十字架に死に、3日目に甦られることの予告であったのでした。「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」と言葉が続けられていますように、本当に見えてきたのはずっと後のことでした。
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3月4日  「唯一の慰め」
全てはあなたがたのものです。パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。
コリントの信徒への手紙 一 3章22節
ハイデルベルク信仰問答書は「生きている時も、死ぬ時も、あなたの唯一の慰めは、何ですか。」という問いで始まっています。生と死、そのあいだに様々な形でわたしたちは苦しみ、悩み、そして喜びを味わいます。人生とはこの生と死のはざまにあらわれてくる喜怒哀楽のすべてを包み込んでいます。そして、それらの一コマ一コマが切り離されて、その断片の一つ一つに人間の生のすべてがかかっているかのように思い込まされる時があります。天に上るかのごとき喜びに酔いしれる時があったり、奈落の底につき落とされたような絶望感に打ちひしがれるときもあります。しかしそれらは決してわたしたち人間の生のすべてを語るものではありません。むしろ、その振幅の大きさこそが「人生」を語っているのだと言うことが出来ましょう。そのような「人生」において「慰め」とはどういうことなのでしょうか。しかしここでは、「慰め」は、「わたしが、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものである」その確かさの中にあります。この「慰め」の具体性は「支えられている」ということです。神の「支え」は、下からではなく、上から、天の高みから「わたし」を支えて下さるのです。あたかも振子のようにわたしを上で支え、どんな激しい振れにも耐えさせ、「人生」を実現させる確かさなのです。その確かさが、わたしたちを力づけ、励まし、助けて、いかなる時にも変わることのない平安を実現してくれる「慰め」なのです。
3月5日  「天に宝を積む」
イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
マタイによる福音書 19章21節
「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」一人の富める青年がイエスに問いかけてきました。彼は役人でもあったようですから、地位にも恵まれた、当時のいわばエリートでもあったに違いありません。おきてをしっかり守り、人を愛することも決して怠ることのない模範的な青年であったように思われます。けれども、彼は心に平安と生き甲斐を見いだすことが出来なくて悩んでいたようです。何かが自分に欠けている。大事な何かが欠けているという思いが彼を不安にし、自分の生き方は信仰にふさわしくないのではないかと自らを責める思いにとりつかれてしまっていたのです。豊かさの中で、かえって生き生きとした命を実感できなくなっている者の悩み、それは若者の心をむしばんでいるいたって現代的な精神状況でもあります。「まだ何か欠けているのでしょうか。」と尋ねる若者にイエスは、「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」と教えられました。大切なことはこの地上に宝を積むことではなく、天に宝を積むことだと言われたのです。この地上で、富や力や人間的な確かさを確保しようとすることではなく、むしろ何も持たないことが天に宝を積む第一歩となる。持つことでなく、持たないことの価値を知ることが大事なのだとイエスは諭されたのでした。天に宝を積むことは、地上的な価値判断から解放される事から始まるのです。
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3月6日  「断念の淵にて」
彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」
列王記上 19章4節
「人間万事諦めが肝心」などと言われることがあります。多分、それは困難に直面して局面の展開を計らなければならない時の、気持ちの切り替えの必要を説いている言葉だろうと思います。しかし、望みを絶たれ断念を強いられる時、諦めで局面の展開を計ることは到底出来ないでしょう。エリヤが自分の命の絶えるのを願ったのも、孤立無援の状況に身を置いた時、何処にも出口のない絶望が彼に生きることを断念させたからに違いありません。神の言葉を委ねられた預言者であってさえ、このような危機に直面することがあるのだとするならば、わたしたちが、様々な困難に出会い、希望を失い、死を求めるようなことになったとしても、決して不思議ではありません。けれども、わたしたちは「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と、パウロが語った言葉が真実であることを、エリヤの故事から教えられるのです。「もう十分です」と絶望の叫びをあげざるを得ない時でも、そのようなわたしたちの断念に逆らって、神が備えていてくださっている命の道を発見できるのはエリヤだけのことではないのです。断念の淵に臨んでいたエリヤに天の使いの訪れがあり、彼にパンと水を与えて生きる望みを与え、力づけたように、わたしたちにも主は訪れてくださり、新しく生きる望みと力を与えてくださるのです。
3月7日  「愛だけが負い目」
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。
ローマの信徒への手紙 13章8節
