いろいろな話題目次 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 索引  .

日々の聖句

[7 月]

7月1日 「神の平和に守られる」
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
フィリピの信徒への手紙 4章6〜7節
パウロの心の中には、キリストに結ばれて神の支えの中に生かされている堅い確信がありました。教会の中の不和もこの支えの上にあればこそ和解と一致へと進む事が出来ます。それゆえ、何事もすべて神にゆだねて、与えられる平安の中に自分を見いだすようにと、問題をもち、解決に苦心しているフィリピの人々に訴えるのでした。何事につけても、神に自分の重荷を委ねるその信頼の中に八方ふさがりの状況を開く道があることを示しながら、思い煩うことをやめなさいと忠告するのです。そうすれば、「人知を超える神の平和」があなたがたを守り、警護して下さると言うのです。普通、わたしたちは自分の心と思いをしっかりと守るのは自分自らの理性だと考えます。自分がしっかりしていなければと思い、そうすればどんな困難にも立ち向かう事ができると考えます。けれどもパウロは、そのような自分の思いにとらわれてかえって不安を増幅してしまうような生き方ではなく、神に自分の思いのすべてを委ねるとき、「神の平安」が、まるで守備隊が警護するかのようにわたしたちを守ってくれると言います。わたしたちの思いをはるかに超えて神はすでにわたしたちの支えとなり、守りとなって下さっているからなのです。それこそキリストの恵みに他なりません。「神の平安」に守られている事を知り、その平安の中に生きることによって、わたしたちは真実に「平和の人」としてこの世に生きることが出来るのです。
.
7月2日 「葬りの備え」
さて、イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
マタイによる福音書 26章6〜7節
この出来事は四つの福音書すべてで語られています。それだけ印象深い出来事であったのでしょう。この女はマグダラのマリアだという伝説もありますが、マタイは特に誰だとも、どういう人であるかも語っていません。イエスのために何かをするとき、そこではその何かをする人を語る必要はないからです。むしろここで語られなければならないのは、イエスのためになされた事柄だけなのです。弟子たちは高価な香油を無駄に使うと言ってこの女を非難しました。しかし、イエスのためには自分の最高のもの、最善のもののすべてを献げて悔いることのないこの女の心は、弟子たちには理解できなかったのです。けれども、彼女はその行為において、彼女自身が知る由もなかったイエスの葬りのための備えをしていたのでした。イエスにとって時宜にかなった行為だったのです。知らずして天使をもてなした人があったように、彼女は知らずして主イエスのために最善の奉仕をしたのでした。イエスは言われました。「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と。彼女はイエスに自分のすべてが受け入れられていることを知るのです。そして、良いおとずれ、福音とともに語り伝えられる良き奉仕の業があることを、わたしたちも教えられるのです。
7月3日  「舌を制する」
舌は火です。舌は「不義の世界」です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。
ヤコブの手紙 3章6節
ヤコブは「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。」と言います。教師には他の人たちよりも厳しさが求められるからなのです。何故なら、教師には語る言葉により一層の誠実さと真実が求められるからなのです。それにしては、いささかわたしたちは安易に教師であることに甘んじているように思えます。しかしいずれにしても、ヤコブ自身も含めて、言葉で過ちを犯すことも多いという自覚が、教師としての責任の重さに言及せざるを得ないのです。ヤコブは「舌は火です。」と言います。語られる言葉はしばしば人間の生活のすべてを狂わせ、身もだえするような苦しみに追いやります。わずか一言が人生を生かしもし、または殺しもするのです。ですから、少しばかり良い顔をして言葉を軽く扱って、教師ぶるのは罪深いことなのだとヤコブは考えます。多弁であることは必ずしも良き教師であることを保証しませんし、言葉の美しさが真実を語る訳でもありません。ですから、舌をコントロールし、語る言葉を吟味し、感情に流されないで、塩で味つけられた言葉を語ることが出来なければならないのです。泉の同じ穴から、甘い水と苦い水がわき出ることはありませんし、いちじくの木がオリーブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶこともあり得ないのです。ですから、わたしたちの口から賞賛と呪いとが一緒に語られるようなことがあってはなりません。信心深いと思っていても舌を制することが出来なければ、舌は火となってその身を焼き滅ぼすに違いないからです。
.
