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日々の聖句

[8 月]

8月1日 「苦しみに学ぶ」
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。(口語訳)
詩編 119編71節
苦しみに会うことがない人生などというものはありえないでしょう。仏典は人間の現実としてまず苦しみを教えることから始まっています。わたしたちの人間的課題というのは、こうした生の苦しみを如何に避けるかにあるのではなく、如何にそれを克服して行くかということにあるのではないでしょうか。イエスはご自身が苦しみを受けて栄光に入ることを示されて、弟子たちに対して「勇気を出せ」と、苦難に向かう心構えを説かれました。使徒パウロのよれば、苦難は忍耐から練達を経て希望に至る道です。わたしたちは信仰によってキリストの苦難に与る者とされています。苦しみに会うごとにつぶやき、いたずらに嘆いていてはキリストの栄光に与ることは出来ません。苦しみに会ってわたしたちに必要なことは、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」、しっかりと現実を受け止めることなのです。克服の道はそこから開かれるでしょう。万事を益となるようにしてくださるお方への信頼を失ってはなりません。旧約の詩人は「わたしは苦しまない前は迷いました」と歌っています。苦しみことによってかえって迷いから脱却し得たのです。苦しみことによって彼は真に依り頼むべき者を見いだしたからなのです。彼は苦しむことによって信頼を自分のものにしました。だから、「苦しみ会ったことは、わたしには良いことです。」と歌うことが出来たのでした。あなたも、キリストに結ばれて生きるとき、このように苦難を喜ぶ者となることが出来るはずなのです。
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8月2日 「日毎の糧を与えたまえ」
あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタイによる福音書 7章9〜11節
イエスは、神が求める者に対して何を与えて下さるか知っていました。人間の親でも、子供が求めるものに善いものをもって応える事を知っています。まして神が人間の求めに応えるとき、善いものをもって応えて下さらないはずがない、とイエスは指摘しているのです。そこには神への深い信頼が息づいている事がわかります。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と、今日、この命を支えてくださいと祈る心に、神への信頼がなければその祈りほどむなしいものはありません。ですから、この祈りから始まるわたしたち自身に関わる祈りは、何にもまして神への信頼に根づいていなければならないのです。「人はパンだけで生きるものではない。」と言い切ってしまえば、まるでパンなしにも生きられるかのように錯覚してしまいます。しかしイエスは「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、神と人との確かな心の交わりを抜きにしていのちはないと知っています。イエスにとっては「神のみ心を行なうこと」が彼の糧でありました。今日生きるに必要な糧を求める祈りはみ心の実現に深く結びついている事を忘れてはならないのです。ですから、わたしが今日生かされているということは、とりもなおさず、神が今日わたしにみ心を実現して下さっている確かな証しとなっているのだと知らなければならないのです。
8月3日 「思いやるイエスの姿」
そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ。もう3日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
マルコによる福音書 8章1〜3節
ガリラヤ湖のほとり、小高い丘の上でイエスの周りに多くの人々が集まっていました。イエスはこの人々のことを思いやられています。彼らの病や心の問題ではなく、3日も一緒にいて食べるものがなくなっている状況です。イエス自身にも空腹は及んでいます。けれども彼は人々の空腹を思いやられるのです。しかし、弟子たちはこの群衆に食べさせるためには多くの費用もかかろうし、またこのような辺鄙な場所ではパンを手に入れるのも難しいと、素早く計算し、可能性のあるなしをはかろうとします。イエスの温かな思いやりと弟子たちの冷たい理性とがここで大きく食い違ってきます。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに申します。「ここに大麦のパン5つと魚2匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスの空腹な人々への思いやりがここでは無視されて、人間的な計算が、打算と言っても良いかも知れません、先に立つのです。けれどもここで、「大切なことは、わたしが神に対してどうあるかではなくて、神がわたしに対してどういうお方であるか、ということである」と言ったカール・バルトの言葉を思い起こしたいものです。空腹な人々を思いやるイエスの姿の中に、無力で為すすべもなく立ちつくす者へ向いていてくださるお方の姿を見るからです。
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8月4日 「眠り」
朝早く起き、夜おそく休み、焦慮してパンを食べる人よ、それは、むなしいことではないか。主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。(新共同訳)
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。(口語訳)
詩編 127編2節
ある漫才師が「考え出すと眠れなくなる」という台詞でよく受けていたことがありました。眠れなくなるような思い煩いというものがあります。いつも何かに追われているような気ぜわしい生活を送っていると、いつの間にか本当の落ち着き、心の安らぐ時を持つ事なしに日を過ごしてしまうのです。しかし、眠れない夜を過ごす苦しみを味わうわたしたちにとって、神は夜をわたしたちの不安と焦燥のサロンとしてではなく、眠りと休息のベッドとして備えてくださっていることを忘れてはなりません。「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」です。神が備えてくださった眠りの中で夜を過ごすとき、わたしたち自身を眠りに託すとき、わたしたちは神の愛の手の中に身を委ねているのです。それはまた、目覚めているときには見ることの出来ない神の隠れた働きに自分を委ねることにもなるのです。自分を委ねることの出来ない者は眠れなくなります。そして、神のなされる働きの不思議を見ることも出来ないのです。地にまかれた種が芽を出して育って行くのは、昼と夜の経過の中なのです。しかし、誰にもそのプロセスを見分ける事は出来ません。けれども、「主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられる」のです。
