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日々の聖句

[11 月]

11月1日 「受け継がれるもの」
ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。
ヘブライ人への手紙 11章39〜40節
今日は「諸聖徒の日」とか「諸聖人の日」などと呼ばれています。先に召された人々を偲び記念をする日でもあります。山本周五郎は「死とは、その人が生きてきた証である」と書いています。わたしたちが既にこの世ではあいまみえることの出来ない人々の上に思いを馳せるとき、その死という厳しい現実を超えて彼らが生きてきたその事実へと目を向けさせられ、彼らがどう生きてきたかを見るときに、わたしたちはどう生くべきかを深く考えさせられるのです。この手紙の11章は、神への信頼の中で困難な生涯を闘い抜いてきた旧約聖書の中の多くの人々のことを物語っていますが、しかし、それらの人々は信仰の故に神に認められながらも、約束のものを手に入れることはなかった、と記されています。彼らは報いられるところ少なかった、では彼らの信仰はむなしかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。この手紙の著者は「わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかった」と言っているのです。彼らの祝福はわたしたちにすべて賭けられているのです。わたしたちが受け継ぐべき彼らの信仰において、共々に神の祝福に与る恵みを神はわたしたちに備えて下さったのです。そして、わたしたちもまたあとに続く者たちの信仰において受くべき祝福のあることを教えられ、望みを明日に繋ぐことが許されているのです。
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11月2日 「見えない確かな交わり」
霊≠フ初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
ローマの信徒への手紙 8章23〜25節
今日は永眠者を記念して礼拝を守ることについて考えてみましょう。この礼拝を通してわたしたちの思いは先に召された人々へと繋がれ、信仰において愛する者たちとの心の交わりを新しくされるのです。しかし、ここには一つの不思議があります。目に見えない人々との交わりを現実の確かな交わりとして味わい知るという不思議です。神秘的な霊の交流という様な体験ではありません。キリストに結ばれているということがわたしたちに見えない彼方へ希望を繋がせるからです。先に召された人々が過去の闇のなかに沈んでしまったのではなく、キリストのもとにおいて滅びず、神の子たちとしての栄光に輝く自由にあずかる望みの中にあるということを、わたしたちもまた同じ望みに生かされている事実として、この礼拝に、そしてこの交わりにあずかることによって確かなものとされるのです。ペトロの手紙に「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」とありますが、キリストを見なくとも信じて喜びにあずかっているわたしたちです。今見えなくとも、同じように、キリストに結ばれて与えられる交わりの中に、先に召された人々がいる事を共に喜びたいと思います。
11月3日 「愛あるところに命あり」
わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。
ヨハネの手紙(一) 3章14節
パレスチナを巡って、イスラエルとアラブ諸族の人々との間に長い間争いが続けられ、いつになったら人々が求めている真の平和がこの地域にもたらされるのか、痛みと悲しみに耐えながらその日の到来を待ち望んでいる人々のことを思うとき、一日も早く平和がもたらされる様にと心から願わずにはおれません。相互の不信が疑惑と憎悪を生み、多くの命が失われ、平安が損なわれる悲しい出来事が長い間つづいて来ました。憎しみの中からは死と破壊しかもたらされませんでした。その悲劇を乗り越えることが出来るためには、互いの信頼の回復と愛し合いが実現しなければなりません。今日のテキストにはカインとアベルの例が引合いに出されています。もともと互いに愛し合うべき関わりに生まれてきた兄弟が憎しみによって引き裂かれたのです。「愛のないところに悲劇がある」と言った人がありますが、その事実をわたしたち自身、身のまわりで多く見て来ています。「愛することのない者は、死にとどまっている。」のです。いつもいつも、繰り返しその悲しみを見、味わい、痛む思いに耐えなくてはなりません。時には耐え難い思いで天に拳を振り上げ、悲しみを表さずにはおれない思いにとらわれます。しかし、そのようなわたしたちのために主イエスは死んで下さり、わたしたちが愛されている事を示してくださいました。愛の無いところに悲劇があれば、愛のあるところには希望があり、命があり、喜びがあります。そして、そこに神がおられるのです。
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11月4日 「死の訪れの時にも」
マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいて下さいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
ヨハネによる福音書 11章32節
イエスが愛されていたラザロが死んだとき、知らせを受けてベタニヤのマリアとマルタのもとを訪れたイエスに、この二人の姉妹は同じ事を言いました。「主よ、あなたがここにおられたら、ラザロは死なずに済んだでしょうに」と。愛する弟を失って気も動転していたのかもしれません。主イエスを愛する思いが強ければ、また主に対する期待も大きかったに違いありません。しかし、死は誰にもいつか必ず訪れるものだという事を、この悲しみの中で彼女らは知らなければなりませんでした。そして、その悲しみの中にイエスが来て下さるのだという事も知らなければならない事でした。死への備えが出来ていなかったとき、悲しみも大きかったのです。けれども、彼女たちのその悲しみの中に主が来られ、立って下さるときに、死を超えた新しい視野が開かれ、与えられるのです。死によって隔てられた愛する者たちと交わりを回復する、その接点にイエスが立っておられるのです。「死ななかったでしょうに」という嘆きの中に留まるのではなく、信じる者を「死んでも生きる」道へ召してくださるお方が、この限りない悲しみと痛みの中に共に立って下さるのです。イエスはマリアが泣いているのをご覧になって、彼女の悲しみをご自分の悲しみとして下さったのです。「イエスは涙を流された。」とある、聖書の中で最も短い文節に、愛する者の痛みと悲しみを分かち合って下さる主の憐れみの深さを感じます。わたしたちは悲しみの只中に主が共にいて下さることを改めて知り、慰めを得、励まされるのです。