7月4日 「神のミステリー」
兄弟たち、わたしたちもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
コリントの信徒への手紙(一) 2章1〜2節
「神の秘められた計画」というこの言葉は口語訳では「神のあかし」と訳されています。準拠している写本に違いがあるからです。実は、パウロはもともと「奥義(ミュステリオン)」と書いたのであるが、書写するときに1章6節の「キリストのためのあかし」とある言葉にひきづられて「神のあかし」となった、という説がありますし、逆に本来「あかし」とあったのが「奥義」に写し違えられたのだという説もあるのです。いずれにしても、そこで言われているのはイエス・キリストの出来事なのです。その出来事はいたってミステリアスなことなのですし、秘義なのです。とても人の言葉では言い表す事のできないような奥の深いもので、信じるという「神の知恵」によってのみ理解出来る事なのだ、というパウロの思いが溢れているように思えます。ですからパウロは、キリストを宣べ伝えるのに雄弁に頼らないで、また博識にも頼らないで、むしろ、「あなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言っているのです。この世の知恵としてのキリストではなく、救われる人々の中に生きているキリストだけを知ろうとのみ心がけたと言っているのです。神の計画とはキリストに結ばれて救われる人々の中に現れてくる恵みの事実の中に明らかとされる事柄に他ならないからなのです。
7月5日 「父よ」
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、・・』」
ルカによる福音書 11章1〜2節
イエスは神を「アッバ、父よ」と呼びました。親しみのこもった呼び方です。イエスと神との間にはそういう親密な関わりがあり、交わりがありました。スペイン語では親しい間柄になると二人称で相手に語りかけるようになります。「あなた」が「おまえ・汝」という形になるわけです。丁寧さがなくなり、ややぞんざいになると言った感じになりますが、それは誰に向かっても「オレ」を頻発する現代の若者たちの尊大さとは全く違います。祈る言葉がこの二人称になるということは、それは神の尊厳に対する畏怖と、父である神への親しみをこめた表現となるということなのです。わたしたちは「父よ」という呼びかけの言葉に家族的な親しみと、権威ある存在を感じ取る事が出来ます。そして、このように呼びかける事の中に「子」である自分の存在を確かめる事が出来るということなのです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(ガラ3:26)「あなたがたが子であることは 、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラ4:6)と使徒パウロも言っています。イエスはご自分が神を「父よ」と呼ばれただけでなく、彼に結ばれている者にも「父よ」と呼ぶ事を教えられたのでした。ですから、わたしたちが祈りにおいて神を「父よ」と呼ぶ時、わたしたちはイエスと共に「父よ」と神を呼んでいる事を知るのです。
.
7月6日 「なお望みがある」
塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
エレミア哀歌 3章29〜31節
「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と教えられたイエスの言葉を聞いて、どうしてもそのような気持ちになれない悩みと苦しみを味わう人も多いことだろうと思われます。虐げられ、打たれ、痛めつけられるままに甘んじるなどということは、それこそ、みじめな敗北主義と受け取られてしまうでしょう。勇気を出し、敢然と悪に立ち向かうことこそ本当の人間らしい行動なのだと言われるに違いないのです。しかし、ここに語られている言葉の背後には、一切の抵抗が全くむなしくされた人間が立っているのです。「塵に口をつけよ」とは、それは抵抗をやめなさい、降参してしまいなさいということなのです。いつまでも自分の力で戦え得るという望みを捨てなさいということなのです。そうすれば「望みが見いだせるかも知れない」と言われています。望みを捨てた時に本当の望みが現れる、望みがないときに望んで信じることが出来る機会が与えられると言うのです。なぜなら、このような者を神は決して捨てたりはなさらないからです。神を信じるわたしたちの望みとは、そこにかかっているのです。いつまでも自分の何かにこだわって、全く自分を明け渡すことの出来ない者には、この望みは無縁だと言わなくてはなりません。十字架の上で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、すべてを神に託されたイエスを仰ぎつつ、「塵に口をつけ」てなお生きる望みを得たいものです。「主は、決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。」からです。
7月7日 「主はわたしの光」
主はわたしの光、わたしの救いわたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦わたしは誰の前におののくことがあろう。
詩編 27編1節
ダビデは自分の生涯を振り返りながら、さまざまな状況で味わい、知ることの出来た貴重な体験から、神へのより深い信頼の思いを言葉に綴って行きます。敵に攻めたてられて、全く孤立無援の状態におかれた時も、神に対する信頼が彼をしてすべての恐れに打ち勝たしめ、勝利の大きな喜びをもたらしてくれるのです。「人生において、恐れは一番無益なものでありながら、万人に避けがたい感情である。というのは、人生は戦いだからであり、絶えず危険に囲まれているからである。」と、ヒルティが繰り返し強調しています。であればこそ、わたしたちは神に深く信頼してこの恐れを克服したいものだと思います。人間の関係においても、不信は底知れない不安を招きます。けれども、信じあう者たちには希望と喜びがあるではありませんか。もし孤独の中で、頼り、信じあえる友を見失うようなことがあったなら、あるいは、周囲からの非難や中傷の的にされてひどく傷つくようなことがあったなら、そのようなときこそ、人に頼ることの出来ない魂に「わたしの顔を尋ね求めよ」と呼びかけて下さる神への信頼を深めようではありませんか。「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め。」と、ダビデはこの詩編を締めくくっています。「主はわたしの光、わたしの救い」という確信に支えられて、より深く神への信頼に生きようとするとき、如何なる苦境に立たされ、悲しみを味わうとも、神はわたしたちの行くべき道を示し、わたしたちを平らな道へと導いて下さるからなのです。
.