8月5日 「ひとりでに」
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
マルコによる福音書 4章26〜28節
イエスは神の国の現実はこうなのだと一粒の種の成長になぞらえて語ります。しかし、わたしたち自身は自分がどれほど成長しているのか、また人に対して働きかけた業がどれだけの実りをあげているのかいつも気にしています。気になればなるほど思うようにいかず、焦ってみたり落胆したりもします。中国の古い話のように、植えた桃の苗の成長をじっと待つ事に耐えられず、根付いたかどうか、日が経つごとに苗木を抜いてはその成長ぶりを確かめようとして、ついには枯らせてしまうような事をする、そのような不安にいつも駆られているわたしたちです。「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」とイエスは言われます。わたしたちは昼の間、見えている間だけしか確かさがないと思いこんでいるかもしれませんが、見えない夜の間も成長は続いているのです。わたしたちの知らない間に、目の届かないところでも、しっかり育っているものがあることを知らなければなりません。イエスが、種の成長に託して語る神の国の現実は、何もかも自分の手の内に確かさを求めずにはおれない人間の不安な心に、神にすべてを委ねて生きるより所を与え、身近なところに備えられている確かな平安へとわたしたちを導いてくれるのです。「土はひとりでに実を結ばせる」のです。ひとりでに結ばれた実に平安を実感したいものです。
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8月6日 「信仰に生きる」
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。
ヘブライ人への手紙 11章6節
神に喜ばれる生き方というものがあるという事をこの手紙の著者は強調しています。それは、神を信じて生きる事なのだと言うのです。「信仰がなければ」というのは、神の確かさに生きるのでなければということです。そうでなければ神に喜ばれないのです。その信仰は、神はご自分に近づき、求める者に必ず報いてくださると信ずることなのです。箴言に「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」という言葉があります。信仰に生きるということは、自分の分別に頼らずに、神の確かさに信頼して歩むということに他なりません。そうでなければ神に喜ばれないのです。「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」と言われているのもそこに理由があります。この11章には神の確かさに生きた多くの人々の名前が記され、神を愛し、神に近づいた者たちがどのような生き方をしたか、そして、神がこれらの人々と共に働いて、どのようにすべてを益としてくださったかが語られているのです。しかしわたしたちはどうでしょうか。まるで神がこの世にはおられないかのような生き方をしていながら、口では信仰を語ることが多くはないでしょうか。そうではなく、本当に神がいますことを確信し、神の確かさの中に自分の人生のすべてをかけて生きて、神を喜ばせたいものです。神を悲しませてはなりません。
8月7日 「辛抱して待ちなさい」
兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。
ヤコブの手紙 5章7〜8節
ヤコブは試練を耐え忍ぶ者の幸せを語ろうとしています。ある聖書学者はここで「忍耐」とある言葉を「辛抱しなさい」と訳しています。国語辞典に依りますと、「辛抱」とはつらさをこらえて忍ぶことだとされています。ヤコブがここで農夫を引き合いに出しながら辛抱を説くのは、農夫に大地の実りを待つ望みがあるように、わたしたちにも主が来られる時を待つ希望があるからなのです。辛抱には希望がついています。辛抱して待ちなさい。これが様々な矛盾をはらんでいる現実社会において生きて行くキリスト者の生き方ではないか、ヤコブはそう教え、訴えるのです。辛抱は信仰によって確かとされ、寛大で大きく広い心へとつながれて行きます。なぜなら、キリストに結ばれて生きる者は上の方の一点で、柱時計の振り子のように、しっかり支えられているからです。どのように大きな揺れが来ても、どのようにその振幅が大きくても上でしっかり支えられているから安心です。下から支えられているときは、地が激しく揺れ動くとき、そこに立ちすくみ、しゃがみ込んでしまうわたしたちですが、上から支えられているとき、身を委ね、安心して、自由に大きく揺れることにも不安はありません。その安心を頼りに主の来られる時を待ち望みなさいとヤコブは言うのです。信仰による辛抱は希望につながってきます。そして、閉ざされているかに見える壁を越えて新しい命の道が開かれてくるのです。
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8月8日 「所在」
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。
ヨハネによる福音書 14章1〜3節
イエスは弟子たちに一つの約束を与えられました。それは彼らのおるべき場所を与えるということでありました。その約束がイエスの死後弟子たちにとって自らの死を越えた希望となりました。けれども、この約束は死後の世界にのみ関わることであったわけではありません。イエスは「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と言われました。それは、生と死を超えて、イエスと共に在る事を意味している言葉なのです。このようにイエス・キリストに結ばれるということの中に真の救済が成就するのです。ですからイエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われるのです。アダムとイヴは禁断の木の実を食べて楽園を追われる身となりました。人間はその時から本来の「おるべき場所」を失ってしまったのです。わたしたちの心が常に騒ぎ、不安を禁じ得ないのは、真実の「おるべき場所」を持っていないからです。罪がそれを失わせ、不安の源泉となりました。しかしイエスは、ご自身の十字架においてわたしたちの罪を砕き、わたしたちの真に「おるべき場所」を備えてくださったのでした。人間が自己を回復し、自分の所在を見いだすことが出来るのは、イエスと共にある、その「場所」しかありません。
