いろいろな話題目次 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 索引  .

日々の聖句

[6 月]

6月1日  「聖霊降臨」
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊≠ェ語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
使徒言行録 2章1〜4節
人間が創造された時、神は人間に息(霊)を吹き込まれ、そこで初めて人間は生きた者となった、と創世記は伝えています。それと同じように、キリストの教会も霊を受けて生き生きと動き出し、福音を語り伝えるようになったのです。霊を受けるということは、生かされ、能力を与えられて、具体的に生き、動くようになる事を意味しています。人間が自分の力だけで生き、生かされているのではないように、教会も自力で生き、働いているのではありません。聖霊によらなければイエスを主と告白出来ない者として召され、聖霊の助けによって生き、生かされて働く者の集いが教会なのです。主イエスを失った弟子たち、そして信徒たちはお互いに結び合い、支え合って主の後に従おうと願ったには違いありません。けれども、連帯するだけで何かが生まれ、働きが実現するというのではありません。上からの力に支えられ、強められて初めて生き生きとした命を生きるようになるのです。霊が与えるものは何か、それはなによりも「イエスは主である」と告白するようになるという事でありますし、そこからしか教会は始まらないことを確りと心に銘記すべきなのです。そして、聖霊はそのようなわたしたちが、信仰において主イエス・キリストに結ばれている者である事を保証し、証明してくれるのです。
.
6月2日  「霊に生かされる」
「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。
エゼキエル書 37章14節
主イエスは、彼の戒めを守り、互いに愛し合い、励ましあって生きる者たちに聖霊の助けを送るよう父なる神にお願いすると約束されました。この約束が実現したのが聖霊降臨の日の出来事でありました。そして、この日をわたしたちはキリストの教会が生まれた日として記念し祝うようになったのです。確かに、「教会」という形がこの時に出来たわけではありませんけれども、主はわたしたちに聖霊を送って下さり、彼と共に新しく生きる者とされ、そして、わたしたちを望みの中に生かして下さるキリストを証し、救いのみ言葉を伝えることが出来るように力を与えて下さったのでした。わたしたちはこの事実において、神が働きたもうすばらしい現実を見ることが出来るようにされたのです。人が、「わたしの望みは尽き、わたしは絶え果ててしまう」と絶望の叫びをあげざるを得ないとき、誰が彼を本当に助けることが出来、自立させることが出来るのでしょうか。わたしたちの現実は、見かけの豊かさに比べて、その内実は問題を多く抱え、困難と苦悩の中であえいでいます。けれども、初代のキリスト教徒たちはそれよりもはるかに厳しく困難な状況に立たされていたのでした。彼ら自身では開くことの出来ない閉塞された、出口のない、望みのない状況に置かれていたにもかかわらず、聖霊を送り、彼らを助け、励まし、望みを与え、キリストの証人として立たせ、新しく生かして下さったのは神ご自身であったのです。
6月3日  「新たなる旅立ち」
どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、・・・クレタ・アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。
使徒言行録 2章8〜11節
五旬祭というのは「刈り入れの祭」とか「小麦刈の初穂の祭」とも呼ばれていたユダヤの三大祭の一つです。刈り入れの日から数えて50日目に祝われる祭でギリシャ語でペンテコステと呼ばれるようになりました。この日の朝、エルサレムで弟子たちや他の信徒たちが集まって祈っていたときに彼らの上に聖霊が注がれて、それで力づけられた人々が一斉に力強くイエスはキリスト、救い主だと語り始めたのでした。11節にありますように「神の偉大な業」を語り始めたのでした。彼らが興奮して語り始めたので、多分頬も紅潮し、言葉も弾んでいたのでしょう。町の人々は、祭の祝い酒でも飲んで酔っぱらったのだろうと考えて彼らをあざけったりもしたようです。しかし、事実は全く違っていました。人々はこの時、神が自分たちの中に働いているという確かさにふれたのでした。敬愛する指導者であったイエスが捕らえられ、思いもかけないむごい十字架による死によって人々の前から葬り去られ、拠り所を失い、生きようとする望みさえも失って嘆き悲しんでいるときに、そのようなとき、そのような彼らの間になお神は生きて働いていたもうという、その確かさを彼らは味わい知る事が出来たのでした。そこに聖霊の働き、臨在があったのでした。聖霊が働くとき、わたしたちは神がわたしたちの内に働いている確かさを得る事が出来るのです。人々はその驚きに促されて、信仰による新しい旅立ちをすることになったのでした。
.