7月8日 「希望を持たない者
また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
エフェソの信徒への手紙 2章12節
「神も仏もない」と言うのは望みを絶たれた者の言葉です。けれども、わたしたち日本人の間では、特にいわゆる知識人と自負する人々の間では、神がないということは決して絶望を意味しているわけではありません。むしろ彼らにとって「神を信じない」という否定の言葉は、自立した人間としての誇り高い謳い文句でさえあるのです。片方では絶望の嘆きとなり、他方では強がりとなるのです。しかしパウロは言います。神を知らずに生きることは、この世で希望を持たないで生きることと同じなのだと。狭い日本の国の中だけに生きるなら、笑って聞き流せる言葉かも知れません。しかし、国際的に生きる場の拡がりを持つようになった今は、心して聞かなければならない言葉ではないでしょうか。「私のアラブ、私の日本」を書いたユスフザイは、アラブ諸国で「あなたの宗教は」と聞かれて、「ありません」と答えてイスラム教徒にショックを与える日本人が多いと言っています。イスラムの人々にとって「宗教を持たない」ということは、単にある種の「信条」を欠いていること以上に、それは人間全体を否定することになるばかりか、社会に対して加害者的な意味を持つのだそうです。わたしも南米ボリビアで、「あなたの宗教は?」と問われた人が「わたしは無宗教だ」と答えたら、「それでは君はバルバル(野蛮人)だ」と言われたという話を聞いたことがあります。神を知らず、希望のない生を誇らしげに語ることは愚かなのです。
「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。」(口語訳・詩編 14編1節)
7月9日  「最後の晩餐」
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
マタイによる福音書 26章26〜28節
レオナルド・ダ・ビンチが描いた「最後の晩餐」の絵は、イエスを裏切る者がいることを指摘されてうろたえている弟子たち、そして、その裏切り者イスカリオテのユダの表情など、見る者の心に強く迫ってきます。しかし、「最後の晩餐」の絵を通して作者が訴えようとしているのはこの聖書の言葉で示されていることではないでしょうか。イエスご自身が自らの命をもって贖い、罪の赦しを与えられた、真の過ぎ越しを成就される、文字どおりの「最後の晩餐」とされたこの出来事に他なりません。イスラエルの民がエジプトから解放されたあの出エジプトの時に流された子羊の血に代わって、新しい救いの契約のための血がここに流されるのです。それは人間の不真実を真実へ転換させる神の真実の証であり、罪の赦しをもたらすものなのです。ですから、この主の食卓に与る者は自分の罪を赦して下さるお方への信仰なしには、到底そこにご自身の体を与えて下さる主のご臨在に接することは出来ないでしょう。聖餐に与るということは、単に主の恵みに与るということだけではなく、罪の赦しの現実に立つことを意味しているのです。ですから、自分の罪を問うことなしに、また悔い改めなしにこの恵みに与るというわけにはいかないのです。
.
7月10日  「生き方」
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。
ヤコブの手紙 3章13節
ヤコブはこの手紙の3章の冒頭で「あなた方のうち多くの人が教師になってはなりません」と警告しています。なぜなら、教師は自分の言葉に責任を持たなければなりません。教師たる者はそれなりの見識を持ち、分別がなければなりません。その生き方は厳しく問われるのです。どの様な知恵に生き、また生きようとしているかが問われるからなのです。ですから、ここではそういう教師になりたいと思っているのは誰なのかと問うているように思えるのです。教会において一つの交わりの中に生き、生かされている者たちの間では、教師たる者は特に、何によってそのように生き、生かされているかを知っていなければなりません。そして、その知っていることにふさわしい生き方というものがある筈なのです。ヤコブが問うているのはそこなのです。「生き方」という言葉は普通「行動・生活・行い」というように訳されているのですが、新共同訳聖書ではここの他に、エフェソの信徒への手紙4章22節でも「生き方」と訳されています。個別の行いではなく、人間の総合的な生活の全体にかかわるものなのだということです。つまり、信仰に生きる人間の在り方として、キリストを知る知恵にふさわしい生き方として、柔和さを表しなさいとヤコブは求めるのです。そのような生き方こそ、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」と言われたイエス・キリストに結ばれて生きる者にふさわしい在り方、生き方だと言うことが出来ましょう。
7月11日  「力を合わせて働く者」
わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
コリントの信徒への手紙(一) 3章9節
ここには「わたしたち」と「あなたがた」という二つの区分があります。「神のために力を合わせて働く者」は「わたしたち」の事であり、「神の畑、神の建物」は「あなたがた」の事なのです。「わたしたち」というのはパウロやアポロ、つまり神の宣教の業に携わっている者たちの事であり、「あなたがた」というのはコリントの教会の信徒たちの事です。しばしばわたしたちは、この「わたしたち」を現在のわたしたちと混同して、お互いに神のために働く同労者として語るようになっています。けれども、ここではそれぞれのセクト、あるいは集団の頭かリーダーに擬されているパウロとアポロの事なのです。性格も、能力も異なる二人でありますが、しかし、「この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。(五節)」とあるのがその「わたしたち」なのです。ですから、もし今のわたしたち≠この「わたしたち」になぞらえて「神の同労者」と呼びたかったなら、それぞれに与えられた分≠尊重し合わなくてはならないでしょう。託されたタラントが異なれば、生み出される果実も異なるはずだからです。大切なことは、どれほどの果実を生み出すかということではなくて、それを生み出させて下さるのは誰かという事ではないでしょうか。時代は大きく変わりつつあります。その変革の時の訪れの中で、今のわたしたち≠烽サれぞれに与えられた分に応じて、神のために働く者として力を合わせ、仕えたいものです。
.