8月9日 「赦し」
わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
ルカによる福音書 11章4節
「パンに関する祈りと罪の赦しに関するこの祈りとの間には、そして≠ニいう言葉が横たわっていて、パンなしに生きる事が出来ないと同様、人はこの祈りなしに生きる事が出来ないという事が示されている。」(福田正俊)
イエスが「人はパンだけで生きるものではない」とサタンの誘惑を退けられた時、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と示されたことをここで思い起こします。マタイが「負い目」と訳し、ルカが「罪」と訳したもとのアラム語「コバー」は、神に服従しない事によって負う「負い目」であり、「罪」なのです。その負い目から解放されなければ人は本当には生き得ないのです。パンが肉体を支えるものならば、赦しは霊を支え心を支え、人を生かすということが出来ましょう。負い目がその人にとって拘束であるように、赦しはその人を解放し、自由を与えます。その自由なしには真に人は生き得ないのです。そして、自分の罪の赦しを祈りもとめる時、わたしたちは他者の拘束の上に生きる事を許されてはいないという事を知るべきです。わたしの拘束から他者が自由になる時、初めてわたしも自由にされるのです。ですから、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。」と言わなくてはならないのです。マタイが「しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」と、説明的な言葉を付加しているのも、そこに理由があるように思えます。
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8月10日 「新しい人」
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
エフェソの信徒への手紙 4章22〜24節
パウロは「古い人」に「新しい人」を対比させて語ります。古い生き方が滅びに向かっているのに対して、新しい生き方は「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長してい」き、命へと向かうのです。キリストとの出会いが人を新しくします。心の深みまで新しくされる経験が伴って、人は新しく生きるようになるのです。そこでは心底からの悔い改め、つまり、生の方向転換、質的転換が経験されるのです。新しいと言っても、気分を変えるとか、あるいは俗に言われる「河岸を変える」と言ったようなことではありません。スペイン語では、たとえば「新しい家」と言う場合に2通りの表現があります。「新しい」が前につくと、それは新しく移ってきた家であり、実質、古い建物であっても新しい家なのです。しかし、「新しい」が後につけば、その家は全く新しく建てられた家、新築の家なのです。キリストに結ばれて新しく生きるというのは、つまり、後者の新しさに他なりません。パウロが「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と、コリントの人々に書き送った通りなのです。8月15日、敗戦の日が近くなっています。戦に敗れる厳しく痛い経験を通してわたしたちは新しくなったはずですが、果たしてその悔い改めは実を結んでいるのでしょうか。戦争によって受けたアジアの人々の痛みはまだ続いているのです。
8月11日  「それでも人生にイエスと言おう」
わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
コリントの信徒への手紙(二) 4章8〜10節
ナチス・ドイツの恐るべきユダヤ人強制収容所の絶望的な状況の中で生きぬいてきた精神科医ヴィクトール・フランクル博士はインタービューに答えて、彼はその中で、恐ろしい収容所の地獄の様な生活を振り返りながら、ブーヘンヴァルトの収容所の中で囚人たちが作り、その中で歌われた一つの歌の歌詞を紹介してくれました。
「我々の行き着く先が何であろうとも、それでも人生にイエスと言おう。再び自由になる日まで」
「ユダヤ人の存在こそ神が現存する確かな証しである」と言った人がありますが、想像を絶する苦難の道を歩む人々の姿の中に、もし、神の実在を見ることが出来るとするならば、それは、このように生きることへの限りない希望、信頼と確信をもたらす心の拠り所となっているものを指し示しているに違いありません。「苦しい時の神頼み」と半ば皮肉まじりにわたしたちの間で語られる事があるにしても、わたしたちをあらゆる苦難のどん底において支え、生きる望みにつないで下さることが出来るのはこのお方しかないことを知る、その恵みに与かることが出来ることを、キリストは自らその十字架の苦しみにおいて教えて下さったのではないでしょうか。パウロはそのことを知っています。そして、「キリストに結ばれて」という一語にこめて救いの確かさと、望みに生きる命の恵みの神秘を語るのです。
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8月12日 「伝うべき事」
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。
ペトロの手紙(一) 2章9節
イスラエルの歴史において「出エジプト」の出来事は民族の救いの事実として今に語り伝えられています。聖書ではイスラエルの民の脱出をくいとめられず、後を追った王の軍隊が紅海の水に巻かれて潰滅して行ったと伝えられていますが、しかし、エジプトの歴史の中ではイスラエルに関する記録は何一つ残っていません。みじめな敗北の思い出は消されている、と言えるかもしれません。映画監督の大島渚が「大東亜戦争」というドキュメンタリー映画を作ろうとした時、戦争後半になると日本側のフィルムがほとんど無くなっているのに驚いたと言っています。そして、「戦争においては、勝っているときだけ映像を持つことが出来るのである。敗者は映像を持つことが出来ない」と言っています。残っているのは勝利者の記録であって、敗者の記録はない、あるいは消されてしまうのかもしれません。わたしたちには戦争の忌わしい思い出は早く消えて欲しいという思いと、それを忘れてしまったらまた同じような戦争を起こすのではないか、という恐れもあります。しかし、わたしたちが忘れてならないことは、「救いの出来事」つまり、「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業」をこの世に正しく伝えて行くことではないでしょうか。わたしたちはこの世では常に勝利者ではありえないかも知れません。けれども、キリストに結ばれてもたらされる真の勝利があります。そして伝うべき事があるのです。