パウロは「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」と言っています。「だれに対しても」という言葉には、どのような支配者にもという意味が含まれています。権威を重んじ、服従するのは、この地上の権力者に自分を引き渡してしまうことではなく、信仰によって自由にされた人間として、この世の権威に対しても自由に生きる証として意味を持っているのです。イエスは「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを怖れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい。」と教えられました。恐れなければならない者がどなたなのかを知っている者として、キリスト者は「愛し合う」ことのほかに負い目を持ってはならないのです。愛は無限なものです。ここまで愛し、愛されたらそれで良い、ということがありません。どんなに愛しても愛の負い目は残ります。しかし、この世の義理や恩は返せます。どんな形であれ、それらは返すことが出来るというのがこの世の定めです。ですから、この世に生きていく上で、権威に従うということで負うべきすべてを相殺することが出来ます。服従は惨めさではなくて、自由な魂の誇りとならなくてはなりません。信仰によって自由にされた魂は、この世の権威に対しても自由であり得るのです。けれども、愛だけは相殺し得ないものなのです。だから、神に愛されている者として、限りなくこの負い目は愛で返して行くのです。互いに愛し合うのです。それが自由なキリスト者の真の姿なのです。
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3月8日  「主の祈り(一)」
だから、こう祈りなさい。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」
マタイによる福音書 6章9〜10節
バークレーは、「主の祈りは、弟子だけが祈ることの出来るもの、イエス・キリストに忠誠を誓い、献身した者だけが唱えて意味があるものである。」と言っています。少し調子が強すぎはしないかと思われるかもしれません。しかし、イエスは一つの祈り方としてこの祈りを教えたわけではありません。この祈りによってわたしたちは神を「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけることが出来るようになります。イエスの傍らにあって、イエスと共に神を見上げることが出来、呼びかけることが出来るようになります。イエスによってその恵みと慈しみを知らされて、何ものにもまして親しみ深い存在となった神に向かって、「父よ」と呼びかけることが出来るのは、弟子とされた者、イエスに従う者たちの特権なのです。それは隠れたところにおいて愛する者の必要をすべて知って報いてくださる神の配慮の中に生かされているということを知っている者の証でもあります。そして、神に対して他人行儀に生きる者には出来ない呼び名でもあるのです。これはまさに「主の祈り」なのです。ゲッセマネの園で「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られたイエスご自身の祈りがそれを貫いています。ですから、わたしたちがこの「主の祈り」を祈る時、イエスと共に自分自身を全く神に委ねる心、信頼、信仰が求められているのだということを、深く心に留めて置かなくてはならないのです。
3月9日  「主の祈り(二)」
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
マタイによる福音書 6章11〜13節
「主の祈り」は後半に入って人間についての祈りになります。しかし、それは人間一般についての祈りではありません。隠れたところにいます神の前に生きる人間のことなのです。今日だけ生きられればそれで良いというわけではありません。明日を神に委ねて生きることが出来ますようにという願いが、日毎の食物を求めさせるのです。しかし、人間はパンだけで生きるのではありません。神の前に生き得る根拠とはなになのでしょうか。それは神の赦しなのです。わたしたちは神の前に立ち得る正しさを有していない罪深い存在です。赦されてこそ生き得るのだということを、わたしたちは、自分に対して負い目のある者を赦すということを通して知るのです。イエスは、「憐れみ深い人は、憐れみを受ける」と教えています。そして、憐れみのない者に赦しはあり得ないのです。自分のために赦しを求める者は、その赦しを受け入れる心に、他者のための赦しが備えられている筈なのです。赦すということは心に痛みを伴うものです。けれども、その痛みは自分の存在を自覚させます。痛みを感じなくなる時、人間はすでに生きた存在ではなくなってしまいます。わたしたちは人を赦す痛みを媒介として、自分を赦して生かしてくださる神の痛みに目覚めるのです。「悪い者から救ってください。」というのは、ひたすら神により頼む心を妨げる者から、そして、あたかも自分だけの力で生きているような思いから救って下さいという祈りなのです。
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3月10日  「見よ。神の子羊」
「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
ヨハネによる福音書 1章29節
アダムとイブが禁断の木の実を食べた時から人間は神の目を避けるようになりました。そして、人間が心の奥底で不安に目覚める時、彼の耳は神の足音を鋭く捉えるようになり、神なき世界に生きようと悶えるようになったのです。わたしたちの日常の生活の中に潜む数々不安の根源、それは神の戒めに背き、神なしに生きようとする人間の罪そのものなのだと聖書は語っています。神を知る、ということは恐ろしいことかも知れません。なぜなら、自分の不安の根源に出会うことだからです。けれども、自分の罪を知ることを恐れてはなりません。わたしたちはその時、罪が許されることも同時に知ることが出来るからです。イエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言われました。わたしたちはイエスによって神を見、神を知ると共に、そこで、わたしたち自身の罪とも出会うことになります。けれどもこの出会いを通してわたしたちは、神がこの罪人を愛していて下さり、神の子イエスにおいて罪を赦して下さることも知ることが出来るようになるのです。 神殿では人々の罪のあがないのために子羊が犠牲として毎日ささげられていました。繰り返し、繰り返しささげられていたのです。この繰り返しの中に、どうしても罪の赦しの確かさを見い出すことの出来ない人間の不安が顔をのぞかせています。しかし、繰り返さなくても良い、唯一の犠牲の子羊、神が備えて下さった赦しの確かさをイエスに見る事が出来たのがバプテスマのヨハネでありました。彼は言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」