6月4日  「恵みを悟る」
わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
コリントの信徒への手紙(一) 2章12節
パウロは、「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」と語っています。その「隠されていた、神秘としての神の知恵」をわたしたちに明らかにするのは神の霊であるとも彼は語ります。イエスご自身も、「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる。」と教えられました。人間の知恵では明らかになし得ないことが、神からの霊によって初めてわたしたちの理解の内に入ってくるのです。イエス・キリストの復活、昇天のあとも、弟子たちにすべてのことがわかっていたわけではありません。十字架と復活は人間の知恵を超えた出来事でありましたから、彼らがキリストの約束に望みを託し、失意のどん底から立ち上がろうとしていたにせよ、キリストにある恵みの何たるかを明確に認識していたわけではありません。彼らはまだ人間の知恵の手の届かない闇の中にいたのです。
彼らの闇に光が射しこみ、見えないものが見えるようになり、驚きと喜びが交錯する中で顕になってきたことが、彼らの確信となり、信仰になりました。聖霊が彼らの上に降ったとき、そのことが起きたのです。そして、彼らは初めて自分たちがキリストに召され、集められ、神の恵みの器とされたことを悟るに至ったのでした。
聖霊が彼らの上に降ったことによって、教会(エクレシア)の歴史が始まりました。それは同時に、神から賜った恵みを悟ることの始まりでもあったのです。
6月5日  「御言葉に生きる」
御言葉を行なう人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。
ヤコブの手紙 1章22節
「聞くだけで終わる者になってはいけません。」とは耳にいたい言葉です。「聞き流す」という言葉がありますが、どのような良い言葉でも、あるいは意味ある言葉でも、聞き流されてはとどまるところがありません。ヤコブがここで言おうとしていることは、聞いた言葉が心にとめられることを意味していると思われます。「御言葉を行なう人になりなさい。」と言われていますが、その御言葉とは「心に植えつけられた御言葉」なのです。パウロは「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 と言っています。これが「心に植えつけられた御言葉」に他なりません。
わたしたち自身の言葉として、「聞くだけで終わる者になってはいけません。」と言う場合は、必ず、何かしなければ意味がないというように、何もしないことを責める言い方になってしまいます。そしてこの時には、何をするかがすでに想定されています。それでは実践は決して自由な行為ではなく、むしろ強いられた行ないに変わってしまいます。
ヤコブが言いたいことは、御言葉を聞くことによって促され、あたかも植えられたものが根を張り、芽を出し、成長し、花を咲かせ、実を結ぶように、その人の生活の中に形をとって来ることなのだ、ということではないでしょうか。聞くことから生み出される行動の中にこそ、本当の信仰の証しがあるのだと言えましょう。
.
6月6日  「聖霊の賜物」
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
使徒言行録 2章38節
聖霊の降臨は弟子たちに強い確信と勇気をもたらしました。イエスの復活と昇天の後も、いまだ力強く証しへと立ち上がれないでいた弟子たちや信徒集団、この人々を互いに繋ぎとめていたのは、断ち切れないイエスへの敬慕の思いであったでありましょう。五旬祭の日も彼らは集まり祈りを合わせていました。その時に聖霊が彼らに下り、そして勇気づけられ、内へ向かっていた心が外に開かれ、キリストにおいてなされた神のわざを証するようになったのです。この日、教会が生まれたのだと言われています。弟子たちは単なる信徒集団をかたち作ったのではなく、神の恵みのみ業を証する集団として立たされたのです。それゆえ教会は神からのメッセージを持っているのです。そのメッセージを伝えなければ教会は活性化しません。ペトロが「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」と人々に勧めたのも、彼ら自身が聖霊の賜を受けて力づけられた事実に裏づけられているのです。罪を赦された者たちの中に聖霊は働き、勇気づけ、恵みの賜物を具体化させます。聖霊が与えられているということは、わたしたちの小さな信仰も、わたしたち自身にではなく、神によって支えられている事を示しています。その支えにおいてこの世に福音を証しするのが教会に他なりません。
6月7日  「明日を思う心」
現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。
ローマの信徒への手紙 8章18節
「明日ありと思う心のあだ櫻 夜半に嵐の吹かぬものかわ」という歌は親鸞が詠んだ歌としてよく知られています。今美しく咲き誇っている櫻の花も、夜中に嵐が吹いて、一気に散ってしまうかも知れない、明日をあてにして今日をおろそかにしないように、という意味だといわれています。南米の人々はよく「アスタ・マニヤーナ」と言います。「また明日」とか「明日まで」という意味なのですが、一般的には「さよなら」の意味で使われています。親鸞の歌が意味するものとは反対に、彼らはいつも「明日があるさ」という楽観的なものの見方に生きているように見えます。彼らは今日をあくせく生きるのではなく、今日が明日につながっているという信頼の中でゆったりと生きようとしています。他方、反キリスト的であった哲学者ニーチェも、「心の中に未来にふさわしい像を描け。そして、自分は過去の末裔であるという迷信を忘れ去れ。あの未来の生を思いめぐらすならば、工夫し、発明すべきものが限りなくあるのだ。」と言っています。それぞれに今日をどの様に生きるかを教えてくれる言葉ではないでしょうか。しかし、パウロは今日生きることのきびしさ、苦しさに目を注いで語っています。そして、「現在の苦しみ」をやがて実現するであろう命の豊かさ、素晴らしさに比して、取るに足りないものとして語るのです。乗りこえ、克服しうるものとして、しかも、その苦しみとは比べようもない、将来現される栄光と喜びを示すものとして語っているのです。彼の目は見えない明日へと向けられているのです。
.