8月13日 「彼は死してなお語る」
信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。
ヘブライ人への手紙 11章4節
アベル、この名は息とか虚しさを表しています。アダムとエバの二人目の子供として生まれ、しかし兄カインによって殺されてはかない生涯を終える、そうした人間の名前として記憶されています。しかしヘブライ人への手紙の著者は彼を信仰に生きた人として語っています。そして「アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。」とわたしたちに告げるのです。アベルという名には人生の虚しさがつきまといます。しかし、それにも関わらず彼の名において信仰に生きる者の栄光が語られるのです。人生の虚しさも、死によってもたらされるより深い絶望も、信仰に生きる者の姿の中に影を薄め、そこではこの世の虚しさに打ち勝って、神様の確かな支えと、神を愛する者に報いて下さる恵みの豊かさが高らかに唱い上げられているのです。しかし、どんなに信仰深く、神への信頼に生きていても、不幸な結果を招いたのではその信仰は意味を失うのではないか、おそらく誰もがそう考える事でしょう。この手紙が書かれた時代、厳しい迫害の中でキリスト者たちの中にそういう疑いが起きたとしても不思議ではありません。それに対して著者はアベルはカインよりも優ったいけにえを神に捧げ、信仰によって正しい者と認められた、アベルは信仰に生きた、彼の信仰を神は受けて下さったのだ、虚しく、不幸な生涯のようでありながら、信仰に生きる者の祝福を、彼は今も、死んでも語っているのだと言って励ましているのです。
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8月14日 「互いに祈り合いなさい」
あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。
ヤコブの手紙 5章14〜15節
「信仰の祈りは病人を助ける」とヤコブは語ります。わたしたちが祈って助けるのではありません。神がその祈りに答えて下さり、病める者を助けて下さると言うのです。病んでいる者を助けて下さいという祈りに神は答えて下さるのです。ですから祈りは愛なのです。祈りにおいて愛が実現するのです。神は病める者を通してわたしたちが神に祈ることを求めておられます。神はわたしたちの祈りに答えようとして待っていて下さいます。わたしたちの愛が祈りにおいて神に届くとき、神はその愛に報いて下さり、神ご自身が働いて下さるのです。ですから、わたしたちは病む者のために祈らなくてはなりません。ヤコブは長老たちを招いて祈ってもらいなさいと言っています。それは教会の交わりの中で祈ってもらいなさいということなのです。個人の信仰の祈りではなく、キリストに結ばれている者たちの交わりの中にある信仰の祈りが必要なのです。ですからわたしたちはこの交わりを大切にしなくてはなりません。キリストに結ばれて共に生かされているそのしるしを、互いの祈りの中に生かし、病む者のために、苦しむ者のために、わたしたちみんながそこに共に生かされている、というしるしを互いの祈りの中に見いだして行かねばなりません。預言者イザヤも救い主について予言し、「まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った」と
語っています。互いに祈り合うことの中に主の愛の姿を映し出したいものです。
8月15日 「キリストはわたしたちの平和」
実に、キリストはわたしたちの平和であります。
エフェソの信徒への手紙 2章14節
「実にキリストはわたしたちの平和であります。」とエフェソの人々に書き送ったパウロは、「平和」という言葉が意味するものを次のようにまとめて語っています。「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
キリストにある平和というのは、対立が解消され、敵意というものがなくなって、和解が成り立ち、新しい調和のとれた状態が回復されるということに他なりません。それは、人間と人間の間の事柄であるよりは、むしろ神と人との関係なのだと教えられます。人間同士の対立と抗争に苦しめられているわたしたちが見落としていること、あるいは見失っていることがここにあります。キリストの十字架が、彼の苦しみと死とがわたしたちに神との平和をもたらしたのだ、そのことがまた人と人との間の平和の根拠なのだとパウロは語るのです。宗教改革者カルバンは「キリストが神と人との間の平和であるというのは、キリストに与えられる優れた尊称である。それは、だれでもキリストにある限り、自分が神の恵みのうちにあることを疑わないためである。」と言っています。平和という言葉を語るとき、わたしたちはそれがキリストに結ばれて初めて本当の意味を持ち、神の恵みの中に生かされている幸いを味わっているのだということを認識しなくてはなりません。
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8月16日 「慰めの時の訪れ」
こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
使徒言行録 3章20節
敗戦の時からすでに半世紀を越える年月が過ぎました。そして今、平和な日々を楽しむことが出来るようになったわたしたちですが、それでも8月は様々なかたちで戦争の災禍を思い起こすことが多々あります。アジアの他の国々の多くの人々を苦しめ傷めて来たことが深い悔恨の思いと共に甦って来ます。またわたしたち自身も戦争によってどれほどの悲しみを味わってきたことか、今もなお消えさることのない心の傷跡を新しく見つめ直さねばなりません。8月は悔い改めを語り、平和への誓いを新しくするべき月なのかも知れません。しかし、わたしたちはその痛みと悲しみの中で語りかけられている新しい命の言葉を確りと聞きとどめて置かなければなりません。