7月12日 「み名の栄光を現して下さい」
「父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
ヨハネによる福音書 12章28節
「主の祈り」においてイエスは父なる神への呼びかけをまず教えられました。そして、祈りはまず神そのものについての祈りから始められています。まず「み名が崇められますように」とありますが、その「あがめる」という言葉は、国語辞書では<このうえないものとして扱う、尊敬する>という意味であると説明されています。しかし、福音書で用いられている言葉は「聖とされよ」なのです。「聖」というは「隔て、分離」を示す倫理的な距離感を表す言葉なのです。親しく「父よ」と呼びかける神の名が、その親しみの中で俗にならないように、という意味に取る事が出来るでありましょう。「俗」とは神のいない世界の事を指します。神の名を呼びながら、まるで神がこの世にはいないかのように生きているわたしたちに対して、神が神として主導権をとって下さい、と祈ることだと言うことができます。エーベリンクは、「これは神のための祈りだ」とまで言っています。わたしたちは何よりも神が神としてある事をこそ祈らねばなりません。ボーダーレス、境界がはっきりしなくなった時代に生きるわたしたちが、ますます神がいないかのように生きているからこそ、この祈りが大事になって来るのです。「父よ、御名の栄光を現してください。」とイエスが呼びかけるのも、神が、わたしたちの現実において確かにわたしたちの神となって下さい、と祈ってくださっている事に他なりません。そして、神はその祈りに答えて下さるのです。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」
7月13日 「信仰による励まし合い」
あなたがたにぜひ会いたいのは、霊≠フ賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです。
ローマの信徒への手紙 1章11〜12節
パウロはローマの信徒に向かって、「互いに持っている信仰によって、励まし合いたい」と呼びかけています。「励まし合う」という言葉は「共に慰め合う」という意味も併せ持っています。わたしたちにとっても、励まされ力づけられるだけでなく、慰められるということも大切な要素であることは言うまでもありません。傷つき痛む魂は、ただ励まされ力づけられるだけでは立ち直れないのです。いたわられ、慰められ、癒されなければならないのです。「天路歴程」の著者ジョン・バンヤンは、「クリスチャンは、同じ庭に植えられたさまざまな花と同じく、風に揺すぶられる度ごとに、露を隣の草の根に落とし、相互いにその成長を助ける者である。」と言っています。信徒の交わりを強めるためには、互いに寄り合わねばなりません。パウロがローマの信徒たちにぜひ会いたい、「霊の賜物」を分かち合いたいと言っているのは、そのような交わりを強めたいという思いから出てきている願望なのです。「霊の賜物」とは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」に他なりません。ローマの信徒たちと互いに励まし合い、慰め合うだけでなく、このような「霊の賜物」を共に分かち合いたいというパウロの心からの願いが、彼にローマを訪れたいという思いを起こさせたのです。その思いが彼に、「ローマにいるあなた方にも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。」と言わせているのです。
.
7月14日  「霊の導きに従う」
霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ガラテヤの信徒への手紙 5章22、23節
人間の心の中ではいつも互いに矛盾している思いが闘っています。パウロはそれを「霊と肉の対立」と呼んでいます。そのことを彼はロマの信徒への手紙の中で、 「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と悲痛な叫びをあげ、告白しています。もしわたしたちが剛直な心でこのような思いに対処しようとすれば、おそらく砕けて散らざるをえないでしょう。罪を現実化する肉の思いに逆らいがたく生きているのがわたしたちなのです。しかし、キリストに結ばれた者たちはその思いを十字架につけてしまったのだとパウロは言います。わたしたちの生きる拠り所は霊の導きにあるのです。霊の結ぶ実を慕い求める心があるならば、霊の導きに従って前進しようではありませんか。「・・・ねばならぬ」「・・・べきである」というような頑なな思いにとらわれず、霊の導きに身をゆだねる自由な生き方を選び取りましょう。それが信仰に生きる生き方ではありませんか。十字架のもとでは肉の思いではなく霊の導きに従う思いが先行するのです。言い換えれば、キリストに結ばれて生きる者は、神に自分のすべてを委ねる者となり、霊の導きのもとに愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制がその内に実る、そういう人生を実現する者なのだという事になります。
7月15日 「夜も昼のごとく」
わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」 闇もあなたに比べれば闇とはいえない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。
詩編 139編11〜12節
人間の心には四つの窓があって、その窓の開き加減で生き方が変わると言われています。外からは見えるけれども内側からは何も見えない窓。反対に内側からは見えるが外からは見えない。どちらからも見えない。そして、外からも内からもよく見える開かれた窓の四つです。いちばん望ましいのはどちらからもよく見える開かれた窓が大きくなることです。お互いの信頼と愛がこの開かれた窓を通して交流し、増幅されて生きる喜びを生みだしていきます。「胸襟を開く」と言われているのはきっとその事でしょう。しかし、不遇の時、失意の時、悲しみの時には心を閉ざしてしまうわたしたちです。どちらからも見えない闇の中に閉じ篭もりがちです。おそらくそういう時、わたしたちは孤独の中で神にも見放されたかのような嘆きを味わうのではないでしょうか。しかしながら、わたしたちの闇の中にも神の眼差しは生きています。わたしたちはまだ見捨てられてはいないのです。神が共にいてくださるところはもはや闇ではありません。神はわたしを知り、わたしを見つめていてくださる、そのことがわたしを勇気づけてくれます。「わたしは世の光である」とイエスは言われました。そのイエスと共にある命こそ光のもとに生かされる命ではないでしょうか。そこでは「あなたは世の光である」とさえ言われるのです。月が太陽の光を受けて輝くように、神が共にいてくださる命は、夜も昼の如く、闇の中にあっても輝くのです。
.