11月5日 「死に向かい合う」
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
 「死は勝利にのみ込まれた。
  死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
  死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
コリントの信徒への手紙(一) 15章54〜55節
死とは人間にとって永遠の謎かも知れません。しかし、わたしたちは必ず死ぬのです。安易な答えを無理に出す必要はありません。確かな足どりで死は近づいているのですから、その時にわたしたちははっきりと、よく知ることが出来ます。死について多くの人が語っていますが、その中でドイツの詩人リルケの言葉がわたしたちの心を惹きます。
「死とは、わたしたちに背を向けた、わたしたちの光の射さない生の側面である。」
もしそうであるならば、死を一つの契機として光の当たる生の側面を見ることも可能なのではないでしょうか。パウロが言っている「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき」がその時であろうと思われます。「その時」とは、わたしたちがキリストに結ばれて新しく生かされる時に他なりません。わたしたちは死に向かい合う時、信仰がなければ、光の射さない生の側面だけしか見ることが出来ません。けれども、キリストに結ばれて初めて、わたしたちは光の射す生の側面を見ることが出来るようになったのです。わたしたちは十字架に向かい合います。そこでこそ、主の栄光の輝きにこの身をさらすことが出来るのです。
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11月6日 「望みに生きる」
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
テサロニケの信徒への手紙(一) 4章14節
イエスのことを思い起こすとき、わたしたちには十字架の死の悲しみだけが残されているのではない、イエスの復活の喜びもまた与えられているのだと知ることが出来ます。わたしたちが信じているのはそのような十字架に死に、復活なさったイエスなのです。シュラッターという聖書学者は、「神の恵みは死とともに終わるのではない。イエスが死んで復活されたことは、信じる者すべてにとって確かなことである。神は彼を死に委ね、死から命へと導き出すということをされた。それをわたしたちが信じるなら、神はわたしたちも同じように扱われる。」と言っています。
わたしたちは主イエス・キリストを信じ、すべてを神に委ねる信仰に生きています。すべてが神のみ手の中にあるということがわたしたちの平安の源です。それゆえに、愛する者をそのみ手に委ねることが出来たのです。別れの悲しみも、わたしたちにとって主にあって再会の望みへと変えられて来たのでした。それゆえ、わたしたちの彼らへの愛と主に対する信仰において、すべて神に委ねることが出来たのですから、たとえ最後の審きがあるにせよ、神の手にすべて委ねられてあればこそ、キリストに結ばれている者たちにとっては、そのみ手の内にあって再び会い見えることが出来るという望みにつながれるのです。ですからパウロは、「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」と、前置きしてこの言葉を語ったのでした。
11月7日 「生きるにしても、死ぬにしても」
わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
ローマの信徒への手紙 14章8〜9節
「生きているときと、死にさいして、あなたのただ一つしかない慰めは何ですか?それは、生きている時と、死にさいして、わたしの体と魂のすべてが自分のものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものである、ということです。」
これはハイデルベルク信仰問答書の最初の問いと答えです。そして、パウロが語る「わたしたちは主のものです。」という言葉は、そのようにわたしたちにとって唯一の慰めであり拠り所なのです。しかし、わたしたちはいつもそのことを「生きるにしても」という言葉のもとで聞き、自らの慰め、励ましの言葉として受けとめています。わたしたちの生の現実がどんなに苦しくとも、悲しみに満ち、つらいものであったとしても、わたしたちは誰のものでもない、主イエスに結ばれ、主イエスのものなのだということに生きる拠り所を見いだし、強められているのです。けれども、今日は「死ぬにしても」という言葉のもとで「主のものである」ことを喜びたいと思うのです。それはキリストの死と復活が、死んだ人にも生きている人にも主であられるためだというパウロの言葉に励まされるからです。わたしたちは生きるにしても、死ぬにしても共に主のものであるという、その事実のもとでみ言葉を聞き、賛美をあわせるのです。そして、マラナタ(主よ、来て下さい)と、再び来たりたもう主を待つ望みをより一層豊かにされるのです。
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11月8日 「内実が問われている」
外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく・霊・によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。
ローマの信徒への手紙 2章28〜29節