3月11日  「慰めの子・バルナバ」
教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。
使徒言行録 11章23節
アンティオキアは「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」所です。それは彼らの生活がイエス・キリストにしっかり結びついている事を周りの人々が認めたからに他なりません。このように明確な生活態度をつくり出すためには、彼らの熱心で倦むことのない信仰がなければなりません。しかし、実際の生活は決して容易なものではなかったことだろうと思われます。経済的な問題から家族関係まで、地域の人々との関わりも含めて、彼らがはっきりとキリストの者であると証しをするためには多くの勇気と努力を必要としたことでしょう。このアンティオキアに送られたバルナバの本名はヨセフで、バルナバ、つまり「慰めの子」と呼ばれていたのです。彼は人々の困難な問題を共に担い、慰め、励まし、力づけるにふさわしい人物でありました。彼の訪れがどれほどアンティオキアの人々の心を強めたことでしょう。回心した後もまだ伝道者として確立できず、タルソスに姿をくらませていたパウロをアンティオキアに連れ帰ったのもバルナバでした。そして、パウロにとってバルナバと一緒に過ごしたアンティオキアは心の故郷となりました。教会にはどこでもバルナバのような人が必要です。伝道者を助け、イエスの言葉が生きて働き、交わりの力となるように互いを励ます「慰めの子・バルナバ」を必要としているのです。
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3月12日  「神の報酬は恵みである」
「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」
マタイによる福音書 20章13〜14節
イエスはご自分の最後の時が近づくにつれて、天国のことを懸命に語るようになります。そして、神のご支配の及ぶところでは人間の価値判断を超えて神の憐れみと恵みが優先するのだと教えられるのです。天国でも、1日の労働を保証されて働きに出ることが出来る者がいる反面、仕事にもあり就けず、為すこともなく広場に立ち尽くす者たちもいるようです。まるでこの世の有様をそのまま映し出しているように見えます。9時、12時、3時、主人は広場に出て仕事に就けないでいる人々を見つけるとぶどう園に送って働く機会を与えました。夕方の5時、まだ仕事を見つけることが出来ないで広場に佇んでいる人を見つけると、この人々も自分のぶどう園へ送って働かせたのです。5時に雇われた人々は、もういくらも仕事をする時間もないだけに、受ける報酬も僅かなものだろうと、きっとそう思っていただろうと思います。それでも、たとえ1時間でも働け、少しでも報酬が得られるならと喜んでぶどう園へ向かったことでありましょう。賃金が支払われるときに、彼らは皆同じ様に1デナリオンづつ受け取りました。1日フルに働いた者と、後から来た者と同じ額が支払われるとは腑に落ちないと不平を言う者に対して主人は言うのです。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」天国ではこのように、仕事の量ではなく、神の憐れみと恵みが人間的な期待を超えるとイエスは言われるのです。
3月13日  「失望せずに祈れ」
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。
ルカによる福音書 18章1節
イエスは祈ることについてしばしば弟子たちを教えていますが、ともすれば祈ることに疲れてしまう弟子たちを、様々な形で励まして下さるお方でもありました。気を落とさずに絶えず祈らなければならないということは、祈れなくなったり、祈らなくなったりするときに、自分で勝手に理由を見つけてくるようなことをしないで祈りなさい、ということなのです。この神を恐れず人を人とも思わない裁判官と、一人のやもめの話は、わたしたちに、祈るときの誠実さと熱意、そして持続の大切さについて教えています。このような裁判官に公平な裁判を期待することなどとても出来はいたしません。けれども、このような裁判官であってもやもめは彼が裁判官であることに対して信頼と尊敬を失ってはいません。ここには望み得ないのになお望みを託す思いが伏線となって語られています。それが熱意の源泉です。熱意とは、その意味を英語の辞書で調べてみますと、神に霊感を与えられ、乗り移られる事というギリシャ語から来ていると書いてあります。つまり、自分の執着を相手に押しつけることではなく、むしろ、相手の見えない力に引きつけられて行く心なのです。最後の持続ということは祈りの本質的な性格を表しています。祈りにとって大切なことは、続けるということです。イエスは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。」と言っています。このようなひどい裁判官であっても、誠実と熱意と持続にはかなわない、ましてや神はなおさら良くして下さらない筈はない、とイエスは祈る者を励まして下さるのです。
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3月14日  「裁き合わない」
従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。
ローマの信徒への手紙 14章13節