7月16日  「他に道が無くとも」
また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。(口語訳)
マタイによる福音書 26章42節
最後の晩餐を済まされたあと、イエスは弟子たちを伴われてゲッセマネの園に行かれました。捕らえられ、苦しめられ、辱められ、ついには十字架の上で命を絶たれるという、その厳しくまた無惨な破局を前にしてイエスの心は悲しみに満たされ、悶えるのです。「たとえ死んでもあなたについて行きます」と誓った弟子たちの言葉にも安んじることが出来ないイエスです。死の冷たい壁は彼の前に厚く立ちはだかっています。人間としての限界を否応なく知らされるその現実にどう活路を開いて行けるのか、イエスの悩みは尽きません。そこに、人間としてのイエスの姿を見ることが出来ると語る人もいます。けれども、わたしたちは人の子イエスの悩み悶える弱さの中に慰めを見い出すわけではありません。イエスはわたしたち人間の弱さを身に負うて下さる方として、死の壁を越えて生きる道は神への信頼にすべてを託し委ねることだと、望みのない時にも信じて生きる道のあることを教えて下さったのでした。イエスは、深い悲しみの中で血の汗を絞って祈る姿において、全く委ねて生きることが出来る道を示して下さったのでした。人間にとって弱さとはすべての可能性を閉じてしまうことのように見えます。けれども、そのような弱さの中におかれていても、わたしたちに出来ることがあるのです。信じて委ねるということです。「どうか、みこころが行われますように」と祈る、そこに、なお望みに生きることが出来るという全く新しい可能性の中に道が開かれて来るのを見ることが出来るのです。
7月17日  「神に近づけ」
神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。
罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
ヤコブの手紙 4章8〜10節
ヤコブは怒っています。神に背いてこの世を友とし、神から遠く離れて行く魂への抑えがたい悲しみが、このように彼を怒らせているのです。けれども、彼の心はその離れ行く人々へと向けられているのです。悲しさのゆえに目を背けたくなる思いがあるにもかかわらず、それなのに、彼はじっと悲しみに耐えながら彼らから目を離そうとはしません。そして「神に近づきなさい」と叫び、呼びかけるのです。神の大きな平安の中へ受け入れてもらいなさい、と叫ぶのです。人間の側から神に近づくことなど出来はしないのだと、何か小賢しげに理屈を振り回す人もいるかも知れません。けれども、神から離れようとする思いがあるならば、神に近づこうとするのも理屈に合わぬ話ではありません。やはり懸命に神に近づこうとしなければなりません。障害がありましょう。挫折もあるだろうと思います。近づこうとすればするほど遠く感じられる、そう思う時だってあるに違いありません。笑いが悲しみに、喜びが憂いに変わるときだってあるのです。けれども、わたしたちが神の前でそのようであるとき、神はわたしたちに最も近くおられるのです。神に向って歩み始めたならば、悲しみの涙で視野が曇り、憂いの重さで瞼が閉じられようとも、あなたの行く道に神はあなたへ向かって近づいていて下さる、そこで神はあなたに出会って下さるのです。
.
7月18日  「パン種の入っていない者」
いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
コリントの信徒への手紙(一) 5章7〜8節
パウロはコリントの教会の人々の中にある不品行を厳しく非難いたします。しかし、そんなことも人間の自由な生き方なのだとうそぶかれてしまうのです。それは道徳心の問題ではなくて、人間の人間らしい生き方を求める姿なのだと言われるのです。そのような批判をする人間の頭の固さ、古さの方が問題なのだとまで言われかねないのです。けれども、パウロはコリントの人々をただいたずらに非難しているのではありません。自分たちは本来どの様な存在であるのかということを問題にしているのです。小さなパン種でも大きな固まりに膨れ上がる力を持っています。ヤコブの手紙の中に「欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」という言葉があります。小さなパン種でも恐ろしい結末を生み出すのです。だから古いパン種は取り除かねばなりません。しかし、キリストに結ばれた者は新しく造られた者です。種なしで焼かれたパンだと言われています。エジプトの奴隷の地からイスラエルの人々が解放された時、新しい約束の地への旅立ちに備えて人々は種の入らないパンを焼き過越を迎えました。キリストに結ばれてわたしたちは種の入らないパンとして焼かれたのです。それは、過越の子羊として屠られた方にふさわしくわたしたちが生きるためなのです。
7月19日  「御国を来たらせたまえ」
ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
ルカによる福音書 17章20〜21節
「祈りとは神に向かう事である」とはよく言われている事です。エーベリンクは「祈りとは未来に向かうことである」と言っています。そして、「主の祈り」の中でわたしたちは日毎に「み国を来たらせたまえ」と祈りを繰り返します。「神の国はいつ来るのか」という問いは、ファリサイ派の人々だけでなく、この祈りを繰り返すわたしたち自身の問いでもあることを告白せざるを得ません。わたしたちの祈りは常に明日に向けられて行きます。そして残念なことに、しばしば今、自分に訪れている神の恵みの現実を見つめることをおろそかにしてしまうことが多いのです。イエスは「神の国はいつ来るのか」との問いに対して、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と答えられました。神の国とは神の支配なさる領域のことです。神が働いておられる現実なのです。ですから、イエスの答えは、神は今あなた方の間に働いておられるということに他なりません。今あなた方の中に働いていたもう神の恵みの現実をしっかり見つめなさいということではないでしょうか。イエスが教えられた「み国を来たらせたまえ」との祈りは、いまだ実現していない神の国の到来を願い求めてではなく、神の子イエスにおいて既に実現した神の恵みの事実へとわたしたちを導いて行き、濃い霧の中で行くべき道を見失い、自分の所在すら不確かとなってしまうような人生の危機に臨んでも、神共にいます確かさの中で支えてくれるのです。
.