ユダヤ人である、ただそのことだけで自分が特別に優れている者であるかのように思い上がっている人間に、パウロは内実の伴わないその生き方がマヤカシである現実を鋭く追求するのです。ユダという名は本来、主を誉め称える、という意味を持っています。けれども、そのすばらしい名に反してあなた方は主を汚しているのではないか、名は内実を伴うものである筈なのに、実をないがしろにして名に安んじるというのは偽善ではないかと、パウロの批判はまことに厳しいものです。しかし、わたしたちはそこにユダヤ人ならぬわたしたち自身の姿をかいま見るような思いがします。自分だけは何か特別な者ででもあるかのように思い上がっていて、言うこととすることとの大きな隔たりも気にかけようとすらしないで、何でも自分の思うとおりになると信じている、そのようなわたしたちのおぞましい姿が見えるような気がするのです。見かけばかりにこだわって内実をおろそかにする人間の罪がユダヤ人の名で審かれているのです。それに対してパウロは、外見ではなく、文字ではなく霊によって心に施された割礼の真実さというものを求めるのです。神が問われるのは花ではなく根であり、うわべではなく心なのです。そして、神が求めておられるのは打ち砕かれ悔いる心です。そして、その心を神は虚しくはなさらないのです。
11月9日 「雲の柱・火の柱」
主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
出エジプト記 13章21〜22節
エジプトを脱出したイスラエルの人々が目指したのは、約束の地、「乳と蜜の流れる地」でありました。自由と平和、愛と慈しみの地を目指して彼らは遂に奴隷の地、苦渋に満ちたエジプトを後にすることが出来ました。けれども、彼らの前途には荒野を行く旅の苦難、そして後方には性懲りもなく、未練がましくイスラエルの人々をエジプトに留めようと追跡するファラオの軍隊が迫っていました。彼らの心の中は旅の苦難に耐えがたい思いにうながされて、過去を恋い慕う未練と前途への希望とが葛藤し、より一層不安を増し加えていたのでした。彼らの旅路はまるで現在のわたしたちの人生の縮図にも似た姿を見せてくれます。順境の時には恵みを忘れ、逆境の折りにはまるでこの上もない悲劇の主人公にでもなったかのような嘆きを見せるのです。しかし、このような人々もまた神の選びの中でこの地から彼の地へと導かれて行きます。彼らを導き出したのは神なのだということ、このような者たちでも神は共に歩んでいて下さるということが証されるために、神は昼は雲の柱、夜は火の柱を立てられるのです。それは彼らの道しるべとなり、彼らを守る防壁ともなるのです。米田豊牧師はこう言います。「信仰ある者には前に道が開かれ、後ろからの敵からは守られる。不信仰な者は神と自分の間に困難を置くが、われわれは敵や困難とわれわれとの間に神がいますことを信じる。」
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11月10日 「目は常に主に」
わたしはいつも主に目を注いでいます。
わたしの足を網から引き出してくださる方に。
詩編 25編15節
「涙と共にパンを食べた者でなければ人生の味はわからない」と言ったのはドイツの詩人ゲーテです。人知れず流す涙の味を味わいながら生きる、人生の本当の味はそういうところにあるのだと言っているのです。「人はみな草のようだ」と預言者が語るように、花の命は短く、そして秋霜の日は長いのです。わたしたちはここで「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。」と嘆く一人の詩人の声を聞きます。楽しみも苦しみも、誰とも共に分かち合えない孤独の嘆きがここにあります。このようなとき、彼の目ははどこに向けられているのでしょうか。たとえ他に悩む者、苦しむ者を見出し、あそこにもわたしと同じように苦しむ者があり、ここにも同じように悲しむ者がいると知っても、だからと言って彼の悲しみや苦悩が軽減されるわけではありません。バルバロ訳によると「わたしは孤独な、不幸な者」となっています。自分を孤独と言うだけでなく不幸だと思う心があるのです。そこに孤独の底知れない深さというものがあるのです。この世でわたしほど不幸な人間はいないと思う、ああ、それはこの詩人だけのことでしょうか。わたしの心にも、あなたの心にもこの嘆きが溢れてくることがあるのではないだろうか。しかし、その最大の不幸の中でこの詩人は言うのです。「わたしはいつも主に目を注いでいます」と。彼は不幸の中に沈潜するのではなく、そこから引き出して下さる主に望みをつないでいるのです。では、わたしたちの目は果たしてどこに向けられているのでしょうか。
11月11日 「弁護者キリスト」
わたしの子たちよ、これらの事を書くのは、あなたがたが罪を犯さない様になるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
ヨハネの手紙(一) 2章1節
呼びかけの言葉には、呼びかける人のさまざまな思いがこめられています。ヨハネが「わたしの子たちよ」と呼びかけるとき、その言葉には深い愛情と親しみがこめられていました。相手がどんな状況にあるのか、決して平穏で心豊かな人生を送っているわけではないであろうという事を感じ取り、理解と同情をもって相手の身近に心を寄せていこうとする思いが溢れています。この手紙を書くのも、あなたがたが罪を犯さない様になるためだと、思いやりと期待をこめて語っているのです。わたしたちはこういう言葉を通して、自分が何であれ、あるがままに受け入れられていることに気づかされます。そればかりでなく、不完全な者が過ちを犯す可能性さえも受け入れられている事、しかもその様な者を弁護するお方がいるのだと励まされていることにも気づかされるのです。「たとえ罪を犯しても」というのは、被告席に立たされ、責められるだけで救いのない窮地に立ち往生する様な事があってもという事です。味方は誰一人いないと思う、その不安な魂の傍らにキリストが弁護者(パラクレートス)となってくださる、(パラクレートス)とは「助け、執り成してくれる人」です。この方のゆえに決して見捨てられる事はないと励まされるのです。あるがままのわたしをこのように受け入れ、助けて下さるお方の愛の中にわたしたちは支えられ、生きていることを思えば、如何なる苦難にも耐える力が湧いてくるのではないでしょうか。
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11月12日 「隣人を思う心」