パウロはこの章において、教会における信徒の交わりの基本姿勢にふれて語っています。それは、具体的には「互いに裁き合わない」ということなのです。キリスト者はお互いに皆、キリストに結ばれて生かされ、キリストに結ばれた者として生きているわけです。そして、キリストに結ばれて生きる者は、「互いに愛し合う」者なのです。「裁く」ということは、人の理非・曲直をはっきりさせることなのですが、しばしば相手を否定的に決めつけ断定し、拒否することにもなります。もし、キリスト者の交わりの中にこの「裁き」が生きていたなら、わたしたちの愛し合う姿はそこから崩れさって行くに違いありません。「互いに裁き合う」ということは「互いに愛し合いなさい」と命じられた主イエスの戒めに反することだからです。
「裁かない」ということは、愛において受け入れるということに他なりません。わたしがキリストのゆえに神に受け入れられた者であるならば、彼もまたそうなのです。お互いに神に愛されている者として信徒の交わりが成り立つのです。ですから、わたしたちは互いに受け入れることが出来る者でなければなりません。そのために妨げになる物や、つまずきとなる物を置かないようにしなければなりません。自分のことを棚上げすると、他人のことが目について仕方がない、ということがありますが、その目を自分に戻せば、神の前にどのように生きねばならないかがわかるようになります。「互いに裁き合わない」者として交わりの中にキリストの愛を実現したいものです。
3月15日  「神は隠れたことを見ておられる」
「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
マタイによる福音書 6章17〜18節
マタイによる福音書6章の教えの中で特に注目したいことは、「隠れたところにおられる神は、隠れたことを見ておられ、報いて下さる」ということです。この章の中で3回も繰り返されていますから、これはあだやおろそかに見過ごしてしまってはならない言葉だと思います。断食も、これ見よがしにするのでは、かえって神の目には見えにくいということになりましょう。神は人の目を通してご覧になるのではないからです。それ故、隠れたところにおられる神には、隠れた形で見ていただくというのが正しい事になります。断食も祈りも信仰の業ではありますが、人に気づかれないようにするということは、自分を隠すということではなく、隠れたところにおられる神に見ていただくという事であり、見えない神に心を向けるということなのです。見えないものに心を向けるということこそ信仰の本質なのです。そして、そのことはあらゆる患難の中におかれていても望みを失わないで生き、歩む力の源泉なのです。パウロも「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」と語っています。
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3月16日  「新生」
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
ヨハネによる福音書 3章3節
夜、人知れずイエスのもとを訪れたニコデモは最大限の賛辞を呈して語りました。「あなたがなさるようなしるしは、だれにも出来はいたしません。」
わたしたちも人を褒めるときには似たような言い方をするものです。けれども、イエスはこうした賛辞が決して当を得ていないことを明らかにします。ニコデモが何を見たかではなく、それを見たニコデモ自身の内にどのような変革が起きるかが大切なことなのだと教えられるのです。不思議や力ある業は見る者の目を楽しませ、驚きと賞賛が尊敬に変わるかも知れません。しかし、何よりも重要なことはその人自身が新しくされることだと言われるのです。「新たに生まれる」ということは、人生をもう一度やり直す、ということではありません。ニコデモもイエスの言葉を聞いて叫びます。「人生にやり直しは出来ません。どうしてもう一度母親の胎からの出直しが出来るのですか」と。しかし、イエスが求めているのは、信じて生きる新しい生への転換なのです。今ここから、信じることにすべてを賭けて生きるようになることです。風をとらえて生きるようなものだという不安が残るかも知れません。けれども、その見えない、とらえようもない風が確かな跡を残して吹き過ぎて行くように、信じて生きる者には確かな今日が訪れてくるのです。わたしたちは、見えるものによってではなく、見えないものによって生きる幸いのあることを知らねばなりません。新しく生まれるとは、その人の生き方が、このように新しくなるということなのです。
3月17日  「強くされる」
わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物があり余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしにはすべてが可能です。
フィリピの信徒への手紙 4章11〜13節
「強い」ということはどんなことを意味しているのでしょうか。一般的には「力」を想像させる言葉だろうと思われます。体力、知力、財力、そして権力、最近はそれに加えて軍事力などが強さを感じさせる要素となっています。しかし、パウロがここで言っている強さとは、そうした「力」とは直接結びつかないものです。貧と富、飽くことと飢えることなど、それら相反する状況に等しく対応しうる生き方とは、決して「力」でもたらされるものではありません。病んでいる者をわたしたちは「弱い」者として認識し、決して「強い」者とは理解しません。健康な人間をこそ「強い」人間と考えるのではありませんか。「健康」とは肉体的、機能的、精神的にバランスのとれた状態を指す言葉です。パウロがここで理解している「強さ」とは「力」ではありません。「安定」なのです。バランスのとれた状態で、すべての状況にふさわしく対応できる生き方を指しているのです。その「安定」は「わたしを強めてくださる方」から来るのです。パウロは七節で「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」と言っています。この望みにつながれて生きる人間として、パウロは「わたしにはすべてが可能です。」と言い切ることが出来たのだと思います。そこにこそ真に強くされた命があるのです。