6月8日  「捨てて生きる」
だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。
ペトロの手紙(一) 2章1〜2節
ペトロは何もかも捨てろとは言わず、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去りなさいと言っています。それらはパウロの言葉によればすべて「肉の思い」なのです。自分へのこだわりの中から、自分への執着の中から生まれてくる思いなのです。ペトロは何もかもゴミにしてしまわないで、ゴミをゴミとして区分して捨てよと教えている訳です。わたしたちにとって難しくて実行できないような教えではなくて、良く考えたら実行できるという教えに他なりません。そして、このことを行うことによってキリストに結ばれて生きる者たちの交わりが整えられ、豊かにされると言うのです。 ペトロは、捨てきれず自分の中で肥大化するこのような「肉の思い」を捨てきることによって、新しく生まれた命を「霊」の支えのもとに生かしなさいと勧めているのですが、それは「神の力により、信仰によって守られている」からこそ捨てきることが出来るのです。「捨てて生きる」のは霊によって支えられる命なのです。パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で、「わたしたちは霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑みあったり、ねたみあったりするのはやめましょう。」と教えています。そして、捨てるべき肉の業があのゴミであるならば、霊によって結ばれる実りは愛であり、喜び、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制なのだとも教えているのです。
6月9日  「我はバプテスマされた者」
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
ローマの信徒への手紙 6章4節
「我はバプテスマされたる者なり」とは、宗教改革者マルチン・ルターの言葉です。ルターは苦しみ、悩みの時に、自分は洗礼を受けているということを何よりも大きな強い支えとしました。死ぬような思いに直面する時、彼はもう既にその死を経験してしまって、全く新しい命に生かされているのだという事を、自分の洗礼の事実によって確信するのでした。ルターにとって、洗礼を受けているという事は、神の変わらない確かな手の内に自分が支えられている保証でありました。ルターがそうであった以上に使徒パウロにとって、洗礼はキリストに結ばれて、古い人として死に、新しい人として生きる転回点であり、キリストと共に死に、キリストと共に生きる命の根拠でもありました。死と生とは対立した概念であり、一つにはなりません。わたしたちは常に死に脅かされて生きています。そのようにいつも死を前にして生きているわたしたちが、死を背後のものとして、生を前に捉えて生きるようになる、その確かさを保証するのが洗礼なのです。そして洗礼はわたしたちがキリストに結ばれている証しでもあります。ですから、「我はバプテスマされたる者なり」とは、古き自分に死に、キリストに結ばれた新しい命に生きる者であるということを、神から保証されて生かされている者の誇り高い叫びでもあります。それはまた、神の愛に生かされている者の喜びと確信に満ちた信仰の告白に他ならないのです。
.
6月10日  「テモテとエパフロディト」
テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
フィリピの信徒への手紙 2章20〜21節
「同じ思い」という事をパウロは先にキリストに結ばれている者の愛の交わりの中に生かすようにフィリピの人々に訴えていました。今ここではフィリピの人々に寄せるパウロの愛を、その同じ思いで伝える事のできる人としてテモテを派遣しようと言っているのです。「親身になって」というのは「真実に心配する」という事です。  「優しさごっこ」というドラマがありましたが、その中で母のいない家庭の少女に、大学教師の父の秘書がこう語りかけます。「あなたは優しい子やね」 「え、どうして?」「優しいという字は人べんに憂うと書くでしょう。人のことを心配する人は優しいのよ」 この優しさは「愛」に他なりません。パウロがテモテをフィリピに派遣しようとしているのは、彼こそが本当にこの優しさに生きている人だと確信しているからです。
もう一人、パウロがテモテのあとに挙げている名はエパフロディトです。彼はフィリピの教会からパウロを助けるために送られた人であったようです。パウロは言います。「彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。」エパフロディトの本当の価値はキリストに命をかけた事だと言うのです。賀川豊彦は「わたしは神の賭博者、わたしはわたしの命を神に賭けた」と言いました。エパフロディトもそうであったとパウロは言います。神に賭けた命には救いの目が出るのです。
6月11日  「思慮深い者」
そこで天国は、10人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の5人は思慮が浅く、5人は思慮深い者であった。
マタイによる福音書 25章1〜2節
マタイによる福音書は24章で世の終わり、神の審判の時の到来は何時のことか誰にもわからないと強調してきました。そして、時に応じて食物を備えることが出来る思慮深い僕は幸いであるとも言っております。その「時」の到来は決して明るくは語られてはいませんでした。ところが、25章に入ると少し様子が違ってきます。同じように終わりの時の到来は誰にも予知できないものではありますが、ここでは天国の姿として語られているのです。世の終わりの到来が、天国の光の中で語られていることを見過ごすことは出来ません。イエスは幾たびか既に天国について語ってきました。天国の到来を告げることが彼の宣教の中心でもありました。天国とは何なのでしょう。わたしたちはここで、天国とは待つものであることを教えられるのです。そして待つためには思慮深さが必要であることを教えられます。どの様な思慮深さでしょうか。 花婿の到着の時を自分の知恵で推し量って、あてずっぽうに待つだけであった乙女たち、彼女らは思慮が浅かったと言われています。けれども、何時花婿が到着しても良いように、それも長い時の経過の中で忍耐して待つことを知っていて、予備の油を用意していた乙女たちが思慮深い者と呼ばれ、花婿の到着の時、その祝いの宴に連なることを許されたのでした。悲しいことに、思慮浅かった乙女たちはその時、既に油は尽き、ともしびは消えていて、あわてて油を求めても間に合いませんでした。天国の到来を花婿の到着になぞらえ、喜びの時としてイエスは教えられたのです。
.