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
ガラテヤの信徒への手紙 5章13〜14節
「秋深き 隣りは何をする人ぞ」 芭蕉の有名な句ですが、何か秋の深まりの中の憂愁に満ちた思いを歌っているかのように思われます。しかし、芭蕉はそのような何となく人恋しい思いを句に託してこれを詠んだのではありませんでした。芭蕉にとって、秋は彼の人生の夕暮れ時でありました。隣り人を思う彼の目には見えてこない人の姿の代わりに、彼は孤独な自分の姿を見つめ、旅先に人生の終わり、死を迎えようとしている自分自身に思いを深めていたのでした。
芭蕉はこの句に続いて、「この道や 行く人もなし 秋の夕暮れ」と詠み、それから、十数日の後にこの世を去って行ったのです。
隣り人を思う心はこのようにいつも自分自身へと返ってきます。そこにどのような自分を見出すのか、わたしたちも人恋しくなるこの季節、もう一度自らを振り返って考えてみたいものです。「わたしの隣り人とは誰のことですか」とイエスに問うた律法学者のように、わたしも人を愛することが出来ない自分を正当化しようと試みるのか、それとも、孤独で空虚な心に温かな愛や優しさ、いとおしさを取り戻し、共に命を分かち合いたい思いに生きようとする自分を再発見出来るのだろうか。「隣り人を自分のように愛しなさい」とは、隣り人を思う心の中に、どのように自分を見出したら良いかを教えてくれる戒めであり、言葉でもあると言えましょう。
11月13日 「新しい掟」
愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたがすでに聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。
ヨハネの手紙(一) 2章7〜8節
主イエスが、「子たちよ」と呼びかけて教えられたのは、「あなたがたは、わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛しあいなさい」という戒めでした。ヨハネはそのことを思いだして書いています。愛しあうとは、お互いが光の中で相手を見いだすことなのです。愛するとは、人間にとって自明のことのようでありながら、愛されること、互いに交感することなしには現実とはならないものです。サーチライトのようにどんなに明るく相手を光芒の中にとらえても、自分自身を光の中に浮きあがせることがなければ、闇の中からただ目を光らせている野のけもののようなもの、孤独な存在にしか過ぎません。パウロは「愛はすべてを完成させる絆です。」と言っていますが、愛とは心と心を結ぶ絆なのです。お互いの目の中に相手を捉えること、そして光の中に共にいることの確認なのです。ヨハネは「互いに愛し合いなさい」というイエスの戒めは今も生きている、それは永遠に新しい戒めなのだと言うのです。闇の中でただ独り目を光らせているような愛は愛ではありません。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるように、既に光の中に生かされておればこそ、互いに愛し合うことが出来ます。愛とはまず「光の中」に生きることなのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり」とヨハネは言います。それは神と共にあり、恵みの中に生かされている、その明るさを示しているのです。
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11月14日 「神の真実に託す」
神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。
ローマの信徒への手紙 4章15節
創世記は12章でアブラハムの召命を語り、新しい祝福の民の始まりを語っていますが、なぜアブラハムが選ばれたのか、そのことには触れていません。けれども、召しに従う者に対する神の約束は変わることがなく、その確かさにおいて神は真実を示して下さいます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」と召しを受けたとき、彼はヘブライ人への手紙に「行く先も知らずに出発したのです。」と書かれていますように、新しい未来へ向けて大きな冒険の旅路に出たのでした。しかしそのためにには余程の勇気を必要としたことでしょう。「信仰の父」と仰がれるアブラハムです。わたしたちの模範となるだけの人物として尊敬されるにふさわしい行動をとっただろうと思われますが、しかし、わたしたちが考えるのとは全く違ったイメージを創世記の記事がわたしたちに与えることに驚かされます。彼は妻サライ、甥のロト、蓄えた全財産、そして仲間に加わった多くの人々と共に旅に出たのです。自分のまわりに、自分で作った多くの確かさを伴って出かけたのです。それらが未知の世界への旅立ちに必要だと考えたのでしょう。しかし、この新しい旅路において彼は、それらが本当は無力であり、ただ神の約束のみが確かで真実であること、信頼し、拠るべき者は他にはないことを知るようになるのでした。行く先々で祭壇を築き、神の名を呼んだのはそのことを物語っています。希望するすべもないときに、なお望みを抱いて信じることが出来たのも、その約束の確かさの故なのです。
11月15日 「99才になった時」
アブラムが99才になった時、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしはあなたとの間にわたしの契約をたて、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。
創世記 17章1〜2節
なぜ99才になった時でしょうか?アブラムと妻サライの間にはまだ子はありません。側女ハガルに生ませた子イシュマエルがいます。しかし正嫡ではありません。もう13才になっています。イスラエルの習慣によれば、13才は成人となる年齢なのです。しかし、イシュマエルはアブラムの後を嗣ぐことは出来ないのです。そして、アブラムは正しく後を嗣ぐべき者がないまま99才を迎えてしまいました。99才という年はもう望みが無いというべきアブラムの哀れな状況を物語っているのではないでしょうか。せめてイシュマエルに後を嗣がせることが出来るならば、という思いがアブラムの脳裏を駆け巡っていたことでありましょう。しかし、それは望んでも適わぬことでありました。彼がこの時においてもなお子が与えられると神を望んで信じていたのかどうか、それはわたしたちの理解を超えています。少なくとも彼とサライの間に子が生まれるなどとはもはや考え得ないことではなかったでしょうか。99才とは彼の断念の時を示しているのではないかと思われます。しかし、その時に神は彼に語りかけて下さったのです。「わたしの前に正しく歩め。あなたに未来を約束する」と。人の断念の時に、神の新しい時が始まります。アブラムが、ではなく、神が彼との間に契約を立てられるのです。壁を突き破って下さるのは神なのです。