7月20日  「罪の対義語」
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
エフェソの信徒への手紙 1章7節
エデンの園でアダムとエバは蛇にそそのかされ、禁断の木の実を食べ、戒めを破り神に背きました。それ以来人間は神を恐れる心を持つようになりました。「畏れる」心は神に人間を近づけます。しかし「恐れる心」は神から人間を遠く引き離し遠ざけます。罪とは神から遠ざかる心なのです。そして、神から遠ざかれば遠ざかるほど、人と人との間も遠くなるということをわたしたちは知らされるのです。その遠さは人間の孤独の深さに正比例します。太宰治は「人間失格」という作品において、「罪の対義語は何か」と問うています。人間失格と言うとおり、人間が人間でなくなる恐れが「罪」を問わせるのです。そして、罪の対義語がわかれば救われると考えるのです。しかし、太宰はとうとうこの問いに答えを得ないままに自滅して行きました。
 聖書は、神に逆らい、恐れ、遠ざかって行く人間の罪の結果は死であると告げています。神は人間のこのような運命を黙視し得ません。神は人間をご自身において生かそうと望まれます。それ故、神の子イエス・キリストを十字架につけ、神と人との間を引き裂く隔てを打ち壊し、キリストによって神に新しく生きる道を備えて下さったのです。背いた者を審きによってではなく、赦しによって新生の道を開いて下さったのです。そのことを信じる者こそ、神を真実に畏れ、神に近づくことが出来るのです。ですから、罪の対義語は何かと言えば、それは「信仰」だと言わざるを得ません。そして、信ずる者は生きるのです。
7月21日  「主に依り頼め」
最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。(新共同訳)
最後に〔言います〕、主にあって強くありなさい〈彼との結合によって力づけられなさい〉。(詳訳聖書)
エフェソの信徒への手紙 6章10節
「主に依り頼み」とある言葉はギリシャ語で「エン・キュリオー」となってます。この言葉は、新共同訳では「主に結ばれて」と訳されているのが普通なのですが、ここだけは「主に依り頼み」と訳されているのです。詳訳聖書によると「彼との結合によって力づけられなさい」と言葉が重ねられています。「主に結ばれる」ということは何か形の上での結合ではなくて、深い信頼に基づくものなのだということを、この「主に依り頼み」という訳は語っているに違いありません。ある1枚のポスターに、「もし、綱のはずれにきたら、結び目を作ってそれにしがみつくことだ」という言葉が書かれていました。結び目はすがりつくためにあるのです。キリストに結ばれる、主に結ばれるということは、キリストにしがみつく、主に依り頼むということではないでしょうか。綱をつかんでいる自分の手の力の及ばない時も、この結び目がわたしたちを支え助けてくれる、ということなのです。しかもこの結び目があればこそ、もう少しで転落という危機から救われるのです。キリストに結ばれているということは、わたしたちの人生に最後のふんばりどころを持っている、ということでもあります。だから、土俵ぎわでしっかり踏み堪えて勝利を得られるように、キリストに結ばれていなければなりません。パウロは、その結び目の偉大な力によって強くなりなさいと励まし、勧めているのです。
.
7月22日  「足を洗うイエス」
イエスは、・・食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
ヨハネによる福音書 13章4〜5節
最後の晩餐においてイエスは、上着を脱いで弟子たちの足を洗われた、とヨハネは伝えています。足を洗うとは大変象徴的な行為です。最後の晩餐が単なる別れの宴ではなくて、イエスと弟子たちの、そして神と人との聖なる交わりを表し、キリストの体と血に与ることによって救いの恵みを新しくされるという秘儀を表すものとして理解されるのですが、そこで示されたイエスの姿は「仕える者」として世に来られた神の子の姿そのものでありました。ペトロが驚いて、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。それは足の汚れを清めることであるよりも、かかわりをしっかりと持つという行為でありました。仕えるということはかかわりをつくり出す働きであることをイエスの行為と言葉が教えてくれます。神は、神とのかかわりを持たず、また持とうともしない者たちのために、イエス・キリストの体と血によって新しいかかわりをつくり出して下さいました。そのことを通して神はわたしたちへの愛を示して下さったのです。イエスはまた、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」と教えられました。神とのかかわりを回復させられた者は、また互いの正しい愛のかかわりを回復し合わなければならないのです。
7月23日 「神の恵みによって」
わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。
コリントの信徒への手紙(一) 15章9〜10節
パウロはいつも自分が神に召し出されたときのことを考えています。それは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。」と問いかける時も、その思いは同じです。彼の答えは、神はこの世の「無に等しい者」をあえて選んで下さったということでありました。パウロによれば、それは、生きるに値しない者が生かされ、用いられているという喜びと感謝の人生体験なのです。それこそ「救いの恵み」に他なりません。使徒と呼ばれる値打ちの無い者が「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と語ることが出来る、すべて神のおかげなのですと彼は告白するのです。パウロの言葉を聞くと、無力な弱い人間が、いろいろな人生の苦しみを味わいながらも、何とかこうして今日に至り得た、本当ならばとうの昔に挫折し、敗残の身をさらさなければならない人間が、こうして人並みの生活が出来るようになったのも、みんなすべて神のおかげ、神に召されたからだと、そう言っているように思えるのです。わたしたちも神の恵みを証する時、自分の今の幸せを考えながら、感謝の思いを同じ言葉に託すことがあります。永井訳は「神の恵みにて我は我なる者なり」となっています。神に召され、生かされる恵みによって、無に等しい者が有る者とされ、存在する価値を持つ者として、自分をそこに見い出すことが出来るようになったと、喜びと感謝をこめて告白する言葉となっているのです。
.