6月12日  「自分の心を欺くな」
もし人が信心深い者だと自認しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。(口語訳)
もし、「わたしはクリスチャンです」と言いながら、平気で、とげのある言葉を口にする人がいれば、そんな人は自分を欺いていることになります。そんな信仰には何の値打ちもありません。(リビングバイブル)
ヤコブの手紙 1章26節
ここには、自分は信仰的であると思っている人が、案外、その自分自身に対して誠実でない生き方をしている、という矛盾した姿を指摘する言葉が語られています。表向き、誰も自分は信心深いなどと思っている様子は見せませんが、しかし、他の人の信仰をあれこれあげつらう時、知らず知らず傲慢な自分の心の内を露呈してしまうことがあるものです。パウロはコリントの人々に宛てた手紙の中で、「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」と書いていますが、ヤコブの言葉は、ここでは全くパウロの言葉と同じ意味あいにおいて語られています。自分自身に対する誠実さとは、それは自分を愛することに他なりません。そのように自分を愛する如く隣人を愛するのでなくては、「わたしはキリスト者です」と言うことほどむなしいことはないばかりか、「自分の心を欺く」ことになるのです。信仰は神の真実に人間の真実をもって答えることです。その真実が失われたまま信心深さを装う人間は、自分の心さえも欺くことになり、「そんな信仰には何の値打ちもありません。」とヤコブは語るのです。
6月13日  「肉の思いに頼るな」
あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。
コロサイの信徒への手紙 2章20〜21節
パウロは、あなたがたはキリストと共に死に、キリストと共に復活させられた者、キリストと共に生かされている者である、とコロサイの人々に語りつつ、また、彼らが周囲のさまざまな声に惑わされて自信のない生活を続けていることへの批判の矢を向けます。信仰とは見えるものにではなく、見えないものに目を注いで生きることである筈です。それなのに、肉の感触に確かさを求めて生きるのはどういうことだろう。それではキリストと共に死んだ意味がないではないか、わたしたちはこの世の闇の力からキリストによって救い出された者ではないか、新しい命の拠り所をキリストに見出している者なのではないのか、これがパウロが言いたいことでありました。「肉の思い」に支配されていては本当にキリストに頼るということは出来ません。なぜなら、「肉の思い」とは肉に頼る心であるからです。その心がわたしたちを主イエス・キリストから離れさせるのです。自分の手に触れ、さわり、味わうことなしには安心が得られない、そういう不安な心を生み出すのです。自分自身の手に確かさを求めようとすればするほど不安が増してくるのが人間なのです。しかし、あなたがたはキリストと共に死に、キリストと共に生きることにおいてその不安から解放されたのではなかったのか、「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。」とパウロは強く訴えるのです。
.
6月14日  「シェマー」
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
申命記 6章4〜5節
「シェマー・イスラエル」敬虔なユダヤ教徒は毎日、必ず朝夕の礼拝の中でこれを唱えます。彼らは繰り返しくりかえしこの言葉を唱える事によって創造主である神との関わりを正しく維持出来ると信じているのです。イエスも律法の中で最も大事な事の第一としてこの言葉をあげています。すべてを尽くして主を愛する。わたしたちはこの事を自分たちの生活の中で影を薄めさせてしまってはいないでしょうか。「シェマー」はわたしたち新約の民にも日毎の祈りの中で欠かせてはならない言葉なのです。救世軍大将であった山室軍平の夫人機恵子は死の床において「神第一」と言い残したと伝えられています。わたしたちも何を第一にしなくてはならないか、そのことをしっかり考えておかねばなりません。「愛している」ことが日常性の中で、意識の上で希薄になる事をわたしたちは経験的に知っています。けれども、日毎の繰り返しの中で確かな自覚として育っていくものがあるのです。神を愛する事が第一となるように心に刻み、常に身近なものとすべき言葉がここにあります。イスラエルの民は今も「シェマー」のもとに生きています。わたしたちにとって日毎に繰り返し聞かなければならない言葉は何なのでしょうか。イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と教えられました。そして「互いに愛し合いなさい」と新しい掟を下さいました。わたしたちが日毎に繰り返し聞くべき言葉がここにあります。
6月15日  「見えなくとも」
あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
ペトロの手紙(一) 1章8節
ヨハネの手紙(一)は「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」という言葉で始まっています。多分ペトロも、主イエス・キリストを語るときは、自分の目で見たこと、その確かさを強調して語って来たに違いありません。けれども、今、遠くに離れている人々に語りかけるとき、お互いに見えないという現実において、見ないで信じ合う心の通いあいに、信仰の恵みに溢れる姿を垣間みる思いを味わっているのです。ペトロにとってはイエス・キリストを現にその目で見たという体験が力になっています。しかし、今、人々はペトロの言葉を聞いて主イエスを信じて喜んでいるのです。見るとか、見えるということだけがすべてではありません。主イエスを見たことはないけれども、彼らは聞いて信じたのです。「見ないのに信じる人は幸いである。」と言われたイエスの言葉の祝福の中にいるのです。彼らはその主を愛するのです。主イエス・キリストに心が通じるのです。ですから、苦難にさらされていても、その苦しい生活の中でも希望を持って生き得るのですし、そのような困難の中でも喜んで生きられるのです。並大抵の喜びではありません。言葉に尽くせない喜びを味わっているのです。
「今見ていなくても」とペトロは言います。見えないということは障害にはならないのです。なぜなら、信仰は「見えない事実を確認すること」だからです。
.