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11月16日 「神の宝となる」
今、もしわたしの声に聞き従いわたしの契約を守るならばあなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
出エジプト記 19章5節
エジプトを出たイスラエルの民が、さまざまな苦しみを味わいながら、しかしようやく三月目にシナイの荒れ野到着したとき、モーセは山に登り、神の前に立ちました。そこで神は、「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れてきたことを。」とモーセに語りかけます。神が如何に真実な方であり、恵み深い方であるかをモーセは思い知らされます。その神の真実さがイスラエルの民に神との契約・約束を守ることを求めさせるのです。ヨハネはその手紙の中で、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、み子をお遣わしになりました。」と言っています。神が愛して下さった、その愛に応えるのがわたしたちの愛です。神の真実が示され、わたしたちの真実がそれに応える、そのことこそ神との契約を成り立たせる最も大切な要件ではないでしょうか。神が見せて下さった真実にイスラエルの民が真実をもって応えることが契約を守るということでありました。そのように神に応答する者を、神は「わたしの宝となる」と言われるのです。神がご自分の宝となさるのは民の真実なのです。16世紀、日本にキリスト教が初めて伝えられたとき、「愛」は「大切」という言葉で言い表されました。キリストに結ばれた民は「神のお大切」、つまり、神の愛によって生かされる者でありました。神の真実に応える者を神はご自分の宝として大切にして下さり、愛して下さるからであったのです。
11月17日 「二つの信頼と服従」
イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここに在りますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」二人は一緒に歩いて行った。
創世記 22章7〜8節
この情景は親子の親しげな、ほほえましい姿を映し出している様に見えます。けれども、言葉では表現出来ないような重苦しい、心の中の闘いがその背後に隠されています。たった一人のわが子を犠牲に求める神への複雑な思い、信頼と服従の間にある極度の緊張、父アブラハムのその張りつめた心のなかをうかがうかのように「どこに献げ物の小羊がありますか」と問うイサクの言葉。それに対して「きっと神が備えて下さる。」と答えるアブラハムの苦悩。ここには神への信頼と父への信頼、神への服従と父への服従という二つの信頼と服従が重なり合っています。見方によっては虚々実々と言ったきわどい駆け引きが語られているようにも見えましょう。けれども、その様な複雑な絡み合いのなかで父と子は一緒に歩いて行きます。父は神への信頼の中に、子は父への信頼の中で一緒に歩いて行くのです。父も子も理解しがたい不条理な状況を、お互いに愛と信頼で受け止め、しっかり結ばれて行くのです。二人は別々に歩くのではありません。同じ道を共に歩みます。それはまるで神が共に歩んでいて下さるかのようです。アブラハムの神への、イサクの父へのお互いの信頼と服従が重なり合って行く、そこにヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)が実現するのです。
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11月18日 「赦しに生かされる」
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。7回どころか7の70倍までも赦しなさい。
マタイによる福音書 18章21〜22節
人間が人を赦すとき、どこまで赦したらよいかなどという問いが、実際にわたしたちの周囲にあるでしょうか。むしろ、赦せない思いが重くわたしたちを支配しているのではないでしょうか。そして、うらみ・つらみを墓場まで引きずって生きているのがわたしたちの現実に他なりません。以前、札幌で一人の老牧師が車にはねられて死亡するという悲しい出来事がありました。息子は、彼もまた牧師でありましたが、父親を死なせた車の運転者を赦し、警察に寛大な措置を願ったのでした。赦された人は咎められ、責められる以上に自分自身の犯した行為の恐ろしさを味わい知ったに違いありません。しかし、また同時に赦されるということの本当の厳しさも恵みと共に理解し得たに違いありません。「主よ、どこまで赦したら良いのですか」などという問いは、今のわたしたちにはありません。赦されることの厳しさと、その測り知ることの出来ない愛の深さをよく知らないからです。自分の罪の深淵を覗き込んでこそ、赦されることの本当の意味と、その厳しさがわかってくるのです。罪は死なず、生きているのです。だからこそ赦しによって罪から解放されなくては人は生きられないのです。交通事故で老牧師を死なせた人が生きる道は、十分に賠償することで可能となるようなものではありません。その罪を赦されてこそ生きられるようになるのです。息子の牧師が求めたのは、その人の罪の償いではなく、新しく生きることでありました。
11月19日 「神の痛み」
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
わたしは黙していられない。
わたしの魂は、角笛の響き、鬨の声を聞く。
エレミヤ書 4章19節