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3月18日  「神こそわが岩、わが救い」
わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救はある。
神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは決して動揺しない。
詩編 62編2〜3節
「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」と詩人は歌っています。おそらく苦悩の果てに言葉もなく、神の前に立つ悲しみが彼の心を満たしていたことでしょう。自分の無力に打ちひしがれていたのかも知れません。彼にはもはや何も可能性と言えそうなものは残されていないように見えます。何かがまだ出来るのにそれもしないで、ただ僥倖をのみあてにして神に望みを託しているというのではありません。魂が沈黙するというのは、自分に何も頼れる確かさがないからなのです。けれども、神だけしか頼りにすることが出来ないという、自分自身の無力さを知るところで彼は神の方へ向くのです。なぜなら、神にこそ自分の救いがあると知っているからです。
この詩人の目には自分の無力さ、行き止まりの彼方に、彼の弱さを受け入れ、支えて下さる神が見えています。「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔」と歌うのは、その神の守りの中にこそ自分の本当の心の拠り所、生の拠り所があると確信できるからなのです。それがあればこそ、もう何が来ても、どうなっても、いかなる状況に置かれても、動揺することはない。たとえ今、何一つその身に確かさと言えるものを持つことが出来なくとも、それでも神に身を委ねるならば、心を安んじることが出来る。そこに彼は希望を託すのです。その思いがかく歌わせるのです。
3月19日  「柔和な王」
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
マタイによる福音書 21章5〜7節
ろばはおとなしい動物です。しかし、そのおとなしさのゆえに愚かで鈍重だと蔑まれます。重い荷を背に負わされ、黙々として歩むろばの姿には何の見栄えもありません。そのようなろばに乗ってこられる王は、まさにそれに似つかわしい柔和を備えておられます。貧しく望みのない者たちのために、自らもそのような者となって人の罪を負い、打たれ、罵られて罵り返さず、ひたすら神のご意志とご計画に従って十字架へと歩まれる、そういう姿を体で示される王の姿がそこにありました。イエスは、「わたしは柔和で心のへりくだった者」と言われています。「柔和」には「やさしさ・温和」という意味がありますが、その他に、仇をする者に痛めつけられ、傷つけられるという意味が内包されていると言われています。イエスは苦しめられ、嘲弄されることによって徹底的に柔和にされる。その完成が十字架でありました。真の救い主はこのような悩まされ苦しめられる者として、ろばに乗り神の都エルサレムに入ってこられるのです。この日、人々は「ダビデの子にホサナ!ダビデの子にホサナ!」と歓声を上げてイエスを出迎えました。しかし人々のこの歓声は間もなく、ろばに乗った王にふさわしく、嘲笑と「十字架につけよ」という声に取って変わられてしまうのです。しかし、この柔和な王の苦難を他にしてわたしたちの救いはなかったのです。
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3月20日  「わたしたちのためのイエスの祈り」
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
ヨハネによる福音書 17章21節
ヨハネによる福音書には「祈る」とか「祈り」という言葉を見い出すことが出来ません。そこが何とも不思議なところなのですが、しかし、イエスの祈る姿、祈る言葉を見つけることは難しくありません。17章全体はまさにイエスの祈りです。わたしたちはそこに、わたしたちのために祈るイエスの姿を見ることが出来ます。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛しぬかれた」イエスの愛に溢れた祈りの姿がここにあります。イエスが父である神と共におられるように、イエスはわたしたちと共に居り、わたしたちもまたイエスと共にいることによって一つとなる、イエスに結ばれて一つになるようにと祈って下さるのです。わたしたちは多様です。さまざまな違いを持っています。けれども、それらの違いがお互いを引き離すものとならないで、むしろ、それらの違いがあるにもかかわらず、それを超えて一つにされることをイエスは望み願って居られるのです。そのことによって神が御子を愛されたようにわたしたちをも愛して下さっていることを知るようになると、イエスは確信して居られるのです。それはわたしたちに対するイエスの愛の発露であり、またわたしたちが彼の愛に支えられて生きる者であり、彼に結ばれて一つのファミリーであることを物語っていると言わねばなりません。「わたしがあなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と教えられたイエスの言葉を支える祈りがここにあります。
3月21日  「御言葉に支えられて」
かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。
ローマの信徒への手紙 15章4節