6月16日  「キリストを着る」
そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙 3章28節
「そこでは」とある言葉に注目しなければなりません。人種による差別もなく、身分による差別もない、性別による差別も失われている、そういう場所がここでは語られているのです。「場所」と言うと空間的な次元で捉えられてしまいますけれども、むしろ、それはわたしたちの意識の問題、信仰の具体性において見えて来る「場所」と言うことが出来るでしょう。パウロはこの言葉の前に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」と言っています。つまり、「キリストを着ている所では」という意味でこの自由な人間の実現が語られているのです。
 もう一つ別な表現をすれば、「キリストに結ばれ」ているという事になります。キリストとの結びつきがわたしたちの内に、差別のない、自由な人間の交わりを実現してくれるという事なのです。それを実現させる力は「愛」なのです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」という主の戒めが生かされる場がそこにあります。
 「馬子にも衣装」という言葉がありますが、キリストに結ばれ、キリストを着る事によって、差別と偏見に歪められている罪深いわたしたちに、「愛」による自由な人間が実現して来るのだと教えられるのです。
6月17日  「新しい自分の発見」
わたしの主キリスト・イエスを知る事のあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。
フィリピの信徒への手紙 3章8〜9節
財務会計諸表の中に「貸借対照表」というものがあります。「資産」「負債」「資本」に分かれています。
パウロは自分の過去におけるすべての業績を「資産」の中に数えています。負債が少なく資産が増えれば、それだけ彼の人生は安泰となりますから、せっせと稼いだのでしょう。氏素姓がよく、教養があって熱心であれば、なおさら彼の宗教的資産は増えるばかりです。しかし、その彼がイエスと出会った時、それまで彼が拠り所としていた価値あるものをすべて失います。キリストに出会い、彼を知る事のあまりのすばらしさに、それまで懸命に貯め込んで来た資産が色褪せてしまったからです。
 益であると思っていたものがすべて損となってしまったと、パウロはその驚きを言い表しています。天国銀行に積立ててきたと思ったものが逆に損金として処理されては破産するより方法がありません。けれども、そのことによってパウロは、行いによらず、信仰によって生かされる新しい自分を発見する事が出来たのでした。
彼の新しい口座は信仰口座としてキリストにつながっているのでした。行いではなく、信仰が払い込まれる口座です。
.
6月18日  「人間の問題」
主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
マタイによる福音書 25章21節
世の終わりの時の到来に関連してイエスが語られた幾つかのたとえの中で、天国とは、ある人が旅に出るとき、その僕たちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである、とイエスは教えられました。このたとえによれば、天国とはわたしたちが益を生み出すような生き方をするように期待されている世界である、と言うことが出来ましょう。世の終わりが来るとするなら、今更何をしたって意味がないと考えてしまうようなわたしたちですが、なおそのような時にも神は期待されている、ということを教えられるのです。イエスが世の終わりの到来について教える場合にこの天国のたとえを語られたということは、世の終わりに至るまで、人間に課せられ、期待されている課題、問題があるということを示しているのではないでしょうか。終わりまで耐え忍ぶ者は救われると教えられたイエスは、天国における報いの大きいことをここで語られているのです。終わりが来るならもうどうでも良い、好きなことをしようというような刹那主義に惑わされないで、最後まで誠実に自分の生き方を貫いて行く努力を惜しまない者に、神は豊かな報いを備えていて下さっているのだとイエスはわたしたちに語り告げているのです。阿部次郎の「三太郎の日記」という本があります。かってわたしの若い頃、懸命になって読んだものでしたが、その中に、「何を与えるかは神の問題、それを如何に発見し如何に実現するかは人間の問題である。」と書かれています。考えさせられる言葉です。
6月19日  「内なる差別」
もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」と言う最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
ヤコブの手紙 2章8〜9節
地位とか財産によって、富める者が貧しい者に優越し、社会的にも弱者が差別される構図が初代教会にもありました。何時の時代でも、どこの世界でも同じことは起きています。教会の中でもそういうことがあると、ヤコブはここで具体的に指摘し、警告しています。ヤコブは言います。「信仰は人によって分け隔てをしないものだ」と。ヤコブがここで言いたいことは、表に現れている差別のことだけではなく、わたしたち自身の内側にある差別する心の問題です。中村草田男が「与えんと欲することを事始め」という句を作りました。作者自身の説明によりますと、わたしの欠点は善意を心の中に持っているという意識だけにとどまりがちである、愛と善行を積まなければ主の前にどうして罪をのがれることが出来ようかとキリスト者の妻に指摘され、「受けること」だけに甘えてしまうまいという反省を基として「与えること」に誓って一歩を踏み出そうとした、と言うのです。善意を心の中に持っているというだけの意識。それはわたしたちにもあるのではないでしょうか。キリスト者であるわたしに差別する意識などある筈が無い、と考えているわたしたちです。中村草田男が言うように、善意を心の中に持っているという意識だけ、つまり、わたしは決して差別などしないという意識だけにとどまってしまっている、そういう現実がわたしたちにあるのではないか、という問いをヤコブの言葉の中に聞く思いがするのです。
.