洪水の後、ノアに虹をもって新しい希望をお示しになった神は、罪の悲惨の中にある人間にキリストの十字架による罪の赦しと、彼の復活によって新しい命をもたらして下さったのです。神殿においてペトロはイエス・キリストによってもたらされる神の慰めの時の到来について語っています。ペトロの手紙には、「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と記されています。わたしたちは深い悔い改めの心と共に、キリストに結ばれてまた新しい命に生きる事が出来る望みにつながれ、励ましと慰めを与えてくださる神の愛の中に生かされている現実を、しっかりわきまえておかなくてはならないのです。
8月17日 「キリストの苦しみに与る」
愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。
ペトロの手紙(一) 4章12〜13節
ペトロは「愛する人たち」と呼びかけています。これは「愛されている人たち」という意味である。火のような試練の中にあっても愛されていることには変わりがありません。あなたがたは見捨てられてはいないのだ、という思いがこめられているのです。この手紙の受け手たちは厳しい迫害の嵐のさ中に身をさらしていました。「火のような試練」とはそのことを指しています。けれども、そのような厳しくつらい状況におかれていても、その試練を何か思いがけない事のように驚き怪しんではならないと言うのです。主イエスが言われたように、キリスト者にとってこの世では患難があるという事は自明の事なのだ。けれども主に愛されている人たちよ、あなたがたは神に愛されているのだ、キリストに結ばれているのだからこそその苦しみもあるのだ、だからキリストの苦しみに与っているという事を喜びなさい、とペトロは言うのです。ペトロは「キリストの苦しみに与る」と書いています。この「与る」とはギリシャ語では「コイノーニア」が用いられています。コイノーニアとは「交わり」の事です。リビングバイブルでは「むしろ、その試練によって、キリストさまと苦しみを分かちあえるのですから、喜びなさい。」と訳されています。苦しみにおいてキリストとの絆が深められることを喜びなさいということに他なりません。
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8月18日 「思い違いするな」
誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
ヤコブの手紙 1章13〜16節
新共同訳聖書の中の旧約聖書続編の中に「シラ書(集会の書)」というのがありますが、その15章に「『わたしが罪を犯したのは主のせいだ』と言うな。主が、ご自分の嫌うことをなさるはずがない。『主がわたしを迷わせたのだ』と言うな。主は罪人には用がないのだから。」という言葉が出てきます。何でも人のせいにする悪い傾向が人間にはあります。それを神にまで持って行くというのはなお罪深いと言わねばなりません。元々こういう口実というのは、そこから離れたいというところから出て来るものです。そこに留まっていたいという人がどうしてそんなことを言うでしょうか。神から離れたいから何もかも神のせいにする。教会から離れたいときは決して教会をよく言わないでしょう。ヤコブはここでそういうことのすべての原因を人間の外にある「悪魔」に求めるというようなことをしません。むしろ誘惑の原因は、それぞれ、一人一人、各人の自分自身の欲望にあるのだと言うのです。自分の欲望に支配されるところに罪が生きて来るのです。それは誰のせいでもない、自分に責任があるのだということをヤコブは言うのです。「思い違いをしてはいけません。」とヤコブが言うのは、そこのところなのです。
8月19日 「あなたがわたしを知らなくとも」
わたしが主、ほかにはいない。わたしをおいて神はない。わたしはあなたに力を与えたたがあなたは知らなかった。
イザヤ書 45章5節
歴史を動かしているのは神なのだということを一番よく知っているのはユダヤ人だろうと思います。そのことを彼らは自分たちの苦難の歴史を通して学んで来たのです。大国バビロンによって滅亡し、50年に及ぶ捕囚の苦しみの中で待ち望んで来た民族復興への大きな期待が、彼らに人知をこえた神の業の偉大さを知らせたのでありましょう。新興国ペルシャの興隆、新しい支配者の出現、そのような大きな世界の変転の中に神の働きがあることを告げたのは第二イザヤという預言者でした。バビロンを滅ぼす力をペルシャ王キュロスに与えたのは神なのだと言うのです。力と力の攻めぎあいの中に、力弱き民ユダヤの救いと再生の道が備えられているという、その不思議を見ている預言者の言葉なのです。口語訳では「あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」となっています。神を知らない者をも用い働かれる神のみ業の力強さが語られているのです。この言葉はわたしたちの思いをはるかに超えて神がその愛する民のために備えて下さる恵みを示しています。そして、わたしたちが知らないところでも働いておられる神のみ業への確かな信頼をわたしたちにもたらしてくれるものと言えましょう。この地上の権力者たちは力が強い者が勝つのだと思いこんでいます。しかし、その背後において神が如何に働いておられるのか彼らは知りません。夜の闇が深まる中で、すでに朝の訪れが近づいているように、神は人の思いを遥かに越えて歴史の中で働いておられることを悟らねばなりません。
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8月20日 「神と共に歩んだ人」
エノクは65歳になったとき、メトシェラをもうけた。
エノクは、メトシェラが生まれた後、300年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。
エノクは365年生きた。
エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。
創世記 5章21〜24節