ローマの信徒への手紙の終わり近く、パウロは信徒の交わりの重要な部分を語りつつ、しかし、彼はこの手紙を教訓で終わらせたくはありません。交わりを支え、信徒一人一人を支えるものが何なのかを語らずには済まされない、そんな思いが彼をつき動かしています。信徒を支えているのは彼らの心構えではありません。聖書、神の言葉なのです。パウロの時代のことですから、現代のわたしたちなら、それは旧約聖書だと言うべきかも知れません。いずれにしても、聖書の言葉に励まされ、慰められ、強められて希望に生きるものとされた者たちの証しが、同じように後の者たちにも励ましとなり、忍耐と慰めの力となって希望をもたらしてくれたのです。新約聖書はそうして成り立ってきたのでした。「聖書はすべて神の霊の導きのもとに書かれ」とテモテに宛てて書かれていますように、み言葉に感動しないで語る言葉であったなら、どんなに立派な言葉を連ねたとしても、それを聞く者の心をとらえ、感動を与えることは出来ません。ましてや、忍耐と慰めを与えられ、苦しみの中から希望へと強く成長して行くことなど、とうてい考えられることではありません。聖書に感動していない説教者の言葉ほど空疎なものはありません。パウロは「ところどころかなり思い切って書きました」と言っています。この手紙が現代においても読む者の心に強い感動を呼び起こし、苦しみの中で神の慰めと励ましを与えられ、希望に生きる者とされるのは、み言葉に支えられて生きるパウロ自身の感動があるからだと言えましょう。
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3月22日  「互いに安否を問え」
あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。キリストのすべての教会があなたがたによろしくと言っています。
ローマの信徒への手紙 16章16節
パウロは、この手紙を閉じるにあたって心からの挨拶をローマの人々に送ろうとしています。やがて互いに相まみえる日を脳裏にえがきながら、しかし、今遠く離れている身にも、ローマの人々は身近なのです。その思いが多くの人の名をここに挙げさせます。パウロはまだ一度もローマを訪れたことはありませんが、それでもこんなに多くの知人、しかも親しく呼びかけられる人々がいたのです。世間は広いようで狭い、特にキリスト者の交わりの中でわたしたちも同様の体験を多く持っています。人と人との交わりがキリストにあってこうも近くされるのでしょうか。それは驚きでもあり、また感謝でもあります。ルフォスとはマルコによる福音書によれば、強いてキリストの十字架を背負わされたキレネ人のシモンの子だとも言われています。思いがけない父の体験が子に受け継がれ、信仰を持ってキリストと共に歩むようにされる。キリスト者はそれぞれのキリスト体験を通してこの世に親しい交わりを、広い世間を狭くするほどに密な交わりをつくり出しているのです。それゆえ、互いに心から挨拶を交わし合わねばなりません。キリストに結ばれている者たちはもはや互いに行きずりの人ではないからです。パウロにとってのローマは、パウロだけのローマではなく、キリストの全教会のローマでもありました。お互いに安否を問い(文語訳)合い、挨拶を送り、心の中に互いを知る交わりを拡げて行くのも、キリストに生かされている者たちの喜びに他ならないからです。
3月23日  「思い煩うな」
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」
マタイによる福音書 6章25節
いつの時代でも人間には悩み、思い煩いがつきまとっています。「思い煩う」という言葉には「いろいろな部分に心が分裂する」という意味があります。そうした思い煩いは見えるものへの執着と、自分の手に確かさを保持し得ないことへの不安から生み出されるものに他なりません。人間はいつもそのような不安を引きずって生きているものなのです。そのようなわたしたちにイエスは、命のことで、生きることについて何を食べ、飲み、着ようかと思い悩むなと言われます。そして、空の鳥を見、野の花を見なさいと言われます。北海道の牧野にギシギシタコゾウという小さな虫がいます。この虫は農家が厄介者扱いにしているエゾノギシギシという雑草だけしか食べないそうです。役立たずといわれる雑草でもギシギシタコゾウにとっては、それがなくては生きていけないのです。どんなにつまらない虫けらでも、地べたに踏みつけられているコケ草でも、それぞれに命を支え合う役割を担っています。わたしたち人間以上に儚い存在であるものの上にも注がれている創造主の配慮があることを、イエスは空の鳥、野の花を通して「だから、言っておく。」とお示しになるのです。人間だけがその摂理から洩れているわけではありません。神はわたしたちの必要を知っていて下さる、「だから、明日のことまで思い悩むな。」と、イエスは神への信頼の中に生きることの大切さを説かれるのです。そこに思い煩いからの解放の鍵があります。
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3月24日  「十字架を負う」
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
マタイによる福音書 16章24節
この人なら一緒にやって行ける。この人の後について行きたい。そういう人に巡り会い、出会うことが出来た人ほど幸せな人はないでしょう。良き師に巡り会い、良き友に出会い、信頼し合える同僚を見い出し、そして心から愛し合える伴侶と結び合えることほど幸せなことはありません。誰しもその幸せを心から願い求めているに違いないのです。わたしたちは「わたしについて来たい者は」とあるイエスの言葉の中に、彼と共に生きることを願い求める者の姿をかいま見ます。しかし、イエスは彼と共に歩む者の現実は、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」彼に従うことなのだと教えられるのです。ルカによれば「日々、自分の十字架を背負って」と、日常のこととして語られています。「自分を捨てる」ということは自分を無と評価し、自分に対する信頼を放棄するということではありません。自分中心の生き方ではなく、むしろ自分の無力さの中で全くキリストに帰依する生き方です。「十字架を背負う」ということは、自分の苦しみを進んで担うというようなことではありません。もしそうであるならば、それは苦しみにひたすら耐え抜く心であり、気高い自己犠牲の心でもあると言えましょう。しかし、イエスが十字架において「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」と叫んで、すべてを神に委ねられ、わたしたち罪人の罪のあがないを成し遂げられたように、彼にわたしたちのすべてを委ねきるということの中に、わたしたちが日々、背負うべき十字架があると考えなければなりません。