紀元前597年、北の大国バビロンからの激しい攻撃によるエルサレム陥落に先立って、預言者として召されたエレミヤはユダの人々に、北からの脅威は人々が神のみ心に背いたからだとして、その背信を責め、黙すことの出来ない苦しみを切々と語るのでした。エレミヤの苦しみは預言者として語らなければならない苦しみだけではありませんでした。彼は自分の苦しみの中に、背反の民のために悲しみ、痛む、神の苦しみを感じとっていたのでした。
沖縄の方言の中に「わたやむん」という言葉があります。お腹が痛むということです。それは文字どおりはらわたが痛むということなのです。この痛みの表現の中には実に切実な思いがこめられています。神の痛みもまた同じように「わたやむん」という切実さを持っていたのではないでしょうか。エレミヤが感じ取っていたのはそのことであろうと思われます。安逸に終止符が打たれ、滅亡の道へと歩みつつある民の運命を、最も悲しみ痛む思いを持って見つめておられたのは神であったのです。その神の悲しみと痛みこそが、罪の内に滅びようとしている者を救おうとなさる憐れみと愛として十字架の上に実現したのではなかったでしょうか。十字架の上に痛み苦しまれるキリストの姿の中に、わたしたちは神の痛みと愛とを見ることが出来るのです。
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11月20日 「わたしは主を愛する」
わたしは主を愛する。
主は歎き祈る声を聞き
わたしに耳を傾けてくださる。
生涯、わたしは主を呼ぼう。
詩編 116編1〜2節
おそらくこの詩編の作者は若くはないでありましょう。過ぎし日々を脳裏によみがえらせ懐かしむ年老いた一人であるかも知れません。もう間もなくその生涯も終わろうとしている、死の綱、陰府の脅威にさらされていて明日への望みも尽きかけているやに見えます。しかし、そのようなときにも、主はわたしの嘆きに耳傾け、その祈りを聞いて下さる、主はそれほど身近にわたしに触れて現在したもうのだ、主は共にいます、過ぎし日も、また今この時も神はわたしと共にいて下さるのだ、だから、わたしは生涯主を呼び、主の名を呼ぶのだ、と彼は歌うのです。神は遠い存在ではない、今も身近にわたしに臨んでいて下さる、その神への思い、感謝が彼をして「わたしは主を愛する」と歌わせているのです。そして、人生の様々な節目において、神の恵みに生かされてきた、その感謝の思いの中で神に愛されてきた確かさを、もう一度心に蘇らせるとき、彼は神の愛に応えて彼もまた神を切に愛するようになるのです。わたしはただあなたへの愛の中にのみ生きるのですと、告白せざるを得なかったのです。この詩編を読みながらわたしたちもまた主の恵みを数えつつ、心から溢れる感謝の思いを、主を愛する愛へと繋いで行きたいものだと思います。
11月21日 「わたしはあるという者」
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
出エジプト記 3章14節
イスラエルの民を救い出す使命を与えられたモーセですが、その出発には多くの不安がつきまとっていました。アブラハムの場合もそうでしたが、神の召しはいつも未知の世界への旅立ちを伴います。そして、どんなに備えたとしても自分に頼り切ることが出来ない不安がつきまとうのです。モーセが神の名を問うたと書かれていますが、どのような名であったらイスラエル人は納得してくれるのでしょうか。そのイスラエル人でさえ自分たちの神の名をいつのまにか見失っている気配があります。神は最初モーセに現れたときに、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と言っています。それなのに、モーセはイスラエルの人々に伝えるべき「名」を尋ねています。それは、モーセの後ろ盾となっているのは何なのかを彼らが知りたがるからだと言うのです。苦しんでいる人々にとって、エジプトを出て何処へ行くとしても、何処であっても彼らは寄留の民であり、安住の場所はないと不安を募らせるばかりです。確かさを求める心が神の名を問わせるのでしょう。モーセの問いに対して神は答えられます。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。「ある」という確かさを持つ神が後ろ盾なのです。新しい明日へ向けて旅立つ者を本当に支えて下さるのは、この「ある」という神なのだというのです。モーセの不確かさ、イスラエルの民が抱く不安を吹き去るように神は「ある」と言われるのです。
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11月22日 「弱い者に託される神の力」
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」
出エジプト記 4章10節
モーセが神に召された時、その使命の重さを感じて恐れたのかひどく躊躇して、すぐにその召に応じようとしませんでした。その口実を聞いていると謙遜と逡巡が入り混じっているように思えます。わたしたちも謙遜を美徳と考えて、とかく「ふさわしくない」という口実で遠慮っぽく装うことが多くあります。「ああ主よ。どうぞだれかほかの人を見つけてお遣わし下さい。」「いやです」と拒否するのではなく、そちらで適当な人を探して下さいという、都合のよい逃げ口上なのです。そういうモーセに神は怒りをぶつけられます。多分、神はわたしたちの似た様な装われた謙遜に対しても怒りをぶつけられるに違いありません。神の愛が頑ななわたしたちの心を包んで下さるとしても、信仰深い顔をしながら勝手なことを言っているわたしたちの本性に、怒りをぶつけないままで済まされるはずもない、と考えざるを得ません。その怒りがもし十字架の上に現されていたとしたら、そう考えるだけでもイエスの死を自分の罪のゆえであるとせざるを得なくなるのではありませんか。しかし、神はその様な者さえも召して救いの業を成しとげられるのです。「召された時のことを思い起こしてみなさい」と書いたパウロの心には、キリストに激しく背いていた者であったにもかかわらず、また知恵も能力も十分にあるとも思えない者でさえ、神はそのような者を召して救いのみ業に与からせて下さったという感動があったに違いないのです。
11月23日 「わたしは主である」
わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。
出エジプト記 6章2〜8節