7月24日 「愛され、生かされる」
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3章16節
「愛されなかったということは、生きなかったことと同じである」と、ドイツの女流作家ルー・サロメが言っていますが、それは、「愛されるということは生かされることである」ということの反語であると言えると思います。ですから、神がその独り子を与えられるほどこの世を愛して下さったということは、それほどまでしてわたしたちを愛し、生かして下さったのだということに他なりません。ですから、神に愛されているというその事実に目覚めるところから、わたしたちの新しい命が始まると言っても良いのではないでしょうか。そして、神の愛に触れるということは神の痛みに触れるということでもあるのです。ヨハネの手紙(一)3:16に「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」とあります。神の痛みに触れて愛されていること、生かされていること、その重さ、深さを知るようになるのです。そこから「わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」と教えられたイエスの言葉へと導かれていきます。不思議なことに、イエス・キリストに結ばれて生きる時、わたしたち自身が味わう痛み、苦しみが、神に愛されている確かさへと目を開かせてくれるようになるのです。そして、艱難も、苦しみも、飢えも、危険も、何もキリストの愛からわたしたちを引き離すことは出来ないと、声高らかに讃美する者とされて行くのです。
7月25日  「安息日」
ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。
マルコによる福音書 2章23〜24節
安息日を守るということが律法的にとらえられるのは今も昔も変わりがありません。もともと十戒の中の第四戒として定められているからです。申命記の5章でも十戒が記録されていますが、そこではこの「安息日を守る」ということが出エジプトの出来事に深く関係づけられていることが注目されます。元九州大学教授滝沢克己はそのことを大変興味深い言い方で説明しています。「イスラエルの民はエジプトを脱出したが、追いかけてきたパロの軍隊に紅海のところで追いつかれ、もう死ぬばかりになったところで、紅海の水が分かれて道が出来、そこを通り、九死に一生を得て救われた。普通なら滅びる筈の民が滅びないで生き延びた。生きている筈がないのに生きている。そのことをしっかり心に留めないで人間が生きるのは間違いだ、という考えがイスラエル人にはずっとあった。」と言っているのです。安息日を守るのは自分が神に生かされているということを心にしっかり留めることだと言うわけです。ファリサイ人たちにそのような理解は全く見受けられません。「してはならないことをしている」とイエスの弟子たちの行為を咎めているだけです。けれどもイエスは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われ、神に生かされる者のためにこそ安息日があることを強調されたのでした。
.
7月26日 「み心をなさせたまえ」
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
マルコによる福音書 14章36節
「み心が行なわれますように」との祈りは、「み国を来たらせ給え」と祈る者にとって切実なものとなります。この祈りもまた、神はこの世にはいたまわないのかとしか考えられない神不在の悲しみを背景にしているように思えます。そのような苦悩を背景に、ひたすら神の臨在と助けを求める祈りにもなっているのです。この世には、神のみ心は行なわれていないという嘆きがあればこそ、この祈りはより切実なものとなってきます。しかし、イエスがこの祈りをそのような嘆き節として教えられたとは思えません。この祈りには神のみ心が行なわれる所にこそ自分の生き得る場があるという神への深い信頼に基づいている求めがあるのです。イエスもゲッセマネの苦渋に満ちた祈りの中で、父なる神への信頼を溢れさせながら、み心の実現を願われました。ですから、わたしたちの祈りにもこの信頼が求められているのです。神がそのひとり子を与えて下さったほどこの世を愛し、わたしたちを愛してくださったその恵みへの深い信頼が、み心の実現を願う祈りを呼び覚ますのです。たとえこの世にみ心が現れていないようであっても、そのような人間の悲惨と不幸の中にあっても、しかし、み心が実現する所にこそわたしたちの真の命が現れて来る、そういう信頼がこの祈りにはこめられているのです。悪しき現実がみ心なのではなく、むしろ、それを超える信頼のなかにこそ、み心は実現して来るのではないでしょうか。
7月27日  「よい羊飼い」
「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。
エレミヤ書 23章1節
「小説には純文学も大衆小説もない。小説にはよい小説とよくない小説があるだけだ。」と、作家山本周五郎は言っています。似たようなことを言うと誤解されるかもしれませんが、牧者にもよい牧者とよくない牧者がいるのです。山本は「文学というものは、最大多数の庶民に仕えるものでなければならない。」と考えています。そこからよいかよくないかの判断が生まれてくるのです。よい牧者か否かも「仕える」心の有無によって決まるのではないでしょうか。
 イエスは、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。」と言われました。そして、「仕える」ということを「命を与える」ことと同じ意味で語っているのです。ですから、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とイエスは言われるのです。エレミヤは、牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちへの警告に続けて、「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われると、散らされて危機に臨んでいる人々に対して、真実の牧者、命を与え生かしてくださるお方の到来を予告するのです。羊たちを滅びるままには捨て置かれない神の御心が示されるのです。「主はわたしの羊飼い」と言い表すことが出来るのも、真の羊飼いイエスとの出会いを通して実現することに他なりません。
.