3月25日  「目を覚ましていなさい」
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
マルコによる福音書 13章31〜33節
この13章には世の終わりに起こるであろう恐ろしい状況が克明に語られています。目をふさぎたくなるような醜悪な人間の状況。恐ろしい危機的な時の到来。とうてい目を開いて見極め、見届け、見つめ続けて行くことのできない弱さを、他人事ではなく、自分自身のこととして受けとめなければならない現実に直面させられるのです。絶望し、断念を余儀なくされる現実に立たされて、それでもなお、イエスはわたしたちに目を閉じてしまわないで、見開いているように求められます。それは、たとえ天地が滅びようとも、決して滅びはしない彼の言葉の確かさをわたしたちに味わせて下さるためなのです。なぜなら、わたしたちにとって神はいないのかと思われるような暗黒の時にも、詩編121編に「見よ、イスラエルを見守る方はまどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方、あなたを覆う影、あなたの右にいます方。」とありますように、神は常に目覚めて居られるお方、わたしたちが目を閉じても、決してわたしたちに対して目を閉じたまわないお方であるからなのです。ですから、重くのしかかるような圧力に抗して、目を覆いたくなるような現実にもかかわらず、それをしっかり見つめ続けて行く勇気を持つことが出来るのです。そして、目を覚ましている者のみが輝かしい夜明けの喜びを味わい知ることが出来るのです。イエスは言われます、「だから、目を覚ましていなさい。」
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3月26日  「失われた者」
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
ルカによる福音書 19章10節
「失われる」ということは本来あるべき所とは違った場所に存在するということを意味しています。100匹の羊の中から失われた1匹の羊のことをイエスはたとえで語っていますが、それは、もともと一緒の他の羊達と共にいなくてはならないのに、違った方へ勝手に行ってしまった羊のことを語っているわけで、その運命は死と滅びに象徴されているのです。かってボリビアの開拓地で一人のアメリカ人宣教師が行く方不明になった事がありました。ジャングルの中に迷い込んで出られなくなったのでした。3日3晩の捜索でようやく彼を発見する事が出来ました。野獣の襲撃を避けるため、そして少しでも遠くから発見してもらえるようにと、彼は高い木の上に上っていました。そして見い出されたのでした。一度は絶望し、死すら覚悟した者にとっては、見いだされ、救われた喜びはたとえようもなかったことでしょう。生きている自分、生きていける自分を発見出来たのですから当然です。いちじく桑の木に登り、イエス一行の姿を見ようとしていた税金取りザーカイが、逆にイエスに見い出され、その訪れを受けて大きく変身する姿にもその喜びが窺われます。人は神と富とに兼ね仕える事は出来ないのです。この世の富に心を奪われていた者が、そのために自分というものを見失い、居るべきところから逸脱していた者が、イエスの訪れを受けて新しく生きられる自分を発見する、その喜びは新しい命の喜びとなるのです。死んで甦る復活の喜びにも繋がります。イエスはわたしたちの心にも訪れます。そしてイエスと共にある、新しい自分の発見に心躍る喜びをもたらして下さるのです。
3月27日  「神に倣う者」
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
エフェソの信徒への手紙 5章1〜2節
春の息吹きを身近に感じる季節になりました。進学、就職、新しい出発の時を迎える若い人々には希望溢れる季節でもあります。そして、主イエスの苦しみに与かるわたしたちキリスト者にとっては、復活の輝かしい夜明けの訪れを待つ期待に心をふくらませる時でもあります。キリストと共に生き、キリストと共に歩む、その喜びを分かちあい、確かなものとされる始まりでもあります。今日のテキストには二つの事が求められています。「神に倣う者となれ」「愛によって歩め」という事です。そのいずれも、「愛されている」という事が前提になっています。わたしたちの新しい出発は、神に愛されている者としての出発なのだということを忘れてはなりません。しかも、キリストはご自分をわたしたちのためにいけにえとして献げてくださったのですから、その苦しみにおいてわたしたちを愛してくださったのだと知らなければなりません。「倣う」とは真似をする、似せるということです。本居宣長はこのことを「学ぶ」、つまり学問としてとらえていました。学ぶということはまねぶということなのだというわけです。ですから、わたしたちが愛に生きようとするとき、キリストの苦難をしっかり見つめ、学んでいかねばなりません。そのことが「神に倣う者」となり、「愛によって歩む者」となる大切な第一歩なのです。なぜなら、そこにこそ患難から希望への確かな道が備えられているのですから。
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3月28日  「一粒の麦」
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」
ヨハネによる福音書 12章24節