6月20日  「キリストに結ばれて」
さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして 、固く結び合いなさい。
コリントの信徒への手紙(一) 1章10節
ある若い牧師が教会の中に起きた争いに巻き込まれて苦しんだ末、次の日曜日にこの聖書の言葉で説教しました。この箇所は口語訳では「お互の間に分争がないようにし」となっています。あまり安直に聖書の言葉を現実に適用するのは良いこととは思われませんが、この若い牧師にとって、ただ一つの拠り所として聖書の言葉にたどり着いたということは決して責められることではなかったと思います。教会の中においても分争があるとするならば、その解決を教会の主であるキリストへ求めていくことは当然のことだからです。パウロはコリントの教会の中におきた争いの中で、人々が拠るべき唯一の根拠を明らかにし、それによって一致するように求めています。隔てられていた者の中垣をこわして一つにして下さったキリストに結ばれている、その事実へ返る事を求めるのです。一致結束することだけが求められているのではありません。キリストに結ばれている事実への回帰が求められているのです。そうでなければキリストの十字架はどんな意味があるというのでしょうか。コリントの教会が立つも倒れるのも、すべてキリストに結ばれているか否かにかかっているからなのです。遠い昔の教会に語られた言葉は今も生きていて、わたしたちに語りかけてきます。わたしたちの信仰においてそれを確り聞きとどめ、自分の結び目が何処にあるのかを確認したいものです。わたしたちはキリストに結ばれているのですから。
6月21日  「祈るしかない」
イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
マルコによる福音書 9章28〜29節
「祈るしかない」と言うと、何か投げやりで、消極的な人生態度のようなものを感じられるかも知れません。他に何か方法がありはしないかという希望的な観測も退けられて、結局はこれしかないんだと、いささか諦めにも似た思いでたどりついた結論だと言われるかも知れませんし、最後は神に頼るしかないのかと自嘲気味に受け取られる言葉かも知れないのです。しかし、打つ手、打つ手がみんなうまく行かないで、追いつめられた最後の手段はこれしかないと、起死回生の思いで打った手も空振りに終わりそうだと、そんな不安が心をよぎるときに、それでも神を信じている者には、まだ残されている手があるんだ、というところで出てくる言葉として受けとめて欲しいのです。「信じる者には何でもできる。」とイエスは言われました。しかし、出来ないこともあります。弟子たちがそうでした。病に苦しむ者を前にして何も出来ない、出来ると信じていて、そして出来ない事実の前で途方に暮れているのです。そしていつの間にか信じている自分に自信が持てなくなってくるのです。出来る筈なのに出来ない。もう次の手段はなくなってお手上げです。だからどうしてそうなのかと弟子たちは問わずにはおれないのです。それに対してイエスは答えます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と。「祈るしかない」というのは、出来ない現実を踏まえてなお神に望みを託す信仰を語る言葉なのです。
.
6月22日  「福音として告げ知らされた言葉」
あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
ペトロの手紙(一) 1章23節
ペトロは預言者イザヤの言葉を引用して言います。 「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉はは永遠に変わることがない。」
人生は儚くむなしいという思いがわたしたちにも伝わってきます。死は思いがけない形で人に訪れ、避けることが出来ません。死の前には地位も名誉も富も権力も、すべて無力です。そのむなしさを知っているからこそ、現世の確かさにしがみつき、離れられずに生きているのがわたしたちの現実かもしれません。けれども、ペトロはキリストに結ばれて生きる者たちに語りかけ、「清い心で深く愛し合いなさい」と勧めるのです。なぜなら、「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」者だからです。わたしたちキリスト者の生を支えているのは、わたしたち自身ではなく、変わることのない神の言葉、その確かさだからなのです。人間の生のむなしさの中で、苦しみ悩み、痛む心を支えてなお望みの中に生かして下さるのは、変わることのない神の言葉の確かさなのです。「あなた方の信仰と希望とは神にかかっているのです。」と語るペトロのよりどころがここにあります。すべてが変わり行く中で、変わらないものに生かされる恵みを知る者こそキリスト者ではないでしょうか。ですからペトロは言うのです。「これこそ、あなた方に福音として告げ知らされた言葉なのです」と。
6月23日  「新しい律法」
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
エフェソの信徒への手紙 5章1〜2節
パウロはキリストに結ばれて生きる新しい生き方は「愛によって歩む」生き方だと教えています。パウロは同時に、愛とは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」 力だと考えています。そういう生き方は、まず神に愛されているという事実から出発しています。「神に倣う」ということは神を模範とし、神の姿に自分を似せるという事でもありますから、もともと神に似せて造られた人間が見失ったその神の似像を取り戻す事でもあるのです。ですから、「神に愛されている」事を拠り所にして、新しく生きる生き方を愛の中に実現する事によって、わたしたちは本来の自分というものを回復出来るようになります。イエスが「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と教えられたのは、その事でありました。「倣う」は真似る、見習う、という意味もありますから、それは自分を本物に出来るだけ近づける努力をするという事にもなります。そしてイエスは、互いに愛し合うことは「わたしの掟である」とも言われていますから、パウロが「愛によって歩みなさい」と求めるのは、その新しい掟を守って、生きる努力を求めていると言えましょう。そして、「愛によって歩む」その生き方こそあなたの未来、明日に大きく関わって来ます。それはまさしく新しい命、新しい生き方が花開き、実を結ばせる力となるからです。(参照・3月27日)
.