エノクは神と共に歩む人でありました。見知らぬ人と共に歩んだのではありません。エノクは神を知っていましたし、神を愛していたのです。彼にとって神のいない人生など考えられないことでありました。しかし、それはエノクのひとりよがりの人生であったわけではありません。神もまたエノクのいない世界など考えられなかったに違いありません。神が共にいて下さることを知っている人生。そこに神と共に歩む道が開けてくるのです。神を知っているからではなく、むしろ神に知られているからこそです。神を愛しているからではなく、神に愛されているからこそ、神を愛することが出来たのです。神が共に歩んで下さるからこそ、神と共に歩むことが出来るのです。エノクのこのような生き方をヘブライ人への手紙の著者は「信仰によって」と語り、そして、その信仰によって神に喜ばれたと書いているのです。創世記によりますと、エノクの人生は他の人に比べるとその半分もありません。父ヤレドは962年、息子のメトシェラは969年生きたとされています。エノクの人生は365年です。比較すれば、短く儚い人生だと言えなくもありません。けれども、エノクは神と共に歩んだ人として語られ、その人生にいつも神を見いだしていた、むしろ充実した人生を過ごした人として語られているのです。
8月21日 「エクソドス」
見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
ルカによる福音書 9章30〜31節
高い山の上で弟子たちは不思議を見ました。イエスの姿は光り輝き、モーセとエリヤが現れてイエスと語り合っていたのです。神秘の衣に包まれたこの出来事はわたしたちの理解を超えています。しかし、福音書は大事な事を伝えています。モーセとエリヤは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた」と言うのです。この時がイエスの生涯の折り返し点であるならば、そのゴールはエルサレム、そして、エルサレムで遂げる最後とは、彼の死であります。先に弟子たちに予告した事が、ここではモーセとエリヤによってイエスに語られていたのでした。神のみ心に従えば、人間的には非常に悲しく厳しい事態を迎える事になります。しかし、そのことこそが神のみ心であるならばしっかりとその事態を迎える心構えが出来ていなくてはなりません。「最後」と訳されている言葉は原典では「エクソドス」となっています。エクソドスとは「出発」という意味の言葉です。ここでは遠回しに死について語っているとして「最後」と訳されていますが、この言葉はイスラエルの人々がエジプトの奴隷の地から解放され、新しく約束の地へ向けて旅立った歴史的な出来事を表してもいます。人間にとって最後と言えば死を考えるよりないのが本当でしょう。けれども、ここではその「最後」が「出発」という言葉で表現されている事に注目したいと思うのです。イエスにとっては「最後」が「出発」であったという事です。
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8月22日 「自分で自分を裁かない」
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
コリントの信徒への手紙(一) 4章3節
パウロの言葉はいささか開き直りが過ぎはしないか、そんな感じがしないわけではありません。けれども、パウロはキリストに仕える者として全き信頼と従順を示そうとしています。使徒としての自覚は「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」として「忠実」であることを求めます。「忠実」はピストスです。つまり、ピスティス(信仰・信頼)なのです。その信頼は、「あなたがたの父は、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」という主イエスの言葉に裏打ちされているのです。主の前にすべての事は明らかであるという信頼が、一見して過度の開き直りとも思える言葉を語らせているのです。自分で自分の事は裁かないと言うのも、自分を棚上げする事ではなく、むしろ、主の裁きにすべてを委ねる心から出ているのであって、自分の知恵に頼って良い悪いと言う評価を自分に下さないのだと言っている訳なのです。神に召されて宣教のわざに従う者として、人の評価を気にすれば、神に喜ばれようとするよりも人に喜ばれようとする道を選びましょう。自分の知恵に頼る判断も同じ誤りを犯します。ある哲学者は「懺悔とは、もはや自らに何をも教えようとしない心だ。」と言いましたが、パウロは主に対する忠実さにおいて、もはや自分の知恵に頼ることを放棄し、そうした思惑のすべてを捨てるのです。世間からどう思われようとも、自分でどう思うにしてもすべては神のみ心の中にある、その信頼が自分自身をすら自ら裁く事をしないと語らせているのです。
8月23日  「信仰を増して下さい」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」
ルカによる福音書 17章5〜6節
「信仰を増してください」と願う気持ちは、いつも苦しみに耐えられなくなっている時、一つの決断が求められている時、自分の弱さに思い悩む時に強まって来ます。自分の信仰が強かったらこの苦しい坂も何とか乗り越えられるのだけれども、という思いがいつも問題を抱えているわたしたちに湧き上がって来ます。それは同時に、自分の信仰の弱さや、自分自身の無力さの弁護にまわる思いでもあります。そして何事にも言い訳が先立ったり、言い訳したい思いがわたしたちの心の中に充満して来る時は、実は既にわたしたちは信仰の領域の外に出てしまっているのだということに気づかなければなりません。ですから、そこで「信仰を増してください」と願うのは、本当は、「信仰のうちに留めてください」と願うという事に他ならないのです。自分の弱さの中であげる悲鳴だと言えるかもしれません。そういう悲鳴をあげる者にイエスは答えて、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言われます。ちっぽけで取るに足りないと思い、だからもっと信仰が大きく強くあればと思うわたしたちなのですが、その小さな信仰においてもキリストにつながれているならば、その小さなつながりを通して、人の思いをはるかに超えた大きな神の力が発揮されるのだとイエスは教えられたのです。「主は乏しい者の祈をかえりみ、彼らの願いをかろしめられない」と詩編102編にあるとおりです。
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8月24日 「楽園への復帰」
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
ヨハネによる福音書 6章51節