雪の下から黒い土が顔をのぞかせるようになり、緑の若芽が姿を現すようになって、北国に住む者たちの心には、生命力に溢れた春の息吹が一層強く感じられる季節となりました。「一粒の麦」、この言葉はイエスの言葉としてわたしたちの心に深く根づいています。この一粒の死においてどれだけ多くの命が生かされてきたか、わたしたち自身の生かされてある日々を思うときに、その確かさと恵みの豊かさを感謝の思いをもって省みることが出来ます。この一粒の麦はイエス御自身のことを指して語られています。そして、イエスの死に身を重ねて行く者に約束されている命の豊かさを示すものでもあります。イエスはこの言葉の他に、「種を蒔く人のたとえ」で良い地に落ちた種が30倍、60倍、100倍の実を結んだことを教えられました。「一粒の麦」が死んで多くの実を結ぶためには良い地が必要なのです。道端や石だらけの土の少ない所、茨の生い茂る所ではこの一粒もむなしく死ななければなりません。「一粒の麦」が多くの実を結ぶべき場所は良い地、キリストを愛し、自分の命を愛さない者の魂にほかなりません。イエスは「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と言葉を続けています。「憎む」とは「愛さない」という意味です。小さな自分への執着を捨てて、キリストの死に己をゆだねることが出来た者は、キリストの復活の命に新しい自分を見いだすことが出来る、その秘密が「一粒の麦」に隠されていると言えましょう。
3月29日  「イエスの祈り」
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書 14章36節
ゲッセマネの園において祈っておられるイエスの姿には、近寄りがたい恐ろしいほどの緊張感が漂っていました。危機に臨む時に、自分の確かさではなく、神の真実にかけて生きる事の大切さを教えてこられたイエス。そして、祈り求める事は既にかなえられていると信じなさいと教えられたイエス。そのイエスが今必死になって神の全能に期待しながら、自分の思いとたたかい、ひたすら神の心に生きようとしています。わたしたちは自分たちの危機に臨む度に、どのように生きなければならないかをイエスから学ぼうとし、学ばなければならないことを知っていますが、しかし、イエスご自身がその様なときに、どのように生きようとされたかを知ることが少ないのです。血の汗を絞りながら懸命に祈るイエスの姿の傍らで、かすかにその祈りを耳にしながら、それでも眠り込んでしまっている弟子たち。その情景をわたしたちに伝える福音書の記者は、何をわたしたちに語ろうとしているのでしょうか。イエスは「目を覚ましていなさい」と弟子たちに求められました。目覚めていなければなりません。そこには、彼らが目を見開いて確り見届けておかなければならないイエスの姿があったのです。危機に臨み、死を目前にして、ひたすら神への信頼と服従に生きようとされるイエスご自身の姿を、わたしたちもまた見ていなければならないからなのです。その姿を通して、イエスが見つめておられるものへわたしたちも導かれて行くのです。
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3月30日  「十字架へ向かって」
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」
ヨハネによる福音書 12章27節
その日、なつめやしの枝をふるって迎える群衆の歓呼の声に包まれて、イエスはエルサレムに入ってこられました。まるで凱旋将軍のようでした。傍目には今、彼は栄光の絶頂にあるが如く見えました。何とかしてイエスを妨げようとたくらむパリサイ人たちすら、何をしても無駄だと、嘆かざるを得ませんでした。このような状況の下、イエスを囲む弟子たちの心は躍っていました。勝利は目前です。「イスラエル万歳」彼らはそう叫んでいました。けれども、そのようなこの世の栄光に囲まれていた筈のイエスの心は騒いでいたと福音書はわたしたちに告げるのです。心が騒ぐ。決して喜びにふるえ、興奮していたわけではありません。心がかき乱され、平安を失っていたのです。嵐の中でも落ち着きを失わず、危機に面しても冷静であったイエスが、今、栄光の座に上がろうとしてするこの時、平静さを失っていたのでした。光りは死の影を伴っていました。ヨハネはこの他に、ラザロの死に直面したとき、そして、イスカリオテのユダの裏切りを告知される場面などでもイエスの心の騒ぎを伝えています。しかし、わたしたちはここで、栄光の中に過酷な運命を予感し、自分の心の乱れに逆らって、あえて神の御心に従おうとされたイエスの姿に、本当の信従の在り方を見させられるのです。「わたしはまさにこの時のために来たのだ。」イエスはこの従順の中に神の勝利を見い出していました。そして、近づきつつある十字架の死の影におびえることなく、かえって弟子たちを「心を騒がすな」と励まされたのでありました。
3月31日  「勝利者」
「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしを一人きりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
ヨハネによる福音書 16章32節
わたしたちはここで真の勝利者、イエス・キリストに目を向けるように招かれています。誰が見ても決して勝利者ではない、十字架の上で非業の死を遂げた、完ぺきな敗北者であるとしか思われない、そのイエス・キリストへと招かれているのです。なぜなら、彼において人間のあらゆる悲惨が、苦悩が、そして痛みが、人間の罪の代償として演じられ、死において償われるべきものとされたからなのです。人間の目から見て決して勝利とはなり得ない決定的な敗北が具体的な形をとったその人こそ本当の勝利者であり、そして、わたしたちを彼においてその勝利へと招いて下さるのだと聖書はわたしたちに語るのです。何故このお方においてわたしたちにとっては敗北でしかない人生が勝利に変わるのでしょうか。その秘密を今日のテキストはわたしたちに明らかにしてくれます。弟子たちがイエスを置き去りにし、独りぼっちにしてしまう時が来ます。しかし、その時でもイエスは孤独ではありません。なぜなら、「父が、共にいて下さる」からなのです。そこに勝利の鍵があります。パウロも言っています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、誰がわたしたちに敵対できますか」と。「私は世に勝っている」と言われる方を信じる者に勝利は約束されているのです。