「わたしは主である」と神がモーセに告げられたのは、神の召命を受けてイスラエルの民をエジプトから解放しようと王の前に立ったモーセが、いとも簡単にあしらわれ、かえってイスラエルの苦役を増やす結果になり、民の前にも面目を失い失意の底へつき落とされた時でありました。「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」(口語訳詩編50編15節)と言われる神は、この様なときにこそ「わたしはあなたたちの神となる。わたしがあなたたちの神、主である」と告げられ、力づけて下さるのです。「主」とはこの世的には支配者であり、所有者であり、モーセの時代ごく普通の神を尊称する言葉に過ぎなかったでありましょう。エジプト王は「主とは一体何者なのか」とからかっています。しかし神はイスラエルを救うことによって彼らの神となり、主となると言われるのです。わたしたちもイエス・キリストによって神がわたしたちの神となって下さった恵みに招かれ、強められて苦難に対することが出来る様にされています。挫折、失意の底に沈んでいる者に神は「わたしは主である」と呼びかけ、励まし、力づけて下さるのです。そして、神のこの言葉によってわたしたちは立ち直ることが出来るのです。
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11月24日 「主はわたしの歌」
主はわたしの砦、わたしの歌。
主はわたしの救いとなってくださった。
御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。
主の右の手は御力を示す。主の右の手は高く上がり、主の右の手は御力を示す。
死ぬことなく、生き長らえて、主の御業を語り伝えよう。
詩編 118編14〜17節
教会暦の最後の主日は「終末主日」と呼ばれます。夜であれば、闇が最も深まるときです。けれども、この闇の深まりの後には新しい希望の日々が訪れるのです。暦が一枚めくられれば、そこから待降節(アドベント)が始まるのです。アウグスチヌスに魂の覚醒をうながしたあのフレーズ、「夜は更け、日は近づいた。」その時の到来です。わたしたちにははるか彼方から、既に、「荒野に呼ばわる者の声」が聞こえてきているのではないでしょうか。もう苦難の時は終わったのです。希望に満ちた光への道が開かれて、わたしたちを招いているのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」
出エジプト記を通してわたしたちは、イスラエルの民が神の偉大な力と恵みによって奴隷の地から解放され、望みのもとに新しい命を神の前に生き始めたことを教えられます。神が共にいて下さるということの素晴らしさ、それは信仰者のみが知ることが出来る恩寵の事柄であるということが出来ます。そこから本当の讃美が生まれてきます。わたしたちも勝利の歌を歌いましょう。イスラエルの民が神の手によって救われたように、わたしたちをキリストによって救って下さる神を讃美しましょう。
11月25日 「イザヤの召命」
主は言われた。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな。よく見よ、しかし悟るな、と。この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、悔い改めていやされることのないために。」
イザヤ書 6章9〜10節
預言者イザヤが神の召を受けたとき、あたえられた使命を語る言葉です。預言者は神の言葉を伝える為に召されるわけですが、それは、民が心を翻して神に従うようになるためだと、普通わたしたちはそう考えます。けれども、イザヤはそれとは全く逆に、民の心をかたくなにするために神の言葉を伝えよ、と命じられるのです。預言者は語ることによって民の頑迷さの前に立たされ、そして、滅び行く民の悲惨な厳しい現実を見つめ続けなければなりません。
「主よ、いつまででしょうか。」イザヤはそう問わずにはおれません。よく言われることですが、預言者的精神とは現実の誤った姿を鋭く追求し、神の正義を宣明していくことだと、そして、わたしたちに求められているのはそういう精神なのだと、怠惰な魂に警鐘を鳴らす声があります。そのとおりでしょう。けれども、それは徹底した敗北と崩壊のときに至るまで継続するものなのだという重い宿命を担っていることを承知していなくてはならないのです。
「この民の心をかたくなにし」と言われています。預言者的に生きるということは、こういう民のかたくなな心の前に立ちすくむことでもあるのです。召命とは実に重く過酷なものだと言わざるを得ません。
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11月26日 「手を見せるイエス」
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
ルカによる福音書 24章38〜40節
手を見せたとありますが、それはどういうことでしょうか。体の一部を見せて存在の確かさを示した、ということだろうと思います。しかし、一般にわたしたちの間では人に自分の手を見せるということはないものです。なぜならば、それは何も隠すことはないというゼスチュアだからです。自分の心の動きを相手に知られないために、手は見せないものなのです。しかし、復活のイエスは弟子たちにご自分の手をお見せになりました。恐れている弟子たちにあるがままの姿を示すためでありました。何も隠すところのない、開かれた心をお示しになったのです。イエスは弟子たちに自分の手だけを見せたのではなく、そのお心をあけ広げてお見せになり、裏も何もない、そういう真実な姿を見せることによって弟子たちの不安や疑い、恐れを解消しようとなさったのだと思われます。ここにご自分のすべてを与え尽くそうとなさるイエスの愛の真実が現れています。自分の手を見せず、心を開かないでいるわたしたちに対して、手を見せ心を開かれるイエスがいます。他者との間に不信を抱き、緊張と警戒の心を取り去れないでいる人間と、他者に本当の安心と平和をもたらして下さるイエスがいます。手を見せて下さるイエスに、わたしたちも心を開き、身を委ねて行く、そこに真の平安を見出すことが出来る喜びを味わいたいものです。
11月27日 「思いをはるかに超えて」
わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