7月28日  「キリストの心」
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
フィリピの信徒への手紙 2章3〜5節
パウロはここで、わたしたちの中にある思いがキリストにもあると言っているのではありません。「それは」とあるのを前の節の事だととれば、わたしたちの道徳的知恵がキリストの内にも見られるという事になってしまうでしょう。しかし、パウロが言いたい事はキリストがわたしたちにどういうお方であったかという事ではなかったでしょうか。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われたお方はこんなお方だったのだ、そういう思いでパウロはキリストの謙遜と従順を次節以下で語っているのではないでしょうか。口語訳では、「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」となっていますが、思いが一つにされる鍵は「へりくだって」という言葉にあるように思えます。しかし、「高慢のマントにすぎないような謙遜さがある」と言った人があるように、わたしたちが試みる人為的な謙遜さが偽善、人間のうぬぼれの裏返しであるような場合だってあります。そのような謙遜さの下で一つになるのは容易なことではありません。ですから、キリストに結ばれて生きる者の間では、キリストの謙遜に支えられてこそ「思いを一つ」にする交わりが生まれてくるのだと言わなくてはなりません。文語訳の「キリストの心を心とせよ」という、この訳にわたしの心が惹かれるのもそこに一番の理由があるのです。
7月29日 「賢く振る舞う」
時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。
コロサイの信徒への手紙 4章5〜6節
「賢くふるまう」ということと「塩で味つけされた快い言葉」を使うということは深く関わり合う事柄であるに違いありません。わずかな一言でもいたく人を傷つける場合があります。それに気づいたときに、その言葉を発した自分の愚かさや心配りの足りなさを悔やむのも人の常です。知恵ゆたかで、知識に溢れ、才能に恵まれた人の言動には目を見張る思いがしますが、しかし、切れ味するどく迫る言葉に身も凍る思いをさせられる時は、いささかの温かみと思いやりが欲しくなるものです。「快い言葉」ばかり並べるのは何か作為的でよくないと批判されるかも知れません。かと言って「鋭い言葉」の連続では心が傷つきます。言葉も「塩で味付け」され、よく馴染んだものを使わないと「共に生きる」のは難しい、と思います。それは決して賢いふるまいではないでしょう。「時をよく用い」と言われている言葉を吟味すべきです。悪しき時代こそ、愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩まなければならないのです。 エジプト王の圧迫のもとで苦しんでいたイスラエルの民の危機の時、産まれる男の子の命を絶つようにという王の命令に従わず、男の子を生かしたシフラとプアという助産婦たちの、「ヘブライ人の女は丈夫で、助産婦の行く前に産んでしまうのです」と答えた賢さは、神への深い信頼から生み出された知恵によるものであることと、またその言葉は「塩で味付けされた言葉」の生きた見本でもあることをわたしたちに教えてくれているのです。
.
7月30日  「見捨てられても」
3時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書 27章46節
見捨てられるということは、本当につらく悲しい体験です。かって北海道大雪山系の山の中で、救いを求めて木文字でSOSを描いた人がありました。その人の姿はついに発見されませんでしたが、どのような絶望的な時をそこで過ごしていたのかと、思うだけでも胸が痛みます。
 捕らえられたイエスは、辱められ、十字架につけられ、「ユダヤ人の王」という札をつけられて死へと追いやられました。たとえその名が彼らにとって実質的な意味を持つものではなくとも、ユダヤ人である者たちがその名をあざけり、罵り、辱めるとは、彼ら自らを犯す愚かな行為であったとしか言いようがありません。イエスはそのような彼らの嘲笑の中で見捨てられ、死の苦しみを味わう最中で、神を呼び、叫んだのでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。それは彼の人間としての弱さだったのでしょうか。しかし、断末魔の苦しみの中で神を呼ぶイエスの姿は、わたしたちもまたキリストに結ばれる者として、その弱さに生きることが許されており、そして、神を見失うような危機にさらされる時でも、そこでも、なお彼と共に神に向かって叫ぶことが出来るのだということを教えられるのです。そのようなわたしたちの叫びは、やがて、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」確信となり、信じる者の心の中にこだまとなって返ってくるのです。
7月31日  「主の御心に生きる」
あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
ヤコブの手紙 4章14〜15節
ヤコブは人の命を霧にたとえて、そのはかなさを訴えつつ明日の確かさは手元にはないのだと語ります。そして、「むしろ、あなたがたは『主の御心であれば』生き永らえて、あのことやこのことをしよう、と言うべきだ」と言うのです。それは、明日はすべて神のみ手の内にあるという信頼に一切を托して生きることであり、その信頼の中でこそわたしたちの生も働きも意味を持ってくるのだ、ということに他なりません。霧にしかすぎない人間存在がそのはかなさを通り抜けて、確かな今を生きることが出来るようになる、その源こそ神への信頼であり、信仰なのです。「御心ならば」というのは決して逃げ口上ではありません。イエスもゲッセマネの園における祈りにおいてこの言葉を出しておられます。パウロもしばしば「神の御心ならば」とか、「主がお許しになれば」とか語っています。わたしたちは2羽1アサリオンで売られる小雀でさえ、神のお許しがなければ地に落ちることはないと教えられたイエスの言葉を思い起こすべきでありしょう。神の御心の内にある時こそわたしたちの人生は輝きを増し、生きる意味を持ち、確かとなってくるのです。そういう事を信じて生きる者こそキリスト者ではないか、とヤコブは語っているように思えるのです。霧のような儚さの中に浮かぶ自分を頼りに、つかみ所のない明日を確かと思い違えて今日を誇り高ぶることをやめて、神にすべてを委ね、主の御心に生きなさい、それがヤコブの訴えです。