6月24日  「前向きに生きる」
兄弟たち、わたし自身はすでに捕えたとは思っていません。なすべき事はただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
フィリピの信徒への手紙 3章13〜14節
パウロはキリストを知る知識のすばらしさが、彼に過去のすべての知識も、業績も、どんな価値も色あせて見えるようにし、無にしてしまうほどのものであったと語りました。しかし、彼はそのキリストを知る知識の全貌を見ることが出来たわけではありません。むしろその一端に触れたに過ぎません。しかし、それだけで彼の人生観、価値観というものが大きく変わってしまった、と告白したのです。そして、わたしはそれを得ようと懸命になっているのだと語りながら、ここで、キリストに結ばれている者の真摯な生き方を述べています。後ろのものを忘れて、という事は、彼がいつもキリストにあって新しい出発点、始まりに立っている事を示しています。彼は自分がどう生きて来たかを語ろうとしません。そうはなくて、いつもどう生きようとしているかを語るのです。パウロの目にはキリストに導かれて目指す天国の輝きが見えています。それは希望です。患難をも喜びとし誇りとする秘訣がそこに垣間見えて来ています。わたしたちにとって何よりも大切なことは「どう生きたか」ということではなく、「どう生きようとするか」という事なのです。キリストに結ばれて実現するのはそのような前向きの生き方にほかなりません。パウロはそういう生き方を示しながら、「わたしに倣うものになりなさい」と呼びかけます。キリストに結ばれて新しい命の始まりに立つ者として、共に生き生きとした命を生きようという呼びかけです。
6月25日  「終わりの日に知ること」
すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
マタイによる福音書 25章44節
世の終わりの時、そして、キリスト再臨の時に何が起こるのか、誰でも深い関心を寄せることに違いありません。イエスは、その時に羊飼いが羊と山羊を左右に分けるように、すべての国民は分けられるであろうと言われます。世の終わりの時、最後の審判の時、わたしたちはその何れかに分けられるのです。祝福の座に招かれた者たちは思いがけないことのように、与えられた恵みに驚きを隠し得ません。しかし、呪いへと隔てられた者たちは逆に不満を隠すことが出来ません。彼らは、いつでも主に従い、忠実な信仰生活を送ってきたという自負心と誇りがあるからです。この世の最も小さい者の一人に何かしたか、しなかったか、思いがけないところに主は姿をお見せになっていたのでした。けれども、誰がそのようなところに主がいたもうなどと考えることが出来たでしょうか。これが最も小さい者の一人だと、誰が見分けることが出来たでありましょうか。もしわたしたちの持つ尺度で測り、わたしたちの価値観で見ようとしたら、そこに主がいたもうなどとは到底考えられないことでありましょう。右の手でする事を左の手に教えずには済まされない、そのような心の在り方で、いと小さな存在を指し示そうと思っても、正しく主の所在を示すことは出来ないでしょう。わたしたちは、世の終わりに臨んで、羊と山羊が分けられるように、左右に分けられ審かれて、初めて目を開かれて見る主のお姿の前にへりくだるしかありません。
.
6月26日  「信行不二」
魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
ヤコブの手紙 2章26節
ヤコブの言葉はわたしたちの心に突き刺さってきます。「実践を伴わない信仰は死んだも同然である」と。パウロは「信仰によってのみ救われる」と教えています。それを受けて、ルタ〜はこのヤコブが行いを重視するのを良く思えないのか、この手紙のことを「藁の書簡」と呼んで低い評価を与えています。ヤコブはパウロとは正反対のことを語っているのでしょうか。そうではありません。むしろ、信仰と行いとは不離の関係にあることを強く訴えているのです。王陽明は「知行合一」と言い、「知っていて行わないということは、まだ知っていないということだ」と教えています。信仰もそれと同じで、行いと切り離しては意味がありません。信仰と行いとは別物ではないとヤコブは主張するのです。バ〜クレ〜は「信仰なしに行動へと動かされた人はいまだかっていない。その人の信仰がその人を行動へ動かさないなら、それは本物ではない。信仰と行動は人間が神を体験する両面である」と言うのです。信と行は二ならず、つまり信行不二だと言うのです。しかし、パウロは「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」と言っているではないか、という反論もあるでしょう。おそらくこの手紙が書かれた時代においても「信仰さえあれば」という逃げ口上は大いに利用されていたと思われるのです。確かに、救われるためには信仰以外のものはありません。けれども、ヤコブが言っているのは、信じると言うことは抽象的なことではなく、いたって具体的なことなのだということであったのです。
6月27日 「十字架の言葉」
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
コリントの信徒への手紙(一) 1章18節
「言葉(ロゴス)」は他にいくつもの意味を持っています。陳述、発言、話、物語、教え、説教、知らせ、などなどがあります。捉えようによっては理解の仕方も異なって来ますが、単に[言葉]とすると大分抽象的になって来ますから、英訳聖書などで多く用いられているメッセージという訳語で考えてみたいと思います。つまり、そこでは「十字架の言葉」とは十字架の出来事を語る事ということになります。言い換えれば、イエスが十字架にかかって死んだ出来事を宣べ伝えるという事なのです。しかし、そういうことはこの世の知恵ある者、賢い者たちにとってはばかばかしい事なのです。世間の知恵で言えば世迷いごとみたいなことに他なりませんし、そんなことを言っていてこの世で確り生きていけるはずもない、そう言われてしまうのです。けれども、わたしたち救われる者、つまり、そのキリストを信じて生きる者には、十字架の出来事を抜きにして人生はあり得ませんし、むしろ、そのことこそが生きる強い力なのだとパウロは言うのです。それは「神の力」なのであると。わたしたちは十字架の言葉を語るよりも、むしろ、この世の知恵、この世の言葉を多く語り過ぎてはいないでしょうか。つまり、神の力ではなく、この世の力、人間の力により頼んで未来構築を試みてはいないだろうかということなのです。政治も社会もいろいろな事がどんどん変わって行きます。その変化の中に生きている者として、変わることのない神の言葉、十字架の言葉をこそ拠り所にしなくてはならないのではないでしょうか。
.