エフェソの信徒への手紙 3章20〜21節
パウロの讃美はわたしたちの内側に働かれるお方へ献げられています。わたしたちの内側でどのような力が現実に働いてわたしたち自身を生かしているのか、そのことを考えてみたいのです。自分の力ではない、自分の知恵や才覚でもない、自分自身の精神力というようなものでもありません。わたしたちがかく生き得ている不思議の源を考えて見ようではありませんか。そこに、わたしたちが考え、求め、期待することをはるかに超えて働いている力があることに気づかされるのです。北米シヤトルのある教会の壁に、作者のわからないこのような詩がピンで留められてありました。
  わたしは神に力を求めた。
   しかし、与えられたのは弱さだった。謙遜になって従うことを学ぶために。
  わたしは神に富と豊かさを求めた。幸せになるために。
   しかし、与えられたのは貧しさだった。賢く生きることを知るために。
  わたしは神に能力を求めた。人間を讃美するために。
   しかし、与えられたのは無力さであった。神を必要とすることを知るために。
  わたしは求めたものは何も得られなかった。
   しかし、わたしの望んだものはすべて得られたのだ。
  本当に生きる喜びを知り、言葉にならなかった祈りが聞かれたからだ。
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11月28日 「キリストの内にとどまる」
しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
ヨハネの手紙(一) 2章27節
危機的な状況はいつもわたしたちの周囲に、お互いの相互不信を生みだし、争いを起こし、まとまりを損なって行きます。教会もこの世とその点では何も変わるところがありません。真理を語り、愛を強調しながら、逆らいがたく否定しえない説得力をもってわたしたちの中に入り込んでくる力があります。しかし、何よりも明らかなことは、その様な力はキリストの名を用いながら、キリストではなく、何処までも人間を語ろうとしていることです。ルターは「悪魔はつねに親しみ深い人間の姿をもって近づいて来る」と言っています。その目的はキリストからわたしたちを引き離すためです。詩人ボードレールは「悪魔の策略は、神はいないと思わせることだ」と言うのです。偽善はいつもエビス顔で近づいてくるということです。こうした悪魔の策略に対抗するためにはしっかりとキリストに結びついていなければなりません。そのためには始めから聞いていたこと、キリストの愛のなかに結ばれていることをしっかり知って、神に愛されている者としてキリストにとどまっていることが大切なのです。まわりの流れに押し流されないで踏みとどまって生きることほど難しいことはありません。けれども、その労苦を通してわたしたちは祝福されるのです。キリストにとどまり、つながっていることによって、その人は実を豊かに結ぶことが出来からなのです。
11月29日 「輝かしい勝利」
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。
ローマの信徒への手紙 8章37節
どのように言葉を費やそうとも語り尽くせず、如何なる言葉でも表現しきれない、キリストに結ばれ、キリストの命に生かされている者の喜びと讃美がパウロの口から迸り出、溢れてきます。今生きる苦しみや悩みの中においても、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」とまで言わせるのです。
「すべての人間は恩寵の工場である。そこで神は絶えず働いている。」(ヴィエジャン)
神が共に働いていて下さるのだという確信、神がわたしの味方に付いていて下さるのだという自負心、パウロにはもう恐いものはないのです。わたしは神に愛されている者だ。キリストによって人生の真の勝利者となったのだ。パウロは少々興奮しているかのようです。パウロの言葉は彼の心を、彼の喜びを、彼の真実をわたしたちに伝えてくれます。それだけではありません。彼の確信がわたしたちの心にもキリストに結ばれた者の確かさとなって具体的な感動を呼び起こすのです。ですから、パウロの言葉を聞くわたしたちもまた興奮してくるのです。肉に生きる苦しみと悩みの中で挫折を味わい、望みを失い、底知れない悲しみの淵に沈んだ者が、今、キリストに結ばれて神の愛に生き、希望に生き、喜びに生きる者として新しい命の中に甦ってくるからなのです。「すべてのことにおいて勝ち得て余りがある。(口語訳)」この勝利の賛歌をパウロと共に高らかに歌い上げる者となりたいと思います。
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11月30日 「時が満ちて」
しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。
ガラテヤの信徒への手紙 4章4〜5節
「時が満ちると」という言葉には、人間の歴史全体にわたって働いていたもう神の摂理が反映しています。わたしたちの目にはそのようには見えないさまざまな紆余曲折の中に、神は働いていておられるということが、この言葉によって確かめられているのです。ただ神が働いておられるということだけでなく、この日のために神は十分に備えておられたのだ、ということが確かめられているのです。わたしたちの個人的な人生の歩みにおいても、さまざまな曲折があり、悲しみがあり、苦しみがある時、到底それが神の導きの中にある人生だとは思えないような時でさえ、神はわたしたちが真実にキリストに出会う日のために備えていて下さったということを、パウロはこの「時が満ちると」という言葉に託して語っているのです。そして、わたしたちがキリストに出会うとき、あの詩編の作者が「苦しみにあったことは、わたしに良いことです。(口語訳)」と歌ったように、すべてのことが喜びと感謝に変わることを経験するのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなり、光の中に新しい命を生きることが出来るようになるからです。時が満ちて、新しい時の始まりにわたしたちは立たされます。わたしたちの目は神の子の誕生の時へ向けられます。夜、野で羊の群れの番をしていた羊飼いたちが、幼子を求めて立ち上がり、歩み始めたように、わたしたちも彼らのように立ち上がり、新しい時を歩み始めようではありませんか。