キリスト教が禁止されていた時代、人々はキリシタン、つまり、キリスト教徒が人の生き血をすすると言って恐れたそうです。多分ミサで用いるブドウ酒の赤い色が、何も知らない人々の目を見はらせ、それを飲む者に対して怖れの感情を抱かせたのでありましょう。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。」と言われたイエスの言葉も、また人々の心を畏怖させるものであったに違いありません。キリシタンは人の肉を食べ、血を飲むと。今、わたしたちの時代にはそのような怖れはありません。けれども、その肉と血がもたらす「命」への関心もまた薄らぎ、失われつつあるのではないでしょうか。天地創造の昔、、エデンの園においてアダムとエバは禁断の木の実を食べ、その罪の故に楽園から追放されました。その追放の真の理由は、禁断の木の実を食べ知恵を得た彼らが、命の木から実を採って食べ、永久に生きるようになるという神の怖れにありました。そして、人間は土から創造されたものとして、土を耕すことの中に自分の命を見いだすようにされたのです。けれども今、神はイエス・キリストによって、かってアダムとエバに対して拒否された命の木の実をわたしたちに与えようとなさるのです。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」とあるようにです。わたしたちはキリストによって命の木の実を食べることが出来る、つまり、エデンの園に帰ることが出来るようになったのです。神はわたしたちが永久に生きることをもはや恐れられません。
8月25日 「隣人」
彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。
ルカによる福音書 10章27〜29節
この聖句の後に、よく知られた「善いサマリア人」のたとえが続きます。主イエスは「わたしの隣人とはだれですか」との問いに対して直接答えないで、「善いサマリア人」のたとえを語られました。追い剥ぎに会い、半殺しにされた人を道ばたで見いだした祭司もレビ人も、関わり合いになることを恐れて避けて通ります。しかしサマリア人は彼を助けました。イエスは「誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったのか」と問うています。わたしたちは「善いサマリア人」のようになることが求められている、と理解しています。けれども、その結論を出すのを少し待って欲しいのです。「隣人とはだれか」の問いから、主イエスは隣人になった人の事を語ったのです。隣人とはいつも助けられなければならない対象である、というようには限定出来ないのです。むしろ、このたとえでは助ける側の人間になることが隣人となることとして理解されています。「隣人を自分のように愛する」という事の答として、自分が隣人になるという事が語られているのです。ですから、お互いに隣りあって生きている事を知る、そこから初めて「互いに愛し合う」ことの具体的な実践が始まるのだと主イエスは教えられているのではないでしょうか。
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8月26日 「キリストに結ばれて生きる」
キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちによろしく伝えてください。わたしと一緒にいる兄弟たちも、あなたがたによろしくと言っています。すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしくとの事です。
フィリピの信徒への手紙 4章21〜22節
手紙の結びの小さな挨拶の言葉から、その時代の人々のおかれていた状況を垣間見る事が出来るように思えます。パウロの時代、もうすでに相当の人々がキリストを信じる者となっていただけでなく、その中にローマ皇帝の家に仕える人々も多くいたという事実が浮かびあがって来ます。身分もさまざまであったように思えます。しかし何よりも彼らはローマ皇帝に仕える者として強い制約を受けていたにちがいありません。キリスト者でありながら皇帝に仕えることには相当の困難があっただろうと想像されます。けれどもその困難の中で彼らはキリスト者でありつづけたわけです。おそらく迫害のときには最も身近に、多くの危険にさらされる苦しみを味わった事だろうと思われます。そのような人々がパウロに託して挨拶を送り、聖徒の交わりの中にある喜びを確かめあっていることは注目に値します。現代ふうな考え方からすれば、権力側に生きる者たちとしてマイナス評価されてしまうだろう人々、しかし、それにもかかわらずキリストに結ばれている者として[聖なる者]と呼ばれていることには、いかなる状況においてもキリスト者として生かされる道のある事が示されているのではないでしょうか。「皇帝の家の人」と言えば、また高貴な人であることも予想されます。けれども、彼等もまたキリストに結ばれた者として等しく、苦しみも、痛みも、共に分かち合う思いで挨拶を送っていることを心に留めたいと思います。
8月27日 「神を信じた人・ノア」
ノアも、神様を信じた人です。将来の出来事について、神様から警告を受けた時、洪水の兆しなど何一つなかったにもかかわらず、その言葉を信じました。そして、時を無駄にせず、すぐに箱舟の建造に取りかかり、家族を洪水から救いました。神様を信じたノアの態度は、当時の人たちの罪や不信仰に比べて、ひときわ輝いています。この信仰の故に、ノアは、神様に受け入れられたのです。
ヘブライ人への手紙 11章7節(リビングバイブル訳)
神が世界を創造なさったとき、そこには満足と平安がありました。しかし、人間が罪を犯し、世界に無秩序がもたらされたことが神をひどく悲しませることになりました。神の悲しみの故に世界は破滅の危機に立たされたのです。けれども、その危機に臨んで一条の光が射し込んできます。「しかし、ノアは主の好意を得た。」と創世記は伝えています。ノアは神と共に歩む人であったのです。共に歩む者を見いだされた神はノアに望みを託されたのです。そして、滅ぶべき世界に新しい望みを持たれたのでした。神はノアのその生き方に、人類の、世界の未来を賭けられたのです。失望し、破滅させ、滅ぼしてしまおうとなさった世界に、それにもかかわらず、新たな希望を託されたのは、そこに神と共に歩む者・ノアを見いだされたからです。破壊と滅亡の悲惨な運命の中に、新しい命を芽生えさせるチャンスが、神が共に歩む相手、同伴者を見いだされたところに生まれました。神と共に歩む、神が共にいて下さり、共に歩んで下さる、この道にしか新しい世界の明るい未来は開かれては来ませんでした。神と共に歩む人、神への深い信頼に生きる人こそ、神が共にいて下さり、共に歩んで下さって、新しい明日を期待される人であるに違いありません。
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8月28日 「神を知る者」
神を知らぬ者は心に言う「神などない」と。
人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
詩編 14編1節