6月28日  「神を呼ぶ」
主よ、わたしの祈りをお聞きください。歎き祈るわたしの声に耳を向けてください。苦難の襲うときわたしが呼び求めれば、あなたは必ず答えてくださるでしょう。
詩編 86編6〜7節
「祈るしかない」と思いながら、しかし、どう祈ったら良いのかわからない、そういう悩みに閉じ込められてしまうわたしたちです。けれども、そのようなわたしたちに主イエス・キリストは「このように祈りなさい」と教えて下さいました。それが「主の祈り」なのです。ある人は通勤電車の吊革にぶら下がりながらこの祈りをとなえたと言いいます。考えてみればまるで何かの呪文でも唱えるような感じでおかしくなってしまいますが、それでも、どんな時にも、どんなところでも神を呼ぶ事が出来るようにしていただいた、という思いが溢れて来ます。いろいろな時に「天にいますわれらの父よ」と呼びかけるのも、遠い山に向かって「オーイ」と、或いは、はるかな海の広大な拡がりに向かって呼びかけるように、それだけでは、わたしたちには何の手応えもなく、かえってむなしさを感じてしまうだけのような思いがしないわけでもありません。しかし、天にいます父は呼びかける者に対してむなしさではなく、確かさを返して下さるのです。詩編145編に「主を呼ぶ人すべてに近くいまし、主を畏れる人々の望みをかなえ、叫びを聞いて救って下さいます。」とあります。「祈れない」と悩む人よ。あなたは主を呼ぶ事が出来る。「天にいますわれらの父よ」と呼ぶ事が出来るのです。スペインのことわざに「泣かない子は乳が飲めない」という言葉があります。天の父を呼ばなければわたしの願いは神に届きません。しかし、呼ぶ者に天の父は応えて下さるのです。だから祈りなさい。
6月29日  「神に任せなさい」
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。
ペトロの手紙(一) 5章7節
国語辞典に「思い煩う」は「いろいろと考えて苦しむ」とありました。イエスは空の鳥、野の花を例にあげて「思い悩むな」と教えています。つまり、生きていくためにどうしようか、こうしようかと考えて苦しむなということです。現代社会における人間の状況の一つの特徴は「不安」だと思います。それは「いろいろと考えて苦しむ」ことが多いからです。その苦しみの源を探っていくと「不確か」につながり、そして「不信」ということにつながってきます。今の流行語になっている「政治不信」もその一つです。別な言い方をすれば「信じられない」ということでしょう。どうしてそういうことになったのでしょうか。それは安心して身を委ねられない現実を見ているからです。そして、この「不安」はわたしたちから存在の確かさを失わせ、生きる拠り所を失わせるのです。イエスの言葉は対症療法的に「思い悩むな」と語られているのではなく、人間としての真の拠り所である神への信頼を呼び覚ますものとなっているのです。思い悩まなくても良いのは「神が、あなた方のことを心に掛けていて下さるからです。」とペトロが言うとおりです。わたしたちは、自分の不確かさを通して神の確かさに与る、その道へイエス・キリストによって招かれています。罪がもたらした生の根元的不安から主は十字架によって救い、確かさと信頼に生きる者へと変えて下さったのです。ですからペトロは言うのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」と。神があなたのことを心に掛けていて下さるのですから。
.
6月30日  「赦し合う人」
互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
コロサイの信徒への手紙 3章13節
「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。」 と教えたパウロの言葉を思い起こします。そして今日も同じように、愛に生きることを求められています。しかし今日の言葉は、愛されている事実を「赦し」として捉えているのです。わたしたちは赦されている者なのです、だから、互いに赦すことが出来る人間でなければならない、と教えているのです。キリストに結ばれているということは、神に赦されているという事なのだとパウロは言うのです。ルカによる福音書15章にはよく知られた「放蕩息子」のたとえが語られています。好き勝手に家を飛び出した弟息子が、生きそこねた敗残の身を一度は自分が捨てたはずの父親のもとへ恥を忍んで戻って来ます。その息子をゆるして受入れる父親の姿に託して主イエスは神の愛を語ります。人を赦すときは7を70倍するほど赦せとイエスは教えられました。とても出来そうもないほどの赦しを求められているわたしたちが、実はそれほどまで赦されているのだとしたら、どうして人を咎める事が出来ましょう。けれども、それでも人を赦すということは何と難しい事でしょうか。その難しさの中で、わたしたちはキリストに結ばれているからこそ、赦されて生かされていると教えられているのです。「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と教えられたイエスの言葉が、パウロが「赦しあいなさい」と勧める言葉の背後に生き生きと息づいていることを見落としてはなりません。