口語訳聖書では「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」となっています。しかし、神を知らないということは「愚か」という言葉で言い表すにはあまりにも厳しく、忌まわしい現実を伴っています。わたしたちは「神などない」という言葉がいつも、悲しく、悲惨な出来事を背景にして絶望的な響きをこだまさせながら、わたしたちの心に突き刺さってくることを多く経験しています。そして、望みを失った暗い世界では、自分の手元の確かさだけを頼りに、世と人への不信を募らせ、救いのない悪しき道へと踏み込んで行くのです。そして「神などない」という言葉は、彼等のもっとも良い言い訳、口実となるのです。詩編の詩人はそういう人のことを「神を知らぬ者」と呼んでいるのです。しかし、パウロは逆に「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」と言っています。キリストの故に神の恵みの豊かさに触れ、味わうそのすばらしさを、このように語っているのです。「神などない」と言って虚しくなる者と異なり、神の恵みのすばらしさを知って、生の充実を味わうのです。そして、パウロが「神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」と言うように、神を知る者はまた神に知られている者でもあります。また、たとえどのような苦境に立たされ、貧しさにさいなまれ、病に苦悩するとも、キリストに結ばれている者は決して神に見捨てられてはいないことを知っています。そこにキリストを知り、神を知る知識の比べようもないすばらしさがあると言えましょう。
8月29日 「よく準備された石」
神殿の建築は、石切り場でよく準備された石を用いて行われたので、建築中の神殿では、槌、つるはし、その他、鉄の道具の音は全く聞こえなかった。
列王記上 6章7節
高橋たか子が「パリは石の街である」と書いていた事を思いだします。ヨーロッパでは古い建物ほど石の持つ重い質感が不思議な落ち着きを与えてくれる事に気づかされるのです。ソロモンが建てた神殿の大きさは奥行きが60アンマ、間口20アンマ、高さが30アンマでありました。換算すると奥行き27メートル、間口9メートル、高さが14メートルになります。当時としては相当大きな建物に違いなかったでしょうが、ソロモン自身の宮殿の方はその倍もあったと言われていますから、それに比べればそれほど大きな建物という訳でもありません。人間的権威のしるしである建物の方が神の住まいよりも遥かに大きいというのは、人間の傲慢さの見本のようなものかも知れません。しかし、列王記の記述には一つの顕著な特徴があります。神殿の工事中は鉄の道具の音がしなかったというのです。普通ならば、石工の振るう鑿の音が鋭くこだましているはずの工事現場に静けさと落ち着きがあったという事なのでしょう。それは石切り場ですでによく準備された石を用いていたからだと述べられています。建築中でさえ神の宮に漂う静けさと落ち着きは、建物が持つ石の質感によるのではなく、良く準備された、落ち着きのもたらすものであった、と言えましょう。神は静かに、人が気づかないほどの静かさで仕事をなさる(マルコ4章27節)お方です。教会もまた、良く備えられた心(信仰)によって形作られ、神の住まいにふさわしい静けさと落ち着きを備えたものとして、熱狂は相応しくないと心得たいものです。
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8月30日 「あなたは地の塩である」
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
マタイによる福音書 5章13節
人々によく知られたイエスの言葉がここにあります。ある新聞の小さなコラムの中に塩について書かれていた言葉があります。「塩は調味料、防腐剤であるという前に、まず生きるのに欠かせぬ品だ。」と言うのです。上杉謙信が敵である武田信玄に塩を贈ったという話は有名ですが、それは、たとえ敵であるとしても、生きるためには欠かすことの出来ない必要を知っていたからでしょう。「生きるのに欠かせぬ品だ。」という言葉に強く感銘します。そういうところからイエスの言葉、「あなたがたは地の塩である。」を考えますと、その言葉は、「あなた方はこの世に欠かせない者だ」と理解することが出来ましょう。イエスが弟子たちや周りに集まってきた人々へ語りかけられたことは、人それぞれの存在の重さ、命の尊さではなかったでしょうか。イエスが語られたのは、「地の塩になりなさい」ではなくて、すでに「地の塩である」ということでした。そして、もし塩気がなくなれば無用の存在となってしまうわたしたちです。塩味をどのように保つのか考えなければなりません。イエスは塩の効用を説いているわけではありません。塩は塩でなければならないことを語っているのです。わたしたちはキリストに結ばれてこの世に生きる時、わたしたちのうちに働いて下さる力によって、人の思いを遥かに越える恵みの中に生かされることを知るようになるのです。塩気とはあなたを生かす神の力、命、霊性に他なりません。
8月31日 「神を味方とする」
わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。(口語訳)
ヨブ記 19章25〜27節
わたしたちには、理解しがたい、どうしても納得できないような種々さまざまな苦しい状況に身を置かれる場合が多々あります。誤解であればまだ良いけれども、悪意や中傷によって苦しまなければならい事もあるのです。そのような状況に立たされて、逃れようもない苦しみの中で、ある時は懸命に弁解し、ある時は理由を知ろうとして必死になります。しかし、どのような試みもむなしく、手も足もでないことを知らされる時、わたしたちにどのような生き方が残されているでしょうか。何かに一切を転嫁して嘆きと呪いを交錯させ、つぶやきつつ無力に堕ちて行く者も多いのです。他方、激しく他を責め、阿修羅のごとく自分の義を振り回す者もいます。思いがけない災厄に見舞われ、その理由を見いだし得ないまま、友人たちに生き方の是非を問われて孤立したヨブ、彼の救いは何処にあるのでしょうか。答えを求めて得られないその苦しみの中で、しかし、彼は自分の絶望を神に向けるのです。ヨブの心の中に残されていた唯一の望みは、すべてのより所を失った者、自分の運命を滅ぶべきものとしてしか見いだせない者を、神は命へと取り戻して下さるという期待でありました。絶望の中で地獄に生きる者でありながら、なお神は自分の味方なのだという期待が、ヨブをして彼の絶望を神に向けさせたのです。それがヨブの義しさであり、信仰だったのです。